2003/07/31 (木)  晴れ  雲多し





なぜかペットを飼う人が多くなったようだ。
それも、必要以上に手を掛け目を掛け声をかけている。
その反面、人間と人間の声かけや関わりが希薄になっていると感じる。

確かに、もの言わぬ小動物の存在やしぐさには気持ちを安らげる作用がある。
見ているだけで、毛並みを撫でているだけで、ささくれ立った心が穏やかに静まっていく。

現在の職場には、捨てられた小動物を持ち込まれることが多い。
捨てられた子猫や子犬に、たまたま遭遇して後先考えずに抱き上げてしまうのだろう。
「可愛いね、可哀想にね」とひとしきり撫でまわした後、自分が飼えない事にハタと気がつく。

さあ、その時になって抱き上げた動物のやり場に困ることになる。
一旦抱き上げたことで、その動物との間に感情の交流が為されると他人事ではなくなるからだ。
もしその場に置き去りにすれば、こんどは、捨てたという罪悪感を自分が背負わなくてはならない。
というわけで、飼い主を求めてあの人この人探し回ることになる。

あちらこちらに声を掛けてはみるが、即断でOKできる人は、そうそういない。
そうなってくると、いつまでも自分の手許には置いておけない拾い主は、
引き受けられないのに関わってしまった自分のことは棚に上げて、
「悪いね、飼えないよ」とそっけない答えを返す人間に批難がましい気持ちを持ち始める。

誰が悪いといって、最初に捨てた人間が一番無責任であることは間違いない。
が、その動物に最後まで責任を持てないのに、安易に手を出すのも考えもの。

我が身に置き換えて考え、「哀れだ、可哀想だ」と思うのだろうが、
その感情に行き過ぎがあるように見受ける。

人間との関わりを避けた穴埋めに動物を飼うのだとしたら、
それはどこか違うような気がしてならない。

ちなみに、生きものの拾得も、拾得物として警察に届ければ受け付けてくれる。
こんなことをネット上に書くと、警察の人も困ってしまうかもしれない・・・

やはり、生きものを飼うときにはよーっく考えて、最期まで面倒をみなければいけない。
一旦飼えば、飽きたからといって簡単には捨てられないのだと理解している人だけに飼ってほしいと思う。

2003/07/29 (水)  雨  のち  曇り





カボチャの煮物を火にかけた途端に電話がかかってきた。
鍋が気にかかりながら話を続けていたら、少し焦げてしまった。
鍋の焦げ付きを洗おうと、大急ぎでカボチャを取り出していると、
手許が狂って、アツアツのカボチャが足指の上にこぼれ落ちた。

「アツ、アツッツ、アッチー!」
振り落とそうとしたけれど、粘着性のカボチャはペッタリと指にからみついている。
洗い流した後で、その足指がヒリヒリしている。
どうやら火傷してしまったようだ。
明日は水ぶくれになるかな?

2003/07/28 (月)  晴れ  雲多し





夕方、手賀沼のほとりにある広大な敷地の公園まで散歩。
風にあたりながら、心地よい時間を過ごして来た。
夕方なので散歩の人影もまばらな中、
芝生では犬の散歩に訪れた人々が、かなりの人数と犬数で交歓していた。
向こう岸にも犬の散歩の人影が見えた。

沼沿いをグルリと歩いて行くと、
水の中にただならぬ雰囲気の異様な物体が浮かんでいるのが目に止まる。

どうやら犬の亡骸らしい。
かなりの大型犬。

片や、飼い主に愛され(?)て、人間の子どもにさえかけないような猫なで声を掛けられつつ散歩する犬。
片や、水にはまって溺死したのか、それとも・・・水に浮かびピクリともしない犬の亡骸。

人々はいま、何をもって『優しい』と考えているのだろうか?


