2002/12/31 (火) 晴れ 大晦日
この秋に発行されたある雑誌を読んでいて、ローザ・ルクセンブルクの名前に出会った。
ここにも、彼女に心を寄せる人がいる、と発見したことが嬉しい。
「血のローザ」と言われるほどに、
闘志を燃やして思想を高く掲げた彼女の一面がクローズアップされているが、
実は、ささやかな自然の営みにも敏感な感性豊かな女性であった。
真実を受け入れたいと望めば望むほど、
真実には程遠いものに対する疑念を払おうとする行動が、
周囲には過激に見られてしまう。
そして、金子みすゞ。
受け入れたい、受け入れられたい、
でも、真実の自分の心のほとばしりは隠しようもない。
ローザ・ルクセンブルクと金子みすゞ、
決して、恵まれ幸せな一生とは言い難い彼女たちの生涯。
柔らかな感性を備えつつ、真実を求め続けたその生き方に、
私は心惹かれて止まない。
2002/12/30 (月) 晴れ
一夜飾りは良くない、と言うことで、玄関ドアに市から配布された松飾の印刷物を貼る。
お墓参りを済ませ、やっと書いた年賀状を投函する。
夫が生きていれば、もっと甲斐甲斐しく動いているんだろうなぁ・・・と思いつつ、
急かす人もない気楽さから、毎年、遅れ気味の迎春準備。
毎夜三時間、三夜連続で「壬生義士伝」を観た。
「忠・孝・信・義・誠」
もはや語られることも無くなったこれらの言葉に命を預けた人々が、かつて存在した。
「忠」はともかくとしても、いずれの言葉も人として生きる上での【骨】だと思う。
この【骨】の上に「愛・情」の肉付けをして生きていけたら、どんなにか住み良い世の中だろう。
しかし、いつの世も、【骨】のある人物は突っ走って逝ってしまう。
そうして累々と積み重ねられた【骨】の上に、今の時代の暮らしが乗っかっている。
いつか私も、積み重なる骨に埋もれて、小骨の一片にでもなれるのだろうか?
それとも、無益な脂肪ばかりで跡形も無く消えてしまうのだろうか。
そんなことを考えている2002年の暮れ。
2002/12/29 (日) 晴れ
寝具のカバーをはずして洗濯し、布団をベランダに干して、室内に掃除機をかけて、
後はボンヤリとして一日を終わる。
何も急がない、何も考えない、こんな日もあっていい。
とか何とか言い訳しながら、年賀状書きは、しっかりやり残している。
人生半世紀を過ぎたこれからは、身の回りの整理をして行かなくてはと思っている。
物は増やさない、義理は最低限に押さえる、余計な気を遣わない。
あゝ、それが実行できれば、どんなにいいだろう。
2002/12/28 (土) 晴れ
言葉は、時代の流れと住む場所で変わっていくものだと思っている。
確かにそうなのだけれど、最近、気になって仕方の無い言葉がある。
「・・・せざるを得ない」「止むを得ない」などの「得ない」に関して。
最初は聞き間違いかと思ったけれど、よお〜っく注意して聞いてもそう聞こえる。
つまり、
「・・・を/得ない」と切るところを、「・・・/を得ない」と聞こえてしょうがない。
昔、長門勇という岡山県出身の役者さんがいて、お決まりのギャグが「おえりゃ〜せんのお〜」だった。
こちらは、「まったく、しょうがない」くらいの意味だと思うけれど、
最近の「を得ない」を耳にするたびに、このギャグを思い出してしまう。
「を/えない」と「/おえない」
しかも、抑揚もちょっと・・・
抑揚といえば、最近の話し言葉の抑揚を挙げ始めるときりが無い。
困ったことに、この「/おえない」読みは、NHK・BSの同時通訳の語り手にも聞かれることがある。
少なくとも、マイクを通して公に発言する場合には、できれば、正しい発音を聞きたい、
と思う私は、気にし過ぎかもしれない。
う〜〜ん、タメグチきいている時はどんな話しっぷりでも構わないけれど、
出るところに出れば、ちゃ〜んと正しい言葉が使えたほうが良いのではないでしょうか?
