2003/06/30 (月)  晴れ





柏駅のJR改札を入った構内に無印良品の小さなお店がある。
昨日、そこでパエリアの炊き込み御飯の素を買って来た。
小人数の家族や独身者向けの商品が多いのか、このパエリアも2合炊き用。
さっそく今日の夕食で使ってみたら、美味しかった。

最近出会った食材の中で「これは!」と思ったものは、
直径1cm長さ10cmくらいのキュウリと、このパエリアの素。

美味しいものをほどほどにいただく幸せ。

2003/06/29 ()  晴れ





久しぶりに街中をぶらついてみた。

太陽かがやく季節に向かって、
行き交う人々の服装もお店に並んだ洋服も、
色とりどり。

カッチリした洋服からルーズファッションへ。

赤ちゃんを連れた若い夫婦も多く見かける。
これまた今風な格好をして二人半で買い物や散策を楽しんでいる様子。

この地へ越して来てから、長い間、大した変化の無かった街の様子が、
最近急に変わっているように感じる。

以前あったお店やビルがいつの間にかなくなり、
見慣れない建物が建っていたり、
老舗のお菓子やさんが下着やさんになっていたりする。
駅周辺は、便利にするというお題目を唱えながら、
かえってゴチャゴチャと収拾がつかなくなり始めている。

街は生きもの。

こちらの想いなどお構いなく、
あっという間に根こそぎ変化するなんて朝飯前。

毎年、同じ作物を同じサイクルで育てる風景とは違って、
土地の上っ面を利用するだけの都市の移り変わり。

2003/06/28 ()  雨





大江健三郎:著  言い難き嘆きもて」「鎖国してはならない」 (講談社)
読んでおきたいと思っていた二冊の本にめぐり合った。

大江さんの文章は、実は、大変に読み進みづらい。
が、思考の展開のままに書き進められる文章からは、
慣れれば案外多くのことを教えられるのかもしれない。

先週読み終えたばかりの養老孟司さんの「手入れ文化と日本」にしても、
今回の大江健三郎さんの本にしても、
これからの時代に伝え、つないで行きたいことばかりなのに、
きっと、こうした本を手に取る若者は少ないだろうし、
たとえ手にとったとしても、その内容のどこまでが理解されるだろう、
そんな不安が、ふとよぎる。

この不安感こそ、宗教学者・中沢新一さん言うところの
(50歳を境に途絶えようとしている、遺伝子に刻まれた日本文化)
の危機感から来るものなのだろう。

戦後の日本は、ほとんど何の疑いもなく欧米化して来た。
今や、どんな片田舎に行こうが都市部であろうが、似たような生活が展開されている。
養老孟司さんによると、戦後の日本はひたすら『都市化』の道をまい進して来たのだそうだ。
その過程で、見捨ててしまったものやこと、見えなくなってしまったものやことがある。

養老さんにしても大江さんにしても中沢さんにしても、書くということによって、
人々が、かれらの視界から外してしまったものやことを、もう一度視界に取り戻そうとしているかのようだ。
何とかして、こうした本の内容を「日本人なら誰でもわかる」と言えるように、
文化的な共通基盤を取り戻せればいいなあ。

2003/06/27 (金)  晴れ





実はいま背中がかゆい。
じっと我慢しながら、つらつらと考えた。

自分の体でありながら、自分の目で直に見ることができない場所がある。
それは、後ろ姿と自分の顔。
どちらも人の内面が出る場所だと言われる。

顔は、鏡に映せば間接的には見ることができる。
合わせ鏡をしても、なお見づらいのが背中。

「かゆい所に手が届くような・・・」と表現されることがある。
人間の体の大部分には自分の手が届くけれど、背中のある部分は思うように行かない。
そんな背中のかゆみを掻いてくれる人がいれば大助かり。
「かゆい所に手が届く」とは、そんな行き届いて気が利くさまを表している。

自分では見ることのできない自分の生の顔と自分の手が届かない背中。
思い通りにならないのは、何も人生ばかりではなさそうだ。
そんな不足を抱えていることを、誰もが自覚しているなら、
「傲慢」という言葉は、自らを恥じて消えてしまうだろうなあ・・・

