2004/01/31 ()  晴れ





人は自分の生の声を客観的に聴くことはできないのだという話をテレビでやっていた。
だから、テープレコーダーなどで再生された自分の声に違和感を覚えるのだそうだ。
しかし、他人の耳に届いている“私の声”は録音された“私の声”だという。

自分が発した声を自分で聴くのは、
複雑な身体内部の共鳴や空気振動などが交じり合って知覚され、
他人の耳に届く“私の声”は、空気振動を通してのみ他人の耳に伝わる音である。

同じように、人は自分の生の顔を客観的に見ることはできない。
目は顔の平面に張り付いて、常に前方だけを見ることしかできないからだ。

そんなことを踏まえて考えてみると、
人は誰も、総合的な自分を自ら客観的に把握するのは難しいと思う。
また、それは仕方のないことだろう。

自分では嫌だと思う自分のあれこれが、
他人の目からは好ましく見られていたりすることもある。

反対に、自分はこれが自慢だと密かに自信のタネとしていることが、
周囲には認められないという現実もあり得る。

他人をうらやみ過ぎたり自分を卑下し過ぎたりせず、
自信過剰も控え、他人を軽視せずに、
謙虚に暮らすことが大事なんだと、
ときどき、気が付く。
(たいていの時間は、こんなことを忘れ去って生きているが)

「自分のことは自分が一番よく知っている」なんて、ほんとうは誰にも言えない。
それは、人類みな同じ。
他人がどう受け入れてくれるかに照らし合わせながら、人間社会の中で生きている者どうしならば、
自分を映す鏡とも言える他者を大切にしなくては、と思ったりする。

2004/01/27 (火)  晴れ





二時間のサスペンスドラマ、肝心の謎解きの場面を見逃してしまった。
あ〜あっ!何がどうしてどうなってこの結末を迎えたのか、
サッパリ解らないままに終わってしまった。
途中で眠ってしまってはダメなのね、トホホ。

2004/01/25 ()  晴れ





夕方、自宅近くのスーパーに買い物に行った。
肉の売り場で品定めをしていると、太もものあたりをドンドンと押される気配が・・・
「???何事?」
と振り返ると、2歳くらいの男の子が菓子の袋を手に、
何やら言いながら私をしきりに突き飛ばしている。
突き飛ばされるとは言っても相手は幼児、大した事ではない。

「親はどこに?」
と探そうと思うまもなく、若い父親が飛んで来た。
彼は、「こら!」とたしなめながら子どもの腕を引いた。

まあそこまでは、最近の若い親にしてはしっかりしていると思った。
しかし、もう一声、私に向かって「済みません」の声が欲しかったなぁ。

私も、自分自身が次第に小うるさい“オババ”になっていることを自覚している。
だから今日は、その場で説教めいたことを言うことは控えたけれど、
こうしてどこかに書いておいたほうが良いような気がした。

大勢の人間がぶつかり合うようにして暮らしていれば尚のこと、
他人を押しやるのではなく、お互いに気遣いあって暮らしたほうがいい。
そういうことを子ども達に伝えていけたら、どんなに住みやすくなるだろう。

「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」「お手伝いしましょうか」等など、
人間関係を滑らかにするための些細な言葉の数々を教えられるのは、親しかいないと思う。

2004/01/24 ()  曇り





「情報の洪水」という言葉が使われ始めたのは、いつの頃からだったろうか?
最近特に、情報の海でアップアップして溺れそうな自分を意識している。
そんなに何もかも知っていなくてはいけないのだろうか?

古来、「知らぬが仏」と言う。
これは、
あえて知らずとも済まされることは知らぬままにしておいた方がこころ穏やかに暮らせる、
という肯定的な意味合いだと思う。

昔は、
知りたくても知る手段も少なく、
知っておかなくてはならないことも限られていたのだろう。

今は、
知りたくなくても知ってしまう。
そうなると、もっとその先を知りたくなる。
そして、結果までを把握したくなる。
それもせっかちに欲張りに。

そして、人は疲れ果てる。

一度進み始めた人類の時計を巻き戻すことはできない以上、
前進と上昇を望むのは人の宿命と言えるだろう。

が、
ときどき、立ち止まりたい時もある。

『仏』には、なかなかなれない。

2004/01/21 (水)  曇り  ときどき  晴れ





“気功”という健康法がある。
身体の中に“気”をみなぎらせることで、悪い部分を改善していくという。

あまり健康法には凝らない私だけれど、
このところ自己流でやっていることが、いわゆる“気功”に似たものであるらしい。

何かを思いつめたり、悩んだり、苦しんだりすると呼吸が浅くなる。
体は酸素を必要とするのに、浅い呼吸では十分に体中に新鮮な空気は行き渡らない。
その結果、肺や心臓の負担は大きくなり血液の流れも勢いをなくして行くだろう。
それでは酸素を多量に必要とする脳も活性化しないはず。