こうなると、文章の音読の重要性が思われる。
美しい言葉を美しい発音で話せるなら、それだけで好感度アップ間違いなし、なのだけれど。
言葉遣いへのイチャモンは、できるだけしないでいようと心に決めていながら、
気になって仕方が無い私は、うるさいおばさんには違いない。
「おえりゃ〜せんのお〜」
2002/12/26 (木) 晴れ
気がかりな仕事が一段落して、やっと、心置きなく年を越せそうな気分になっている。
今年は、年度始めからさまざまなことが続き、心穏やかならぬ日々が多かった。
それもここに来て、やっと気持ちの整理がつき、平常心を取り戻しつつある。
年を重ねたからといって、必ずしも達観できるものではないことを、身にしみて思い知った一年でもあった。
心の不安定の原因は、更年期という人生の節目によるところが大きいような気もする。
何やら言い知れぬ不安定感で、じっとしていられない時間が増えた。
これは、しばらく続くと思ったほうが良さそうだ。
とかなんとか考えながら、夕方、窓の外に目をやると、
本当に久し振りに、夕焼けに浮かび上がる富士山のシルエットが・・・
そうだ!忘れかけていた。
富士山のごとく「独立峰」として凛々しく生きていこうと決心していたことを。
さあ、あと数日!
今年の垢を洗い流して、
サッパリとした気持ちで出直すことにしよう。
2002/12/25 (水) 曇り クリスマス
何となく落ち着かないのは、師走のせいでしょうか。
道路はトラックなどの営業車輌で混雑しています。
事故を目撃する回数も、気のせいか増えているようです。
そんな風景ですが、
一時期の景気の好かったころに比較すると、
こころなしか「シーン」とした気配を感じます。
次第に窮地に追い込まれる状況の経済に関するニュースを見聞きすることが、
風景を見る眼にも影響を与えているのでしょうか。
お金が少なくても、気持ちは豊かにできるのだと、
もう一度、
40−50年前のあの頃を思い出そうと思っています。
『どん底』だということは、うつむいて下を見ても何もないということで、
それなら、顔を上げて、真っ直ぐ前か、さもなくば上を見ていたほうがいいような気がします。
『上』を見上げていれば、きっといつか『青空』が見えてくることでしょう。
2002/12/24 (火) 晴れ
仕事の手を動かしながら、ふと頭に浮かびました。
最近、「ありがとう」「すみません」「ごめんなさい」という言葉を、気持ちよく耳にすることが少なくなったなあ、と。
これらの言葉は【感謝・遠慮・反省】の気持ちから発せられるのだと思います。
そうした言葉が、時と場所をわきまえて、自然に交わされないことが、
人間関係を冷ややかでギクシャクしたものにしているもとのように思われてなりません。
なぜ、このような心持ちになれないかと想像するに、
今の時代に生きている人たちの多くが、
「やってもらうことが当たり前」
「自分がしたいことをするのは当たり前」
「私は悪くないのが当たり前」
として育てられて来たのではないだろうか、ということです。
何ごとも自分本位で「当たり前」の人たちが溢れているのでしょう。
そんな考え方の人たちに
「思いやり」とか「他の存在に対する優しいまなざし」とかを
期待することは無理なような気がします。
せめて、次世代の人たちには、
【感謝・遠慮・反省】について考え、身に付けて欲しいと思っています。
それには、今すぐにでも、親世代以上の人間が考えと行動を変えていかなくてはなりません。
事は急ぐようです。
「あったりまえだのクラッカー」は昔々のテレビ番組のギャグでしかありません。
自分が平穏に暮らせることの全ては、実は、「有り難い」ことなのですから。
2002/12/23 (月) 晴れ 天皇誕生日
農業ボランティアの畑に、久し振りに行ってきた。
なんだかんだと忙しい日々が続き、
畑にすっかりご無沙汰している間に、
ブロッコリーは食べごろになり、白菜はしっかりと巻き上がり、
大根は太く成長して、キャベツは、巻きが甘いながらも収穫するに十分だった。
山東菜は、12月の低温のせいで葉っぱが融けていた。
たくさんの野菜を収穫できた。