背中のかゆい夜中に考えた由無しごと。

2003/06/26 (木)  曇り 





「おばさんってや〜よね〜・・・」と言っていた年頃が、私にもあった。
不機嫌、意地悪、なりふり構わない、面倒なことはしない・・・

自分が若い頃に「おばさん」と呼んでいた年齢に、自身がさしかかってみてわかることがある。

不機嫌は、首から上ののぼせで気分が悪かったり、体調の乱れでお愛想するどころではない時。
意地悪は、生きている年数が長ければ、年下の者たちのすること為すことが先に読めてしまったりする時。
なりふり構わないのは、おばさんたちの子どもがちょうど物入りの年代にあって、やりくりに必死な時。
面倒なことをしないのは、ホルモンや代謝の乱れで精神的な鬱症状が出ている時かも・・・

人はそれぞれの年齢を一度しか経験できない。
「こんなことだったのか」と解った時には、もはやその年齢は過去のものとなりつつある。
(おばさん)がこんなにも大変な通過点とは、予想外だとつくづく感じている。

とは言いつつも、
その大変さにめげず、
豊かに穏やかに歳を重ねて行きたい。

急激に変化して行く体型や面相を鏡に映しながら、
そう心に言い聞かせる。

2003/06/23 (月)  曇り





今日はちょっと悔しかったお話を・・・

土曜日が出勤だったので今日はお休み。
たまの平日、普段できない用事を片付けようと街へ。

駐車場に車を停めて、ものの一・二分歩いた場所にブティックがあった。
店の前のマネキン二体が素敵なブラウスを着ている。
「あれ欲しいなあ」「買おうかなあ」と、フラフラ店に入る。
あれこれ見て、その店のセンスの良いことを確かめて、一旦出る。

用事を済ませて、再び例の店へ。
やはりそのブラウスが欲しい。
が、それに合うパンツがない。

そこで他の店にパンツを探しに行き、何回か試着のあげく納得できる物を買う。
そしてあのブラウスを見つけた店に帰ってみると、
「無い!無い!あのブラウスが二つとも無い!」

「あの〜、ここにあったブラウスは・・・?」
「ああ、あれね、売れちゃいました。15分くらい前かな」
だって!・・・・・・・・あ〜あっ!

チャンスの神様の鼻先の毛を、
しっかり掴んでおかなかったばかりにラッキーを逃したお話。

「逃した魚は大きい」
あのブラウスが良かったなぁ〜

2003/06/22 ()  晴れ  うす曇り  夏至





「人は自分と折り合える程度にしか社会と折り合えない」
といった内容のことをテレビで語っていた。

つまり、自分を受け入れられる人は社会をも受け入れ、
自分を肯定できない人は社会に対しても後ろ向きになってしまうということのようだ。

「自分を認める」ということは一朝一夕にはできない。
早くから自信たっぷりの生き方ができることのほうが不思議。

生きていることが当たり前の成熟した社会に生まれ育つと、
人はまず、「生きる意味」から問い掛けなければならない。

明日の命も知れない社会に生まれると、
「まずは生きる」ことが先決問題。
何のために、如何に生きるかを思い悩む余裕などないだろう。

とは言え、どちらが幸せとも不幸せとも言い難い気がする。

2003/06/21 ()  晴れ





人生を上皿天秤に喩えるなら、一方の皿には幸運が乗り他方には不運が乗る。
どちらかが少しづつ重くなったり軽くなったりして、天秤は右に傾き左に傾き・・・
目盛の針は左右を行ったり来たりして、
人は、舞い上がってみたり絶望したりを繰り返す。

常にバランスよく平衡を保ち、可もなく不可もなくあり続ける人はそうそういない。

そこまで考えて来て、ふっと、
左右の皿に乗るものは『幸』か『不幸』かハッキリ区別できるだろうか?
との思いが湧きあがった。

天秤の皿に乗っているのは「単なる事実」に過ぎないのではないだろうか。

そうだ!
片方の皿に乗るのは『単なる事実』でも、
他方の皿に乗せているのは『自分の価値観という分銅』なんだ、
と思い至った。

その『分銅』の置き方ひとつで『事実』は、重みを増したり軽くなったり・・・

小中学校の理科の時間、上皿天秤の目盛を中心に合わせようと、
ピンセットで分銅を乗せたり、量ろうとする物を減らしたりしたことを思い出す。

な〜んだ、人生が上皿天秤なら
皿の傾き目盛の振れは「事実と価値観」のバランスの問題だったのか。

理科の実験で分銅を加えたり取り除いたりしたように、
自分の価値観による「物の見方」を調節すれば、皿の平衡は保てるかもしれない。
ただし、易々とはできないし、保つのは難しそうだけれど。