2003/07/27 ()  晴れ  のち  曇り





かのシュバイツァー博士は、
ある朝目覚めて、窓から差し込む光の中で大きく伸びをし、
「あぁ、自分は幸せだ。この幸せは皆に分けなければならない」
と決意してアフリカの僻地で医療に携わることになったと、
小学生の頃に本で読んだことがある。

今日、電車の窓から、風にそよぐ水田や川の風景を眺めながら、
「自分は幸せなんだなぁ。気に染まぬあれもこれも、悪し様に言うことは止めよう」
と、突然思った。

四六時中「私は幸せ者よ」とは言っていられない。
そう言うことは嘘になる。
幸せと不幸せは表裏一体。
違うのは、どちらに視点を置くか、ということ。

どんなにささやかでも、自分を幸せだと思える時間があることは嬉しい。
それを感じさせてくれるのは、自然であり人であるような気がする。

2003/07/26 ()  雨  のち  曇り  ときどき  晴れ





西日本から東海地方までの梅雨明けが報じられた。
関東地方も、そろそろかな。

柏まつりの一日目。
遠くで太鼓の音や盆踊りのざわめきが聞こえていた。

知人の畑から野菜をどっさり頂いてきた。
家庭菜園とも言えないほど広い畑。
新鮮なトウモロコシの甘さを賞味。

これを幸せと呼ばずして、何を幸せと言うのだろう。

声をかけてくれる人がいて、美味しい野菜を頂いて、
私は幸せ者だ、と思えた日。

2003/07/25 (金)  曇り  ときどき  晴れ





昨年一年間の自殺者の統計が発表された。
5年連続の増加傾向で、6割は50代以上の中高年だという結果が出ている。

辛いのはわかる、でも、寿命まで生き続けようよ、ね。
なんで死んでしまうんだろう。
中高年が現実を投げ出してしまっては、
後に続く若い者たちは、一体どうすればいいの!

高度経済成長を支えて、私たち中高年世代はがんばって来たよね。
まさか、こんな時代がやって来るとは思ってもみなかった。
みんな、そう思っているはず。

何とかなる、何とかしなくっちゃあ!

と言っても、昔のようにがむしゃらに上を目指して焦るのではなくて、
これまで「上等」だと思っていた(もの)や(こと)の見直しをしてみたらどうなんだろう?
一部の人はもう既に、そんな生き方に方向転換をしているかも知れない。
そんな人は、思いつめることはないかもよ。

「有る物で暮らす」「あるがままに暮らす」
最低限『命』があれば生きていられる、それくらいの気持ちで生きたいよね。

何もかも「空っぽ」になっていく恐怖。
一番「空っぽ」なのは、中高年の心の中かもしれない。
心を埋めるのに、お金や名誉は必要ないんだけれど・・・

クローバーの草むらから四つ葉を探すような毎日でも、
探しつづければきっと四つ葉は見つかる。
案外、自分の足元に踏みつけていたりする。
気がついていないだけ、ってことが多い。

新聞の記事を読みながら、そんなことを考えてしまった。

2003/07/23 (水)  曇り





何も書くことがないということは、きっと、平和な証拠なのだろう。
平凡な日々が過ぎて行く。

梅雨空の下だけれど、ヒマワリの花が咲いている。
カーッと照り付ける太陽を浴びるのが似合う花。

もうじき、あともう少しで明けるかな、梅雨は。

2003/07/21 (月)  曇り      海の日





鴨は子育て上手。
昨日、白根山で見かけた鴨の親子の姿が忘れられない。

「私こっちに行くわ」「ぼくはこっちだ」
スーイスイスイ、スーイスイ。
子鴨たちは思い思いに岸辺を巡って泳いでいく。
親鴨は、その近くを付かず離れず寄り添って泳ぐ。

決して先に立って導くばかりではなく、
子どもの興味・関心のおもむくままにさせている。
それでいて、目は離さない。

自分の子育てを振り返って反省してしまった。


2003/07/20 ()  晴れ(長野県)  のち  曇り・小雨(東京・千葉)





昨日・今日と、長野県・群馬県を廻ってきた。

長野県は、湯田中温泉郷・志賀高原
群馬県は、白根山。

往路にバスの故障があって、
都内の修理工場の休憩所に二時間くらい待機するというハプニング。
一日目の見学予定は中止、昼食も三時過ぎとなった。

二日目は、お天気に恵まれて、志賀高原の蓮池付近の散策。
バスから降りると、さわやかな高原の風に包み込まれる。

白根山は二度目。
バスから降りて、火口付近までしばらく登る。
カルデラ湖には、白濁したグリーンの水がたまっている。
白根山周辺は硫黄のにおいが強く、危険区域の指定もあるところ。

周辺の散策をしていると鴨の親子に出会った。

白根山の湖の鴨は、元気いっぱい!
子どもはやんちゃで、親鴨はその後をずっとついて廻り、見守っている。
ほほえましい。

私は見損なったのだけれど、「おこじょ」がいたという話。
知人の足元をチョロチョロと這いまわったという。
見たかったなあ・・・

バスの中からではあったけれど、
「日本カモシカ」の親子を目撃。
これは、今回の大きな収穫!