何ごとにも共通して、収穫とは楽しいものだ。
2002/12/22 (日) 曇り 時々 小雨パラつく
どんなに政治が嫌いであっても、関心がなくても、
否応なしに私たちの暮らしは政治の在り様に左右される。
その意味において、この数十年、信頼の置ける政治家に恵まれていなかったような気がする。
それどころか、政権が交代するたびに政治力も後退してきたような感がある。
このあたりで、筋の通った政治家による革新を期待したいところ。
およそ人間の鮮度は目に表れると私は思っている。
与党の某政治家が、国民や若手党員の期待を受けながら失脚した時も、
可能性がありながら、決戦の直前に彼の目は既に色を失っていた。
「あ、これは駄目だな」と、政治の素人にも直感させるようでは、
例え辛うじて政権の頂点に立ったとしても、リーダーシップは発揮できなかっただろう。
今朝のテレビに、ちょっと期待感を抱かせてくれる人物数人が出演していた。
地道に政治活動をしていることは知っていたが、やっと日の目を見る日が来るのかと思うと嬉しい。
彼らの目には、未来を見据え、現実に果敢に取り組もうとする清新な色を感じる。
信念を語り政策を語る時には、言葉は明快で解りやすくあるべきだろう。
その為には、自分の政治哲学をしっかり持っていなければ、
国民の理解は到底得られない。
全ては、使命感の有る無しによる。
期待と信頼を寄せて、ある人物を支持する事は責任を伴う。
さあ、これからだ!
との思いで、彼らの働きを見守っていきたい。
2002/12/21 (土) 曇り のち 雨
今更ながら、人はそれぞれだとつくづく思う。
何かにつけて、他を押さえて優位を保とうとする人もいる。
どんなに誇れる地位や人柄を備えていようと、誰に対しても同じ足場に立ってくれる人もいる。
どちらがどうだと語るのも詮無いことだけれど、当然そこに相性が生じる。
他を押さえ、自分の優位を保とうとすれば、そこには駆け引きが生まれる。
そう来るならこう行こう、こうされたからこうしてやろう、ああなりたいからこの場をこう繕おう・・・
そんなことに気を遣って疲れるのは嫌だ。
『良し・好し・善し』と思った道を歩いていきたいなあ・・・
そうすれば、仏様から『おお、ヨシヨシヨシ』と頭を撫でてもらえるかもしれないなあ・・・
そうだといいなあ・・・
2002/12/20 (金) 曇り
友人から「一緒に行くはずだった人が行けなくなったから」と、急な誘いを受けて東京へ観劇に出かける。
劇団「四季」の「ライオン・キング」。
数年前から、「これはいい演劇だからお奨めよ」と言われながら見逃していたもの。
折りしも今日は、初演以来4周年のアニバーサリー。
そこに、クリスマスシーズンということもあって、
最後にサンタの登場もあり(清しこの夜)の合唱もあり、十分に盛り上がり、楽しめた。
カーテンコールも6−7回幕が上がっただろうか・・・
久し振りの観劇に、しぼみかけていた気持ちが一気に張りを取り戻したような充実感。
芸術にお金をかけても、空腹が満たされるわけでも物欲が満たされるわけでもない。
なのに何故か、音楽や演劇や絵画を鑑賞すると、沸々と生きる力が満たされてくる。
「人はパンのみにて生くるにあらず」とはこのことか、と・・・
東京の夜景は、シーズンのイルミネーションがきれいだった。
2002/12/19 (木) 曇り 一時 小雨パラつく
心が凪いで、静かな気持ちになると、何も考えていない自分がいる。
ジタバタともがき苦しみ、グチグチと繰り言を並べ立てていても、
ほんの小さな出来事で、語るのを止めてしまうことがある。
そのキッカケは、必ずしも快いことばかりではなく、
グサリと胸に突き刺さるような言葉の時もある。
「ああ、語れば語るほど理解から程遠くなっていく・・・」
そう思った時、「これ以上語るのは止めておこう」と思う。
決心がつくと、途端に、心が平坦になっているのに気がつく。
ひょっとしたら、自分の感受性を胸の奥深くしまい込んで蓋をしてしまうのかもしれない。
気がついたり考えたりするから傷つくのなら、いっそ、気付かない、考えないでおこう、と・・・