ここで「好い加減」という言葉が浮かんだ。
「あの人って、いいかげんな人ね」などと言われることは良いイメージとは言えないけれど、
分銅の加減のことを考えると「好い加減」はバランスのとれた状態かも。

「いいかげん」が「好い加減」なら、それもまたアリだなと思う。

2003/06/20 (金)  晴れ





しばらく続きそうな晴天の第一日目。

近年、雨の降り方に微妙な異変が見られる、という情報を小耳にはさんだ。
気がついてみると、昔から当たり前のように感じていた折々の自然現象が少しづつ変化している。
もうすぐ(と言っても数年の話ではないけれど)、地球は氷河期に移行するのでは?とか・・・

太古の昔からさまざまに変化してきた地球上の自然。
その時の流れの中で、人間が占める時間なんて「あっ!」と言う間。

いま生きている奇跡を大切にしなくては。

2003/06/19 (木)  晴れ





台風6号が九州で荒れたらしい。
関東地方も、夜になって次第に風がきつくなってきた。

「この兆候は、ひょっとして悪い方向に向かう前触れでは・・・?」と、感じることが時々ある。
周囲の人たちは、そのことに対して何も言わないし気に止めてもいないように暮らしているので、
「自分だけの思い過ごしかも・・・」と、自分自身を打ち消してみるが、
それでも、喉に引っかかった小骨のように気になり続ける。

そうしたことは往々にして、5年後10年後に、大きな社会問題になって表面化することが多い。

「ひょっとして・・・」と思うのは、私一人ではないはずなのだけれど、
多くの人はあえて語らない、触れない。
むしろ、避けようとしているように感じることがある。

“お気楽”も、時には大事。
けれども、全ての人がお気楽に偏ってしまったらどうなるのか?

最近、ひどく気になるのは、「責任回避」の傾向。
事の大小を問わず、責任を引き受ける人が誰もいなければ、
物事はどうなっていくのか?
社会はどうなっていくのか?

「責任者出てこーい!」と、みんなで叫んでいては始まらないのではないだろうか?

まずは、非力な自分でも引き受けられる身の回りの些細なことから、心を込めて片付けていきたい。

2003/06/18 (水)  曇り  ときどき  小雨





台風6号が奄美大島近辺を北上中。
明日は九州から中国地方とか。

仕事帰りに、知人が犬を散歩させているところに出くわした。
犬の名前はタロー。

「もう何歳になるの?」
「15歳よ」
「ふ〜ん、人間で言うと何歳くらいかしら?タローは長命ね」
「でも、最近は心配なのよ。ついこの前も、散歩中に二度もこけちゃって・・・」

よく見るとタローの足取りは、心なしか覚束ない。
知人と私が立ち話をしている間も、じっと何かを考えているのかいないのか、
大人しくそこに立ち尽くしている。
話が終わって知人が綱を緩めると、ゆっくりとした足取りで立ち去って行った。

犬の15歳は、人間で言うと76歳〜82.5歳になるそうだ。

もう一匹、近所に長命の犬がいる。
今日出会った知人によると、その犬はタローよりも少しだけ若いのだそうだ。
こちらは、玄関先にいつも寝そべっていた。
そう言えば、最近姿を見かけない。

過去15年。
いろいろな出来事があった。

タローとの接点も数々あった。

今、タローは何を考えているのだろう。
動物は何も言わない。
タローの頭に手を置きながら、ふと、過ぎた日々のあれこれが脳裏をかすめた。

2003/06/16 (月)  曇り  小雨パラつく





「都市空間は、その成り立ちからすでにヴァーチャルな世界である」
という、養老孟司さんの指摘には眼からうろこをはがされる思いがする。

人工的な建造物がデザインや配置を考えて密集している都会では、
そこにうごめく人間すら、本来の自分とはかけ離れた自分を演出しながら暮らしている。
どうりで、人口が増加すればするほど、新しいビルが並べば並ぶほど、
人間が落ち着きを無くし不安定になるはずだ。