非日常の風に吹かれる心地よさを、十分に味わえた旅だった。

朝の散歩道で見た風景

2003/07/18 (金)  曇り





毎日の暮らしに、ちょっとした節目が来るとホッとする。
今日はそんな日だった。

それなのに、ああ〜、それなのに、
またまた、ひと仕事を抱え込んでしまった。
お金にはならないけれど、結構楽しめるひと仕事。

どうやら私はお金になりそうもないことには情熱を燃やす性分らしい。

まあ、
お金にならないことに熱中する為に、
給料を頂くお勤めをこなしていると思えば、
本来の勤務の大変さも、何ということはなく思えてくる。

こんな風に考えられるのも、節目を迎えて気持ちにゆとりがある日だからだろう。

こんな日があっても好い、こんな日があるから生きていける。

2003/07/17 (木)  晴れ





今晩のNHK「クローズアップ現代」は、高齢者への虐待の話。
要介護となった高齢者を、介護者である家族が虐待する事例が増えているそうだ。

いま日本で、要介護となった高齢者の世話をしているのは、約半数が息子の嫁か実の娘らしい。
大変な時代になったと思うと同時に、この問題はこれからますます深刻化していきそうな予感がする。

それこそ、他人事ではなく、我が身の行く末を考えただけでも先行きには暗雲が広がっている。

これからは、昔のように家族だけでの介護は難しいと思われる。
生死も病も、ほとんど全てが完全看護の病院で起こる出来事になったいま、
日常の場で、実際の看護や介護を目の当たりにしたり、
身近な誰かが行った介護の実際を見聞きしている人は少なくなった。
また、現在のように、ほとんどの家庭が少人数構成の家族形態では、
介護の重荷はだれか一人が背負い込むことになるケースが多い、と聞く。

病癒えても後遺症の残る体で自宅療養を余儀なくされた時、
看る者にも、看られる者にも辛い日々が待っている。

最近の世相を見ると
子どもには子どもの問題が未解決、他方、高齢者には高齢者の問題が・・・

スポーツの話なのだが、
現在の世相に全然関係ないように思えて、意外に関係があるかも知れないと思うことがある。

私は大相撲が好きで、場所が始まるとテレビ中継をよく観ている。
ところが、最近の取り組みで気になるのは、ガップリと四つに組んだ大相撲が少なくなったこと。
突き飛ばしたり、張り飛ばしたり、身をかわしたり、なるべく体の接触を避けるかのように、
相手力士と距離を保ちながらの取り組みが多くなったように感じている。

本来、裸の体と体をぶつけ合ってこそ技と力を競える競技であってさえ、
力士たちがそれを嫌がっているように、画面から感じられるのである。

力士たちも現代の若者。
移り変わる風潮が、その勝負の姿勢に出てきてもおかしくはない。

そう言うことなのかもしれない。
生身の触れ合いを好まないという傾向が、
知らず知らずのうちに他人に対する想いを希薄にしているのかも知れない。

2003/07/15 (火)  晴れ  一時  曇り





気温が低めのせいか、さわやかな一日だった。

この頃の母子連れを見ていると、
親も子どもも区別のつかない服装をしている人をときどき見かける。
子どもが大人の雰囲気の服を着たがることは、まあ、滅多にないことだから、
親のほうが子どもっぽい服装をしているということなのだろう、と思っている。

成人すれば、体型から表情から、それなりに成熟した外見になってくる。
そこへ、未成熟な子どもの体に着せてこそ「可愛い」と思える服と同じ物を着たとしたら、
やはり、それはちぐはぐな感じになることは否定できない。

ファッションなのだから何を着ようと勝手でしょう、と言われればそれまでなのだけれど、
人間のすることは、微妙に、その人間の内面が反映されていることが多い。
そのことから考えてみると、子どもっぽい服装に満足する感覚ということが、
親になりながら内面は子ども意識の大人が増えている、と言うと言い過ぎだろうか?