そんな時には、文章も詩も生まれてこない。
一見すると穏やかに楽しげ・・・実は、心は仮死状態ということもある。
2002/12/18 (水) 晴れ
「老化の衰えは脚から来ます」とは何度聞いたり読んだりしたことだろう。
歩くことが好きな自分には関係のないことだと、ずっと思ってきた。
パソコンを始めたり本を読んだりと、座ることの多い趣味に没頭するようになり
おまけに子どもに手がかからなくなり、年齢も高くなり・・・
あらゆる条件が揃って、
ご多分にもれず、私の脚力もガタンと音を出さんばかりに、急激に衰えてきた。
気がついたのは、以前のように姿勢を保てなくなったこと。
そして、歩く時に脚をスタスタと運べなくなったこと。
エアロビクスやウォーキングをかじったお陰で、体の筋肉に関する知識が少しだけある。
そのわずかな知識で判断すると、体中の筋肉が緩んでしまったらしいことが実感できる。
「自分は大丈夫だろう」などという根拠のない自信は脆くも崩れてしまった。
ある時期が来ると、それまでのように放っておいても体は動くとはいかなくなるものらしい。
また、たとえトレーニングを始めたとしても、以前に比べると、効果の出現率は低下している。
もしも、脳にも「思考の筋肉」といえるものがあるならば、
それはきっと、弾力性を失って、
伸びきったゴムか焼き過ぎて縮んだ肉のようになっているんだろうなあ・・・
こうして徐々に『老い』と向かい合う日が訪れる。
「生まれた日から、死に向かって人は生きているのです」
一度しかない人生とは知っていたが、ほんとうに大切にしてきただろうかと振り返る。
今からでも遅くはない、一日一日を味わいながら暮らさなくては。
2002/12/17 (火) 晴れ 強風
一日、強い風が吹く。
一年も残り半月になると、後は、どうぞ何ごともなく年越しできますように、と祈る思いでカウントダウンに入る。
なるべく大きな行動はしないように、ソロリソロリと過ごしている。
節目があるから気持ちの切り替えもできて、振り出しに戻って再スタートができる。
年が改まったからと言って、時の流れに明確な仕切りは無いのに、不思議なことだ。
暦を考え出して日々を数え始めた人間の智恵の偉大さを、つくづく思う。
人類が発生して進化して・・・
さまざまな文化的、技術的進歩があったわけだけれど、
人の情動に関しては、太古も今も、基本的には大差ないのかもしれないと感じることもある。
何もないところから、道具を作り、技術をあみ出し、理論を構築して地球上に存在しつづける人類。
常に、進化・発展の強迫観念にとりつかれているかのように、新しいものを探し求めているような気がする。
本当に、これからも発見・発明をし続けなくてはならないのだろうか?
そう問い掛けてみても、誰にも答えることはできないし、
人は相変わらず目新しいものを探し続けることだろう。
時々ふとそんなことを考えながら、
地球上に現れては消えていった人類の一人として
日々の命を削っている。
全てのことは、不思議の一語に尽きる。
2002/12/16 (月) 晴れ
「寒ガラス」冬場のカラスのことのようです。
今朝、テレビで言っていました。
同じカラスなのに、言葉を変えてみる。
ちょっといい感じです。
そうそう、最寄のJRの駅まで歩く道の途中に、4−5本の梅の木があります。
白梅です。
この梅が咲くのを、もう何度、目にしたことでしょうか。
昨日もすでに、蕾の兆しがありました。
こうした静かな冬の夜更けには、
ふっと、
春のことを考えてみたくなったりします。
2002/12/15 (日) 晴れ
テレビから、「討ち入り」の言葉がひんぱんに聞かれて、
「ああ、そうだった。昨日が討ち入りの日だったのだ」と気が付いた。
毎年この時期になると「赤穂浪士の討ち入り」を題材にしたドラマが作られる。
このネタも、長く続いているなぁ、と思う次第。
最近では、時代劇も様子が変わってきていて、
セリフがいやに現代風だったりするので「アレッ?」と思うことがある。
このまま、その時代に合わせた時代劇が作られていくと、これからどんな変化をしていくのだろうか?