テレビの番組や若い人たちが熱中するテレビゲームが、構成され演出されているように、
都会の生活も、ある意味、無意識のうちに構成と演出を繰り返しながら続いているのだろう。

身の丈に合わない暮らし方をすれば、疲れる。
のびのびと、自分らしくしていられる空間が必要だなあ・・・

2003/06/14 ()  晴れ  ときどき  うす曇り  一時  小雨パラつく





人間は時々、自分たちの祖先の始まりの始まりはどこから来たのかという疑問を抱く。
その疑問の空間を埋める事実が、また一つ発見されたというニュースがある。

大方の見方としては、新人類の発生はアフリカではないかという見解で一致するらしい。

現代の全ての人類のルーツをたどって行くと、一人の女性に行き着くという興味深い話もある。
彼女は「イヴ」と名づけられている。

人類が時の流れを意識するようになって、年表を残すようになった。
現代では、年表と言えば受験のために覚えなければならないことの一つくらいの認識しかない。
時間は次々に積み重なり、受験のために暗記しなければならない歴史上の事実は増えるばかり。
何を覚えて何を捨てるか、こと受験のみを目標にするなら、ことは簡単。
過去問題を参考にして、出題傾向から探れば良い。

しかし、人類として、人間として考え始めると、捨てがたい歴史の数々。

じっくり落ち着いて考えてみると、
人は、その発生の頃から、大して変化のない行動様式を繰り返しているのではないだろうか?
そもそも人の一生は、オギャーと生まれた時には原始の人類と同じ発生だと思われる。
その後の経過は、人類の積み重ねを「知識」として詰め込まれるわけで、
それ自体、人一人の実体験でも何でもない。
と言うことは、詰め込まれたものは単なる「暗記された知識」であって、「知識」の多寡で驚くほどのことはない。

どんな高学歴の経歴を持とうが、暗記した知識が多かろうが、その人の人格とは何も関係がない。

人類の祖が、アフリカに発生した「イヴ」という一人の女性に行き着くのだとしたら、
今日(こんにち)の人類の諍(いさか)いやゴタゴタを草葉の陰から眺めながら、彼女は苦笑しているかもしれない。

「な〜にそんなに角突き合わせているのよ。元は同じ、私の子どもたちじゃあないの」なんて・・・

そんなことを考えると、人類への興味は尽きない。

2003/06/13 (金)  曇り  ときどき  小雨  のち  晴れ





不思議というか、ある意味、気味の悪い出来事。
複数の官公庁に百万円近いお金が郵送された事件。
帯のつかない一万円札の束を無雑作に封筒に入れて送られたらしい。
誰が何の目的で?

蒸し暑さに、気持ちの休まることなく一日を過ごす。
室内は、物みなしっとりと湿り気を帯びて不快。

2003/06/12 (木)  曇り  ときどき  小雨  ときおり薄日さす





やれやれ、めまぐるしく変化するお天気の一日だった。
梅雨空の合間に明るい陽射しがさしたり、小雨がパラついたり。
こんな気候だからかなあ、体調不良なのは・・・
年齢のせいもあるし、運動もしていないし、
などと自分に言い訳しながら、だましだまし日数を数えている。

2003/06/11 (水)  曇り





余裕のない空気がピリピリと張り詰めて来ているように感じる。
「対抗措置もあり得る」などという言葉が報道され、成り行きには暗雲が立ち込める。
世界各地で、基本的な人権を踏みにじるようなできごとが起きている。
しかも、それらの問題が着実に解決される目途が立っているとも言えない状況。
一見何事もないかに思える個人の日常生活周辺も、よく目を凝らすと微妙に影響を受けている。

どこかの誰かが、神の啓示を受けて「ノアの箱舟」を密かに用意しているとしたら・・・
ふと、そんなことが脳裏をかすめる。

古くから伝えられる話の多くは実際に起きた天変地異が下敷きになっている場合がある。
似たような状況が繰り返されるのなら・・・今という時代の混迷は、どの逸話に似たような状況なのか。
歴史に学び、転ばぬ先の杖を握ることはできないものか。