下着が見えそうなほど超ミニスカートの若い母親に違和感を感じながら考えたこと。

2003/07/14 (月)  雨  のち  曇り





このところ、少年犯罪の増加と低年齢化・凶悪化がマスコミで取り上げられている。
「凶悪」という言葉で表現するには、あまりにも意識や感情が欠落している事件が多い。
報じられる情報や身近な子ども達の様子を見ていると、
彼らに意識や感情の揺れが感じられない事が不気味だと思っている。

「凶悪」と言うからには、何らかの「悪」を意図する強い動機を思い浮かべるけれど、
昨今の少年犯罪には、そうした強い動機というより、
日常の成り行きを、とことんまでやってしまった結果、
他者の人生や命を奪ってしまったとの感がぬぐえない。

思うに彼らは「引き返す」ということを知らないのではなかろうか?
反モラル、反社会行動を実行に移す前に引き返すということを・・・

逸脱行為をどこで引き返すか、どうしたら引き返せるのか、
そうしたことを学ぶ機会もないままに放置されている、
それが最近の子どもが置かれている現実かもしれない。

「イケイケ」で、前に突っ走るばかりではなく、
逡巡し思いとどまり引き返すことの大切さを、
どうしたら伝えられるのだろうか?

2003/07/13 ()  曇り  一時  雨





最近ボランティアばやりだけれど、ときどき、首をかしげたくなるボランティアに出会う。
特に、【頼まれボランティア】は、(しょうがないから来ている)という素振りがあからさまで、味気ない。
そういうボランティアは、なるべくなら動かないで済むようにしたり、指示を待っていたりすることが多い。

ボランティアとは
「やってあげる」という恩着せがましいものではなく、
「やらせてもらう」という、言わば、こちらに有益となる行為である。

そんなことが気になっていたところ、
昨日の農業ボランティアの仲間とのジャガイモ収穫は楽しかった。

それぞれが自発的に自分の行動を起こして立ち働くさまは、これぞボランティアと言いたい。
収穫後の肉じゃが調理の際にも、誰の号令も必要なく、男女の別なく、
野菜を洗い、野菜を切り、鍋をかき回し、そのかたわらで用済みの用具を片付ける。

広い芝生の上に座り、持ち寄った自前のお椀とお箸で肉じゃがを美味しく頂いた。

後の始末もテキパキと処理されて、気持ちよく行動を終わった。

男性は男性なりに気がつくところを、女性は女性なりに気がつくところを、
ごく自然に引き受けて働く。
それらの仕事分担は、共通する部分もあり、どちらかが得意とする部分もあり。

やれ女性だ男性だと目くじら立てたり媚を売ったり居丈高になったり、
そんなこととは無縁の世界だった。

歳をとるということで、人間的な触れ合いと楽しみにつながることもあるのだなあと、つくづく思った一日だった。

2003/07/12 ()  曇り  のち  晴れ





週末は崩れる、とかの予報に反して午後近くから暑いほどのお天気。

農業ボランティアとして植付け作業を手伝ったジャガイモの収穫に行く。
植付けした時の畑からは予想もできないほど、そこには、一面葦が生い茂っていた。
前回、駐車場に使った空き地も、背丈の高い草や葦に占領され、駐車することはできない。

この畑は、将来、観光農園として開発の計画がある土地で、
現在は使用方法や作物の検討中の場所。
個人が毎日面倒を見、手入れを繰り返す畑ではない。

再び、養老孟司さんの「手入れ文化と日本」に書かれていた内容を思い出す。

日本人が“自然”として懐かしむ風景は、必ずしも、手つかずに放置された原野・原生林ばかりを指すのではない、ということ。
日々手入れされ、足を踏み入れてその場所を利用し、決して放置しない風景を懐かしい“自然”として共生しているのだ、と。

そこを『里』と呼び『里山』と呼んで親しんで来た。
生かし、生かされる人と自然。

背高のっぽの葦がはびこった畑からジャガイモを掘りながら考えた。
これから先何年、こうして葦の根っこと闘いながら耕せば、この畑は“豊かな畑”に生まれ変わるだろうか?
それを思うと、遠い過去から受け継がれてきた畑や田んぼを、簡単に放置して荒らしてはいけないと、痛切に思う。


2003/07/11 (金)  曇り  ときどき  雨





辛い時代だなあと感じている。

もともと殺人を正当化できる理屈などないけれど、
それにしても、何の根拠もなく命を奪われる事件が多過ぎるこの頃。

都合が悪くなれば殺してしまえばいい、そう考えるのだろうか?

人間同士の触れ合いに行き詰まったら、
しばらく距離を置いてみるとか、視点を変えて考えてみるとか、他のことに興味関心を移してみるとか、
そんなことで危険を回避しようとする知恵は湧いてこないのだろうか?