というわけでもないが、今日は「たそがれ清兵衛」を観に、映画館に出かけてきた。
のんびりした一日だった。
2002/12/14 (土) 晴れ
明るい日差しに励まされて、ふっと掃除を始めたくなった。
その気になったら、その気が失せてしまわないうちにサッサと取りかからねば・・・
ということで、台所の流しの上の棚から整理を始める。
昔、中学校の家庭科で、台所の主婦の動きについて習ったことがある。
台所における主婦の動きは決まっていて、上下左右に移動がスムーズであるほうが使い勝手の良い台所と言える。
その動きを図に線引きして表したものを「動線」と教わったように記憶している。
あれから台所もずい分改良されて、最近ではほとんどがシステムキッチンになっている。
近ごろでは、身長に合わせて流しの高低も調整してくれるようだ。
これは非常に重要な問題。
自然な姿勢で家事ができるというのは、体への負担が軽く済むのでありがたい。
といったことをあれこれ思い出したりしながら、
何とか台所の片づけを終え、ついでに洗面所まで掃除できた。
良かった、良かった。我ながら上出来の一日。
2002/12/13 (金) 晴れ 午後になって 怪しい雲
人間ってつくづく「誤解の生き物」だなあ、と思うこの頃です。
(生物には「ゴカイ」と、そのままの名を持つ物もいるようですが)
何気ない言動を曲解して受け止められることは日常茶飯事です。
意図して捻じ曲げて解釈してくれる(皮肉をこめています)人もいます。
我ならぬ身なら、そうしたことにも手の打ちようがありません。
時には、窮地に追い込まれることもあります。
後味悪く終わることもあります。
それでも、誤解を解く為に奔走するより、
信じた道をそのままに歩きつづけるほうが良いと、
このごろやっと、そう思うようになりました。
まだまだ、行きつ戻りつの歩みですが、
「こう生きたい」の実現に向かって残された人生を消費していく、
これが私の望みであり、生き方でもあります。
誰のために生きるのでもない、
ただひたすらに自分の納得のために生きるのですから。
2002/12/12 (木) 晴れ
和歌山カレー事件に、地裁で死刑の判決が出た。
嫌な事件だった。
憎いと思えば何をしても罪を感じないでやってしまう人間がいるのかと問う時、
そういう人間はいない、と言い切れないことがまた、恐ろしい現実。
死刑判決を聞いても、薄ら笑いを浮かべられる神経とは、どれくらいの図太さなのだろうか?
それとも、修羅場をくぐり過ぎると、神経は麻痺してくるのだろうか?
報道された限りの情報で、何が真実かを判断することはできない。
が、確かに数人の人たちが腹痛に苦しみ、
その中の何人かが亡くなったということは動かせない事実として存在する。
事実はいつも、下手な小説よりドラマティックであり、
スッキリとした解明はされないことが多い。
人の心の複雑怪奇。
ふらりと、あてのない旅に出たくなる。
2002/12/11 (水) 晴れ
ノーベル賞の授受が終わったらしい。
小柴さんと田中さんが、純金のメダルを手に微笑んでいる写真が新聞に掲載されている。
それにしても、記者団の田中さんへの集中取材は大変なものだ。
傍でとぼけた答えを返している小柴さんも、なかなか。
心から「おめでとうございます」と申し上げたい。
日本人って、本当はすごいのだ!
2002/12/09 (月) 雪
「自己開示力」・・・自分をどれほど相手に伝えることができるか?