つい先ごろ解放のニュースに接したばかりのミャンマーの女性指導者が、再び拘束されているらしい。
思想信条を持って人々の先頭に立ったことで、長い間、自由な行動を制限されている彼女の人生に思いを馳せる。

2003/06/10 (火)  曇り  ときどき  晴れ





怪しげな雲が広がりながら雨にはならず、低めの気温にもかかわらず蒸し暑さを感じる日。
西日本から関東甲信越まで、梅雨入りの発表。

大好きなブルーのアジサイが、ここかしこに咲いている。

アジサイを見るたびに、シーボルトの恋を思い出す。
長崎滞在中の彼の日本人妻だった楠本滝(おたきさん)。
シーボルトに心から愛されて、後に女医となる娘いねをもうける。
司馬遼太郎さんの本に、いねと大村益次郎の淡い恋のなりゆきが描かれている。

シーボルトは、お滝さんの好きなアジサイの学名を「Hydrangea Otaksa」(「Flora Japonica」)と名づけた。
Otaksa=オタクサはお滝さんの名前。
こうしてお滝さんの名前は、永遠に全世界の植物図鑑に残ることになった。

終生連れ添ったわけではないシーボルトとお滝さん。
その娘いねと大村益次郎の不器用な恋も実ることはなかったらしい。
とは言え、この二組のカップルの心の通い合いは、なぜかうらやましくもある。

雨の中でこそ美しさを増すアジサイは、
こうしたエピソードと結びついて、
私の中では「恋の花」になっている。

2003/06/08 ()  晴れ





人生には時として、「出会うべくして出会った」と思える瞬間がある。
それは、意図したり努力したりして出会うのではなく、
ほんとうに、引き寄せられるように出会うのである。

10年位前に、知人から『チャンスの神様』という話を聞いた。
チャンスの神様の体は、ウナギのようにヌメヌメとして捉えどころがない。
ただし、顔の中央に一握りの毛が生えているのだそうだ。
その掴み所のない神様は、常に私たちの前方からやって来て、私たちの脇を通り過ぎている。
「掴もう!!」とする強い意識がこちら側になければ、神様に何度出くわそうと自分のものにすることはできない。
常に問題意識を持ち、アンテナを高く保っていれば、
鼻先に生えているという一握りの毛で、チャンスの神様をガッチリ掴むことができる、という話。

「出会うべくして出会う」ということは、この『チャンスの神様』の話に通ずるのだろう。

これまでの私の人生にも、「これは運命か」と思えるような印象深い出会いが幾つかあった。
それは映画であったり、本であったり、人物との出会いであったりする。

そんな出会いの一つは、映画「ローザ・ルクセンブルク」。
そして昨日、この「ローザ・ルクセンブルク」の時と同じような感動を受ける映画を観てきた。

The Hours (邦題:「めぐりあう時間たち」)』

話は、時代を超えた三人の女性たちの、ある一日の出来事を畳み掛けるように追いかけて描かれている。
それぞれの女性を結ぶ糸は、イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフの書いた「Mrs.Dalloway (ダロウェイ夫人)」

ヴァージニア・ウルフに関しては、
その名前と、(ヴァージニア・ウルフなんて怖くない)というセンテンスを思い起こす程度の知識しかなかった。

今回の「めぐりあう時間たち」という映画のタイトルを、封切り前のポスターや雑誌で見かけた時、
どんな内容かを詳しく知るわけでもないのに、「これは観なければ」と思ったことは、なぜか不思議な気がしている。

この映画を観たことで私は、今後ヴァージニア・ウルフの著作に目を通したいと思っている。
思索への扉が、新たに一枚開かれたと言えそうだ。

2003/06/07 ()  うす曇り





それぞれの喜びと哀しみを留めて
早朝の霧の中に眠る街

どこかで犬の鳴き声が聞こえる
はやばやと朝食を済ませた小鳥のさえずりも
動き始めた人の気配も
次第に重なり合い あたりに満ちてくる

今日も一日
平穏な時が過ぎますように

*****************

朝から、幼児虐待と集団自殺のニュースを聞いてしまった。

幼い子どもを、正しく慈しめない大人が増えてきている。
大人と呼ぶのもためらわれる人が、安易に子どもを産んでいるとしか思えない。
そうして、人を愛すること愛されることを知らない人間が増えていく。
継子のシンデレラは何故いじめられるのかを進化論の立場から解き明かそうとした本のことを思い出す。