相手に敵対心を燃やすことは負のエネルギーであり、
そこから生まれる感情には毒がある。

2003/07/10 (木)  雨  ときどき  曇り





「幸せ」を見つけた。
草むらの中に小さな四つ葉のクローバー。

友人と立ち話をしながら、
「こんなクローバーの生えているところを見ると、つい、探してしまうのよねぇ」
と言いながら視線を落とした先に、その四つ葉は、あった。

ほんの小さな四つ葉だけれど、嬉しい。

四つ葉のクローバーのもたらす「幸せ」とは、
発見できた時のこのささやかな感動のことかもしれない。


2003/07/09 (水)  曇り  ときどき  雨パラつく





よほどゆとりの無い人が増えているのか、
じっくりと他人(ひと)の話を聴けない人が多くなったような気がする。
お陰で、誤解曲解がはびこってしまう。
結局は、語ることを諦めてしまわざるを得ない場面が増えたように思う。

ひとの話に耳を傾け、
いったん自分の胸に受け入れた上で答えを返すという行為は、
相手の人格を認めていないと、なかなか難しい。

また、自分自身を把握して、なおかつ、自分に対する信頼を確立していなければ、
そうするゆとりも生まれて来ないような気がする。

静かに語り合えば、お互いの姿が浮かび上がるものを、
中途半端な理解で相手の発言をさえぎれば、
お互いが不完全燃焼で終わってしまい、前進はない。

受け入れがたい意見に思えても、
性急な反論を間髪いれずに返すのではなく、
ちょっと間を置いてみることも大事だと・・・
そんなことを、あえて言ってみたくなるこのごろ。

違いは違いとして認めながらも平穏に共存していくには、
それぞれに、幅広い良識と適度な自制心が必要のようだ。

2003/07/08 (火)  雨  ときどき  曇り





二十年位前に「ブッシュマン」という映画が製作された。
アフリカの一部族コイサンマンの二カウさんが主人公。

その二カウさんが亡くなったというニュースが報じられた。

まきを探しに出かけたまま亡くなっていたという。
あるがままに暮らす人の死、自然死。
二カウさんは土葬された。

何だか、二カウさんの一生がうらやましく思えた。

2003/07/06 ()  曇り





教育TVで宇宙の特集番組を見た。
クレーターの話。
巨大隕石が星と衝突してできる大きな凹み。

興味深い話が次々に紹介され、飽きることなく見入ってしまった。

やっぱり宇宙は果てしない。
果てしないということは、私の頭では追及しきれない。

そんな果てしない宇宙の中の小さな私。
こだわっていたあれこれが、急に、何でもないことに思えてくる。

2003/07/05 ()  晴れ





気持ちの良い晴れの一日、布団に日光の匂いをたっぷり吸い込ませる。
こんな穏やかな日にもかかわらず、気持ちはずっしりと重い。
あるニュースが、私の心に翳を落としている。

今年の春、学校経営に悩んで自らの命を絶った民間出身の小学校長さんがいた。
その問題に関わり続けた教育次長さんの自殺のニュース。

この国の将来を担う子どもたちを育てる教育の現場に「大人のいじめ」がある。
理屈や権利の主張ばかり激しくて、
相手の話を受け入れ協調して行こうとする姿勢のない人物が教育に携わっている現実。

「人権の尊重」だとか「いじめの根絶」などとスローガンを掲げながら、
そのことを教える側に立つ者に、実は、その意識が一番欠けているのかもしれないということを垣間見せている。

『社会』とは本来、実体のない組織。
そこは、一人一人の生身の人間の集まり。
そして、その構成員たる人間を大人に育てるのは、子どもの周辺にいる大人たち。
子どもが社会組織と関わり始める第一歩は学校である。

教えられるべきことを教えられない子どもが大人になり、
社会組織の一員になったとしたら、
その社会の風潮や成り行きはそれなりでしかない。

昔、(2.26事件)という出来事があり、時の首相・犬養毅が、血気はやった青年将校らに暗殺された。
「何か知らんが話せばわかる」と、
食事中に踏み込んできた青年将校らを別室に引き入れる犬飼首相に、
「問答無用」と銃を撃ち放った事件。

たとえ現実的な襲撃行動をとらなくても、
「問答無用」の姿勢と「一切無視」という精神的な攻撃行動は、
2.26事件の青年将校のとった頭でっかちで血走った軽はずみ行動を思い起こさせる。

血肉の通った教育が失われているのではないだろうか?
机上の学問のみを重視し、知識の暗記を測るテストの点数で人を選別してきた結果とは言えないだろうか?