こんな力が弱くなっている人が多くなったように感じる。
プライベートを隠したい、と言うのではなく
自分がどういう人間であるかを表現できないのではないか、という印象を受けることもある。
自己開示するには、自分を十分に知っていなくてはならない。
その為には、普段から自己を見つめることを習慣化しなければできないことのように思う。
コミュニケーションにおいて、相手に心を開いてもらう為には
ある程度は、こちらの心も開かないことには受け入れられないことかも知れない。
常日頃から思考を鍛え、自分自身の拠って立つスタンスを決めておきたいと思うこのごろ。
会話力はその後のことかもしれない。
2002/12/08 (日) 曇り 一時 雨ぱらつく
前々から読んでみたいと思っていた本を手に入れた。
読み進むうちに、「なるほど、なるほど」と納得のいく文章が続く。
「人はなぜ、足を引っ張り合うのか」 ・・・自分の幸福しか考えない人間がいる・・・
社会心理学者:齋藤 勇:著 プレジデント社:発行
帯に書かれた言葉を転記すると
(表)
*人間関係は底なし沼か
Q 「みんなが君を批判しているよ」の「みんな」って何人のこと?
Q どんなリーダーシップのとき、「いじめ」は起きるの?
(裏)
*人の足を引っ張るなどということは卑劣極まる行為であり、良識ある者のやることではない・・・大半の人はそう思っています。
ところが、人間は、会社のため、組織のため、みんなのため、というような大義名分を主張しつつ、実は人の足を引っ張ります。
本人の表面的な心理は「正義」なのですが、裏には自己中心的な「欲望」が渦巻いています。
・・・中略・・・
人はどういう状況の下だとどう動くのか。人は状況がどう変われば、互いに争いの牙を収めるのか。
社会を多民族が構成する欧米社会の学校や大学などでは、
こうした知識を習得させるためのプログラムが充実しているところが多いのです。
(「あとがき・・・人間関係を底なし沼にしないために」より)
集団の中の一人になると、途端に行動に変化が生じる。
目にしたもの、耳にしたことによっても、人の行為は影響を受ける。
一人で考え行動すれば、そうそう非常識で残酷な行動には走らない人も、
「・・・のため」という大義名分を掲げることで、突っ走ってしまうことがある。
「先入観」で人を見ることの怖さ。
「民主的リーダーシップ」「専制的リーダーシップ」どちらのもとで「いじめ」は発生しやすいか。
古今東西、およそ人間が暮らす場所では、永遠に無くならない問題だとは思うけれど、
一人一人が、人間の感情にはそうした変化が起こりうるのだ、と自覚している場合とそうでない場合では、格段の差が生じると思う。
社会心理学は、もっと実生活に生かされて良い分野だと思う。
特に、人を束ねる立場に就こうとする人は、こうした人事管理の詳細をしっかり把握してほしい。
知らぬ存ぜぬでは済まされないはずだ。
これ以上、いたずらに心身を病む人間を増やさない為にも・・・
2002/12/07 (土) 雨
朝から雨。
片づけなくてはならない用事があって、
今日の農業ボランティア講座を欠席しようと、欠席連絡のためにあちこちに電話をしてみるが、どこにも繋がらなかった。
仕方なく、講座会場に出向く。
同じ班のメンバーから、講師の訃報を聞く。
とても優しく楽しい講師で、次にお会いできるのが待ち遠しいくらいのお人柄だった。
人の命の終わりは予測できない。
現物として何かをもらえるとか、付き合えば得になりそうだとかいった価値観で「良い人」と、
呼ぶのも呼ばれるのも本意ではない。
できれば、「あの人と会うたびに、なぜか知らないけれどホッとする」
そう言われる存在になれたら嬉しい。
年の瀬は、突然の訃報が多くなる季節。
2002/12/06 (金) 曇り
偶然のキッカケから、70歳前後の年配の女性三人とお話をした。
このところ、(私の)常識的な会話が成り立たない経験が重なり、気持ちが乾いていたところに、