子どもは、でき得る限り、実の両親の手で育ててやりたい。
その為にも、安易な男女の結びつきは避けてほしい。

抵抗もできずに、蹴られ殴られ小突かれる小さな体と心を想像すると、胸の詰まる思いがする。
その一方で、蹴り殴り小突く大人も、満たされぬ感情を持て余しているのではないかと思う。

昨日読んだ文章の中に、道を踏み外した人への呼びかけの一節が・・・
「あなた自身が本来、悪い人なのではないのです。そうさせてしまう社会病理こそ正さねばならないのです」

もう一つの集団自殺。
インターネットで呼びかけて、見知らぬものどうしが同じ場所で死を決行する。
物理的に触れ合える範囲の人間関係しかなかった時代には考えられなかったことが起きている。

周囲への関心を失い、ひたすら自己の中へと沈んでいく思考の螺旋階段。
幼児虐待も集団自殺も、行き着く先には『死』しかない。

笛の音に誘われてゾロゾロと男の後をついて行った「ハーメルンの笛吹き男」に出てくる子どもたちのように、
私たちはいま、とんでもない方向に導かれていはしないだろうか?

笛を吹いていらっしゃるのは、どこのどなたさまでしょうか?
私たちに何をお望みでしょうか?
ハーメルンの笛吹き男は、ネズミ退治の報酬を貰う約束を市長に反古にされ、子どもたちを連れ去りました。
あなたさまの怒りをかった私たちの行為とは、いったい、どんなことなのでしょうか?

そう尋ねてみたい衝動にかられる。

2003/06/06 (金)  晴れ    芒種 





再び「知」について。

いつの頃からか早期教育なるものが流行するようになった。
親なら誰しも、我が子を歴史上の天才に並ぶような人物に育てたいと思うのは人情だろう。
そこで、財力の許す限り、幼児からの英才教育に力を注ぐ。
ピアノ、英語、お受験準備などなど。
子どもは街角や公園で走り回ることなく、狭いビルの箱の中で懸命に知識の断片を頭に詰め込まれる。
その間、社会の前後縦横上下の関係の習得は、親によって免除される。
代わりに、知識の断片を暗記し体に覚えることを親から求められる。

それでいいのだろうか?
それが真の教育なのだろうか?

最近、何かの社会的な行動が起きた時、極端に走ってしまうような印象を受けている。
つまり、主義主張の違う立場の人間には存在を許さない、といった動き方である。
それを如実に見せてくれたのが、10年近く経った現在も裁判が続いているあの団体の行為の数々。

あれは、非人道的過ぎる例だけれど、
一見、人道にかなうように見えてもそれと同じようなことの場合もある。
ここ数年急速に広がりつつある「タバコ追放に関するキャンペーン」に、
少々肌寒いものを感じているのは私だけだろうか?

確かにタバコは「百害あって一利なし」かもしれない。
しかし、現実に喫煙者がいてタバコが販売されているにもかかわらず、
一方ではその存在を抹殺しようという社会的な締め付けが厳しくなっている。
最近のキャンペーンや嫌煙者の主張を見聞きしていると、“ヒステリック”という言葉が浮かんでくる。
「今すぐ、ただちに、全部、無くして!」

別にタバコを擁護するわけではない。
タバコが良い物だとも思ってはいない。
が、この一件に現れているような非寛容の動きが、他の問題に関してもあるようで気味悪く思っている。

つまり、生半可に「知る」ことで極端な行動に走ってしまう人が多くなっているのではないか、ということ。
養老孟司さんの一文にあったように「『知る』ということは、ほんとうは大変なこと」なのではないかと感じている。
ひょっとしたら、我々は知らなくても良い場合もあるのではないか、とも思いたくなる。

2003/06/05 (木)  晴れ





「治安が悪くなったなあ」と感じていたら、
夜7:30のNHKクローズアップ現代でもそんな話題を取り上げていた。
地域の治安が悪化して自警団を結成するケースが増えているとか。
犯人検挙率が年々下がっている警察も、こうした動きを歓迎しているそうだ。