呼吸の基本は「息を吐く」ことだとは、エアロビクスで教わったこと。
そこで私は入浴中に深呼吸をすることにした。
ゆったりと湯船に浸かり、まず口をすぼめてフーーッと息を吐く。
次に鼻から大きく息を吸い込み、再び長く深く息を吐く。
これを数回繰り返す。
吸い込む空気は適度に湿っていて調子が良い。

日中も意識してこの呼吸をしていると、
知らぬ間に気持ちが落ち着いてくるような気がする。

健康維持とは、常に自分の体が発する声に耳を傾けていることかも知れない。
体は、声なき声で意外に多くを語りかけてくれる。

まあ、体調が整っている時には、こんな風に前を向いて考えることができる日もある。

2004/01/20 (火)  晴れ





人間ドックの結果をもらって、再検査項目の受診で近くの医大病院に行った。
待合コーナーに、2−3歳の女の子がいた。
甲高い声で終始しゃべり続けている。
ちょっとうるさい。
が、たしなめたり話し掛けたりする親の様子が感じられない。
あまりジロジロ見るのも憚られるので、こちらは我慢していた。

そのうち私が診察室に呼ばれて診察を受けていると、
外でギャーギャーと、その子どもが駄々をこね始めた。

慌てて看護師の一人が飛び出して行き、あーだこーだとなるべく穏やかに冷静にあやしている。
相変わらず親の気配が感じられない。
くだんの女の子は、看護師の語り掛けにいっちょまえの口ごたえをしている。
看護師のあきれ返った困惑振りが、扉越しに伝わって来る。

診察室から出て行って「静かにしなさい!」と言いたいところを、グッと抑える私。

なぜ、公共の場での振る舞いを“その場”で教えないのか?

チョロチョロしたり、辺り構わず大声でしゃべり続ける子どもが憎いわけではない。
そのことをたしなめたり、うまく気持ちを紛らせてやったりする親の工夫が見られないことが気になる。

「シーッ、ここでは静かにしようね」「ちょっとこっちにいらっしゃい」「この絵本を読んでいようか?」
などの呼びかけ声が聞こえたなら、周囲の人間の感じ方も違うはず。

幼い子どもがすぐに聞き分けないことは、子育ての経験者であれば承知している。
それを承知した上で、子どもというものはその都度その場所で教えなければ覚えませんよ、
と言いたい。

公衆道徳の習得は、親の意識に負うところが大きい。

「小さな積み重ねこそ、大きな成果につながる」と思う。

2004/01/18 ()  快晴





子どもの頃は、活字になったものを素直に受け止めて信じていた。
少々の疑問を抱いても、自分の考えを修正して活字のほうに合わせることが多かった。
活字にされたものに間違いは無い、そう思っていた。

いま手許に一冊の文庫本がある。
散歩の途中でフラリと立ち寄った書店で買って来た。
「生き方や人間関係の心理」に関する本を多く出版しているある著名な人の本だ。

実は今、この本を買ったことを深く後悔している。
ほんの数ページ読んだだけで、私はとても不愉快になっている。

どんな人が良くてどんな人が良くないかなど、いったい誰に言う権利があるだろう。
ある人にとっては相性であり、また別な人にとっては相性ではないとは言えるかもしれないが、
あなたが付き合う相手としてこんな人は良くないなどと例をあげられれば、
良くないとされた側に心当たりする読者は救われない。

書店には多くの「人間関係や心理のHow to 」とも言えるような本が並ぶ。
こうした本を選ぶ時には、よほど内容を吟味しなければ、読み始めてから後悔しそうだ。

限られた時間で読む本なら、元気をくれそうな本を読みたい。

2004/01/17 ()  曇り  夜になって雪





いったい、どうしちゃったんだろう?
なんてつぶやきたくなるような出来事が重なっている。

BSEの牛が見つかれば、たちまち牛肉の流通はストップし、育てられた牛は処分される。
SARSの感染源がハクビシンらしいとわかると、かの国ではハクビシンの撲滅に走る。
鳥インフルエンザが発生すれば、おびただしい数のニワトリが葬られる。

珍しいものをたらふく食べたいと思っているのは誰なんだろう?
その為に、無理やりにでも生物を育てて食卓に供することになる。

自然に任せておけば、安定した食料としての確保は難しい。
となると、あらゆる人工的な手段を用いて次から次へと、
生物でありながら工場の生産物のようなシステムで“命”が育てられることになる。

その一方では、
健康管理に関心が集まり、肥満に悩む声は後を絶たない。

一旦前に進み始めた『欲』というのは、
後戻りしたり捨て去ったりすることは難しいのだろうか?