その方たちとの語らいは、とてもみずみずしく豊かに柔らかく感じられた。
「あゝ、これこれ、これが普通の会話よね」
そう、胸のうちでつぶやきながら、行き交う上質の言葉を丁寧に受け止めた。
お一人は上品で磨かれたセンスの持ち主、
もうお一人は、向上心豊かでチャレンジ精神旺盛な方、
また、別のお一人は、静かににこやかに会話の行方にうなずかれる方。
お互いの話に水を差すわけで無し、「私が、私が」と言い張るでも無し、
程よい発言でお話が推移した。
わずか一時間ばかりの会話の中に、教えられることがたくさんあった。
もっと語っていたい、と、後ろ髪引かれる思いでお別れした。
人生の重みを感じたひととき。
またお会いしたいな。
2002/12/05 (木) 曇り 暖かめ
スッキリとは晴れなかったけれど、気温は高めの穏やかな一日。
もう来年の春に向かって水仙の葉がスクスクと伸びている。
年が明けると間もなく、淡い香りを漂わせて、日本水仙が花開く。
踏まれても折られても、根こそぎにされても、
花は文句一つ言わない。
それにひきかえ、最近の我が身を振り返ると恥ずかしくなる。
ただ、黙って抹殺されるのは、やっぱり腑に落ちない。
「世の中良いが良いじゃない、悪いが悪いじゃない」
というご時世が、何とも恨めしい。
筋はちっとも通っていないと、つくづく思う。
それでも流れていく世の中が、不思議でたまらない。
いやいや、だからこその混迷の現状なのだろう。
ああも考え、こうも考えしながら一年が終わろうとしている。
2002/12/04 (水) 雨
一日中降ったり止んだりの雨。
解ってくれる人は解ってくれている。
そんな雰囲気を肌身に感じて、少しばかり息を吹き返したような一日。
「天知る地知る・・・」
信じる道をはずさないように歩き続けることが大切、と再確認。
気短に目先の欲を追い求めることなく、
ここはじっと辛抱して、自分を見失うことなく過ごさねばならない時と思う。
そう思ったら、途端に体が軽くなったような気がした。
人の情けのありがたさ。
2002/12/03 (火) 曇り
ときどき、人生の迷路でウロウロと行きあぐねているような感覚になる。
そういう時には決まって、この状態には出口は無いのではないか、という悲観的な考えで胸がいっぱいになる。
人間とは弱いものだ。
人間全般を例に出さなくても、私個人は弱い人間だ。
気持ちも確かで心も強く過ごせる時もあるのに、一旦、迷い始めるとなかなか引き返せない。
登山をすると、登山道のところどころで、赤い目印をつけた木や石が目に付く。
これは道に迷わないようにとの計らいで、山の管理をする人たちがつけておいてくれる物。
富士の樹海のように、足を踏み入れると前後左右の方向感覚を失ってしまうような所では、
入り口から糸や紐を引き伸ばしながら入ればいい、と言った人もいた。
進むべき道を教えてくれる赤い目印や、元の位置に引き戻してくれる紐が欲しい、と思う日もある。
2002/12/01 (日) 雨
例えばこんなことなのかと、ふっと頭に浮かんだ。
湯船に沈んでしばらくじっとしていると、体の周りの水も落ち着き、さざなみもおさまってくる。
ところが、お湯の中で動き回れば、当然のように水はパシャパシャとはね上がる。
お湯の中でじっとしていられる人と、お湯の中でもストレッチやマッサージなどをせずにはいられない人、
その差なのだろう、と。
どちらが良い悪いの問題ではなく、
誰かがそして何かが動くということは、
それに伴って動く反応が周囲には必ずあるのだということ。
変化と行動を好まなければじっとしているように心がければ良いし、
生来の性分で、じっとしていられなければ、
その結果として何らかの抵抗や逆風や波は覚悟しなければならないのかも知れない、と。
う〜ん、そう言えば、自分は温泉に浸かってもすぐに出てしまうほうだし、
せっかくの露天風呂であっても、じっくり景色を眺めて長時間ボンヤリすることもない性分だったなぁ・・・