「知識」とは、むやみやたらに増やせば良いものではなく、
何を知り、それをどのように実生活に活かしていくかが問われるのだと思う。

そういう意味から考えると、
多く知ることが尊いとは必ずしも言えず、
日々の暮らしのつれづれに知り得た最低限のことから、
忘れないように、実地に応用できるようにすることの方が大切なのだと思う。

宮沢賢治も言っている

「アラユルコトヲ   ジブンヲカンジヨウニ入レズニ   ヨクミキヽシワカリ   ソシテワスレズ 」と・・・

あまりにも

「アラユルコトヲ  ジブンノミノヨクトクカンジョウデウゴキ  ヨクミキキモセズ  スグニワスレテシマウ」人が多いような気がする。

2003/07/04 (金)  晴れ





気がつくと口はへの字に結ばれ眉間には縦皺がくっきりと、
そんな自分の顔を見るのが嫌で、鏡から視線を逸らすことが多くなっている。

何に対して、そんなにいら立っているのか?
周囲の出来事のせいにするのは簡単。
思うに任せないあれこれに不平不満を並べ始めるとキリがない。
その一方で、それらの一つ一つが、自分の力だけではどうしようもできないことも自覚している。

ここはひとつ、「う〜ん」と大きく伸びをしてブルブルっと体を振り回し、
思い切って(あれこれ)を振り落とそう。

暑さ本番になる前に、気分の一新を図って再・再・再・再・再・・・・スタートと行こう。

2003/07/03 (木)  曇り





職場の改修工事で、書類の移動の為にまとまった量のダンボール箱が必要になる。
調達を依頼されて、心当たりの大手スーパーにあたってみた。

最初に思い浮かんだA店には、あらかじめ電話で問い合わせて出向いた。
対応して頂いたのは副店長さん。
こちらのお願いをどの程度わかって下さったのか、いまひとつ不安が残った。

もう一店は、いつも仕事帰りに買い物をしているB店。
こちらは、あらかじめの電話もかけず、
自宅の買い物の途中で見かけた店の方にいきなり声をかけた。
彼は棚に品出しの作業中。

声をかけていきなりから、その物静かで丁寧な応対にホッとする。
こちら側の話をスムーズに理解して頂いて、
箱の数が揃った時点での連絡方法や引き取り日時までの交渉ができた。

今日はひさびさに、「あ〜この人はすばらしい!」と思える人に出会えて幸せ!

2003/07/02 (水)  晴れ





テレビをつけても、新聞を開いても、日常生活においても、
朗らかな話にはなかなかお目にかかれません。

こんな時、私たちはどこでどうしたら微笑を取り戻せるのでしょう?

自らは何も手を施さずにこんなことを言っている訳ではない、と思いたい。
毎日毎日、こうしてみたらああしてみたら・・・と立ち働いてなお成果の見られないあれこれに、
ふっと気がつくと呆然としている自分に気がつくのです。

それでも少し前までは思い直しができたように思います。
次第に精神力や体力の回復バネが弱くなり、
今では、縮んでしまったバネがそのまま固まってしまったかのように感じています。

「その国の政府のレベルがその国の国民のレベルである」
いつかどこかでそんなことを知り、それ以来、折りに触れ思い浮かんでくる言葉です。
自分も知らず知らずのうちに、あの為政者たちと同じ行動をとっているとしたら・・・と考えると背筋に冷や汗が流れます。
「人の振り見て・・・」
今、この国の為政者の顔はどんな表情をしているでしょうか?
そして自分は?

つくづく考え込んでしまう日々が続きます。


2003/07/01 (火)  曇り  ときどき  雨





バブル期の感覚が如何に異常であったかについて、ラジオで話していた。
都内の土地には一坪6000万円の値がついたり、
株価や預金利率は下落することなど予想だにしなかった。

小奇麗な仕事に就く事が当たり前になり、
油や汗や泥にまみれる仕事は疎まれるようになった。

経済は言わずもがな、精神もバブルだったのだろう。
空洞の風船が膨らみに膨らんで、あげく、パチンとはじけた後に残ったものは・・・

空しさと不信と失望

低迷し、さ迷うかに見える昨今だけれど、
地道を思い出すならばきっと、絶望には至らないことを信じたい。

みんな疲れているなあ・・・