「生きるために食べるのか?食べるために生きているのか?」

2004/01/15 (木)  晴れ





昔から行われていることで、
何の疑問も感じないで当然のことだと思っているけれど、
実は、日本だけの慣習であるということを知ることは興味深い。

今日、新聞の読書欄で、ある本の紹介記事を読んだ。

日本ではお葬式の弔辞は、死者の棺に向かって呼びかける。
これは当然のことだと思っていた。

ところが、死者に向かって弔辞を読むのは日本だけの習慣らしい。
外国では、会葬者にスピーチすることはあっても、死者に呼びかける形式の弔辞はないらしい。

件の書物は、歴史に残る弔辞を考察した一冊。
読んでみたい。

2004/01/14 (水)  晴れ  雲多し  強風





「今後は、アジアの中でどのような役割を果たしていけるかが重要になるでしょう」
と、ラジオから時事問題解説者の声が聞こえた。

韓国の目覚しい経済発展のニュースは、もう耳新しくない。
ここ数年は、「眠れる獅子」と言われる中国の動きが活発になっている。
インドは、ITを考える上では外せない技術力と人材の宝庫らしい。
日本の生産部門を考えると、東南アジアの果たす役割は無視できない。

一時期、トップランナーかに見えた日本も、
今は、各方面での低迷や混乱で喘いでいる。

ラジオの解説者の結論付けたように、
これからは、アジア各国との協力・協調関係が大切なんだろうなと、
国際関係にど素人の私にも切実に感じられる昨今。

今一番問われているのは、
内政外交を問わず『明らかな政治力』なのだろう。

それにしても、
季節の気温も社会状況も、厳しい冷え込みのこのごろ。

2004/01/11 ()  晴れ  少し強めの風





去年の暮れ、応募しておいたハガキで一枚の映画チケットを手に入れた。
タイトルは「半落ち」、劇場公開は年明けて1月10日より。

新聞や雑誌、テレビなどの記事やCMで、
その映画の内容には期待を込めた関心を抱いていた。

昨日から公開と言うことで、今朝は一回目の上映に間に合うように出かけて行った。
いつもならそんなに混まない映画館で、
しかも、朝早い時間ということもあり入場者の少ないことを予測していたが、
案に相違して、まあまあの入り。
中高年者のカップルが多かった。

「あなたは、誰の為に生きているのですか?」
「あなたには、守りたい人がいますか?」
展開するストーリーの中で、幾度か繰り返された印象深いセリフ。

アルツハイマーに罹り人格が壊れていく不安と怖れにおののく身内を抱えた時に、
家族はどのように患者に向き合えば良いのか?

断ち切っても構わないと、一旦は思い定めた命をつなぎとめたものは・・・

『いのち』とは、単独では保ち得ないものであり、
何かの誰かの役に立つということが、
すなわち、
『いのち』の存続を強く促す根拠となる。

エンディングの場面に森山直太郎の「声」という歌が重なり、
スタッフロールが流れ終わって、
主人公のこれから生きていく「人生」の重みが心に残った。

それにしても、今回の主演は寺尾聰なのだけれど、
ここ数年間、私の感動した映画には必ずと言っていいほど彼が出演していることの偶然。
「雨あがる」「阿弥陀堂だより」そして今日の「半落ち」。

とにかく、いい映画だった。

2004/01/07 (水)  晴れ      七草





歯が痛い。
でも、虫歯ではない。
どうも、副鼻腔炎の炎症が作用している疑い、
とのことで耳鼻科を受診して来た。

診立てにあたってくれた医師は若かった。
説明の口調も頼りなく、
私は内心(オーッ、ダメだこりゃ)と思った。

(まっ、薬の処方箋をもらえれば、それでいいか)
ということで、とりあえず診察を受ける。

「あの〜先生、喉の奥に気になる突起があるのですが、それも診て頂けますか?」
とお願いして口を開ける。
若い先生は、何度か口の奥を診るべく、私の口内にへらを差し込む。
何度やっても上手くいかない。

実は、私は喉の奥を診られるのが『超』苦手。

何度か試しても上手くいかないと知った先生は、
ガーゼで舌をはさむ手段に出た。
ガーゼで舌をはさんで、少しばかり力を入れて舌を押した途端に、
「オエーッ、オエーッ」とえづいた私。
と同時に先生の取った行動は素早かった。
ガーゼを私の口に中に押しやって、自分はサッと後ろに退いたのである。

ふっふっふ、私は「オエーッ」となっても、決して吐瀉することはないのだ。
その先生の素早い行動に、胸の中で独り笑ってしまった。

この先生も、今は若い。
しかし、いずれは経験を積んでベテランの医師になって行くことだろう。
ひたむきに、私の喉の奥にあるというその突起を確認しようとする若い医師には好感を持てた。