自転車が持ち去られるのは当たり前、
駐車中の車からの盗難も泣き寝入り、
強盗殺人で一家全員の命が失われても犯人は捕まらない。

犯罪の被害者にならないことが不思議なくらいの世の中になってしまった。

万引きしても、追いかけられて逃げて電車にはねられて命を落とせば追いかけた側が責められる。
社会ルールを無視している若者に注意して、逆に命を奪われても、
相手が未成年であれば、犯人に対する責任の追及は甘い。

おかしい、絶対に何かがおかしい。

第二次世界大戦後の教育は、試験に受かる為に答案用紙の空欄を埋めるための知識の暗記に終始してきた。
より多くの空欄を、出題者が定めた答えと同じ語句や数字で埋められる人物が力を握ってきた。
そうしたことに長けた人物を「エリート」と称して一目置いてきた。

「知」とは何だろう?
より多くの事柄を暗記し、それを何時でも引き出して理屈を並べられることだろうか?
そうした「知」を備えることが人生の目標であることに疑問を生じないでここまで突っ走ってきたのだろうか?
であれば、「知」とは何と浅はかなものだろう。

むしろ、答案用紙を埋める知識は少ないけれども、日々の生業(なりわい)に勤しみ、
ひたすら明日のご飯のことを気にかけて暮らし続けて来た人のほうが実践的な「知」を身に付けているような気がする。

子どもたちの様子が荒れすさんでいるのは、彼らの責任ではなく、
そうした文化しか築けなかった、現代の大人の「知」の問題のように思う。

2003/06/04 (水)  曇り  のち  午後から雨





朝の支度をしながら聞き流しているテレビから面白い話題が聞こえてきた。

一年365日、「今日は何の日」と呼ばれるものが世界中に必ずあるそうで、
そんな中でもユニークな「ご近所づきあいの日」なるものがフランスにあるという話題。

とかく「隣は何をする人ぞ」となりがちな都会生活、
そんな日常に変化をもたらそうと考えられた日なのだそうだ。

その日は、地域の空き地や人の通りのある歩道の一角に料理を持ち寄り、
誰でも気軽に飲んだり食べたりしゃべったり・・・
大掛かりに場所を設けてイベントとして行うのではなく、ちょっと集まっただけという気楽な雰囲気がうかがえた。

あっ、これはいいな、と思ったのだけれど、
これを日本で行うとなると、やれ衛生問題だ、役員は誰がするだの、場所はどこでどういう許可をとるのかだの・・・
始めるまでが大変で、開催中も大変で、終わった後も大変そう・・・

全てを自己責任で考えられるなら、
音頭を取る人が一人二人いるだけで気軽に実行できそうなことのように思えるのだが・・・

何のことはない、昔からあるご近所同士の井戸端会議的なお付き合い風景。
これが最近見られなくなっていることも、地域の生活感が薄まる一因かも知れないなぁと思った。

知人の住む住宅地では、隣近所数軒が声を掛け合ってバーベキューパーティーや夕涼みなどをしているらしい。
まあ、どんな場合にも複数の人が集まればさまざまなことが発生するわけで、良い面だけではないことも確かだけれど、
もう少し日常的な近所同士の接触は必要かもしれない、と考えた。

これは、ひごろ自宅を留守にしている私の感想。
私も、ひところの「会社で働く男性」のような感覚になりつつあるのかな?


2003/06/03 ()  晴れ





人生の時計の針は、いつ巻き戻されるかわからない。
積み上げてきた積み木も、決して永久効果の接着剤で止められているものでもなく、
脆くも崩れ去っていく場合もある。

進んでは後退し、進んでは後退し、それでもなお、否応なく進むしかない年月。
「あの時のあの場所からやり直したい」が叶えられない、命の定め。

それでもなお思う。

生きて為すことの全てが「無駄だった」ということはないのだ、と。
「365歩のマーチ」を心で口ずさみながら、少しづつ歩いていこうと思うこのごろ。

♪ 幸せは歩いて来ない だから 歩いて行くんだね ♪
♪ 一日一歩 三日で三歩 三歩進んで二歩下がる ♪

ここいらで、スピードを減速して亀のようにカタツムリのように
ノンビリ、ゆらゆらと生きていけたらなあ・・・