ひととおりの診察を終えて、無事に抗生剤と鎮痛剤を処方してもらった。

先生、がんばって、頼り甲斐のあるお医者さんになってね。

2004/01/06 (火)  晴れ        小寒





今年はずいぶん暖かい(寒の入り)になった。
とは言っても、早朝の畑に下りた霜に、季節らしい寒さを感じる。

気が付けば、ロウバイの花は咲き、梅の蕾が春を待っている。
ジンチョウゲも蕾の準備はおこたりないようだ。

「類人猿が、向こう50年くらいの間に絶滅しそう」と小耳にはさんだ。
えらいこっちゃ!!
たしか一昨日だったかテレビで、映画「猿の惑星」をやっていたっけなぁ〜
「絶滅しそう」と聞いて、少しばかり背筋に冷たいものが・・・
人間だって猿だもの、いつどうなるかはわからない。

宇宙の時間から考えれば『ほんの束の間』、この地球上に現れた人類。
さも自分たちの論理や正義が一番のごとく、
あちらでぶつかり、こちらで足を引っ張り合い。

植物は、黙って咲いて黙って実を結び、落ちた実は自力で成長する。
動物だって、その命の限りを精一杯生きて終わる。
植物も動物も、環境が合わなくなれば、文句を言うでもなく誰を恨むでもなく消えて行く。

そうできないのは、人間だけかもしれない。

2004/01/05 (月)  晴れ





毎年、夏に行くことにしていた人間ドックを冬に切り替えて二年目、
年内に予約が取れず、年明け早々の今日受診して来た。

相変わらず、バリウムはイヤだな・・・
でも、胃カメラは呑みこめないし・・・
今日は、気合を入れて早めにゴクゴク飲んだら足りなくなって、
お代わりまでしてしまった、トホホ。
年々飲み易く改良されてはいるみたいだ。
以前に比べるとサラサラしてきたように感じた。

それにしても、
「ハイ、右を下にしてグルッと一回転して下さい」
「今度は斜めに向いて下さい」
「うつ伏せになりましょう」
と、硬い台の上で忙しいこと!

頭が下になって台を斜めにされる時、
(これでハンドルから手を離すと頭からまっ逆さまだよなぁ〜)
と毎回思う。
みんな大丈夫なんだろうか?

午前10時から受診の7〜8人の中で一番最初に受付けしてもらったのに、
終わってみると最後から三人目だった。
クリニックの最上階のレストランで食事をして帰宅。

ふう〜っ、ヤレヤレ。

2004/01/03 ()  晴れ





うかうかと・・・
まるで無かったかのように
正月休みは過ぎて行く。

ふたたび、
現実に戻って、
気もそぞろ。

世間を離れて
独り過ごす時間は、
豊かに楽し。

人の波間に漂いて、
ああでもないこうでもないと、
右往左往するが、我か、
はたまた
心の内奥に響く、
切なる声に耳傾け居るが、我か。

***

机の周囲を片付けながら、
これまでに書き散らした文章や
受診してきた人間ドックの報告書や
参加したセミナー・シンポジウムの資料などに
改めて目を通していました。

その片付けに取り掛かる前に、
NHKテレビで、ドラマ「老いてこそなお」を観ました。

机の周囲を整理するように、
私の人生も、そろそろ取捨選択していかなければ、
そう思っています。

「老いてこそなお」自分を確かに保つ為にも、
ここいらで一度、
これからも継続することと放棄することの選択が大切だな、
と感じた次第です。

2004/01/02 (金)  晴れ





おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな  (芭蕉)

夕刻からテレビでバラエティ番組を観て大いに笑った。
その後、チャンネルを替えてドラマを観た。
「向田邦子の恋文」

そして今、
「おもしろうてやがて悲しきテレビかな」
という気分になっている。

泣いたり笑ったり怒ったり、
テレビという箱はさまざまな感情を呼び起こしてくれる。

静まりかえった正月の夜。


2004/01/01 (木)  晴れ  ときどき  うす曇り         元日





テクテクと歩いて初詣に出かけた。

穏やかな天候のもと、
親子、夫婦、孫を連れた二世代の家族と思しき人々が、
なんとも穏やかな表情でお参りに訪れていた。

鰐口や鈴を鳴らして手を合わせようと思うと、
長蛇の列の後ろに並ばなければならない。

一ヶ所目は、20分程度で順番が廻ってきた。
二ヶ所目は、列の進み具合が遅くて、このままだと二時間待ちになりそうだと判断。
結局、最初の初詣一件だけで帰宅。

「八百万の神々」と言うけれど、
何ヶ所もの初詣を廻るにはわけがある。

神様と仏様と神仏混交のお寺さんと、
それぞれにお頼みすることが違うから・・・

私って欲張り?
いえいえ、毎年、お参りに来た人それぞれが真剣に手を合わせた後で見せる、
ホッとしたような表情の仲間になりたい為かもしれない。