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2002/11/30 (土) 晴れ
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インターネット上に公開するホームページに関しては、
さまざまな見方があるものだなぁと、考えさせられるこのごろ。
このHPを公開して一年八ヶ月、PCを使うようになって二年になった。
インターネットに関しては、ほとんど何も分からずにアクセスするようになり、
のっけから予期せぬ非難を受けたりして、気持ちは一気に後ろに引きそうになったこともある。
「こんなに怖いところなら二度とネットに参加するのは止めておこうか」と思ったこともある。
「だが待てよ、嫌な思いをしたからと、いちいち引いていては何も始まらない」
「他人が作るHPは他人様の価値観。そこにそぐわないからと言って、私の人格がそこなわれるものでなし。
ここはひとつ、『こうであればいいな』と思う、自分の素直な気持ちに沿える場所を作ってみるのも悪くない」
そんな思いに突き動かされ、細々とHPの歩みを進めてきた。
常に「如何でしょうか?」「こういうことは受け入れられるでしょうか?」の気持ちがある。
このHPは、最初から訪問者に恵まれている。
そのことに関しては、常に感謝の気持ちを抱いている。
流れる時間の間には、誤解・曲解・すれ違い・勘違いなどでお目にかかれなくなった人々もあるのだけれど、
それはそれで、お互いが相性による適度な距離を選んだのだと思っている。
本文のコンテンツは自分のつれづれの思いつきであり、一個人の考え方に過ぎない。
そこに掲示板をつけたことにより、自分以外の人とふれ合い、
もしかしたら歪んでいるかも知れない自分の思い込みを考え直す為の『道場』ともなっている。
小学校の時に、ある校長先生が朝礼のお話で話されたひと言は、未だに私の脳裏から消えていない。
「人は、注意してくれる人があるうちが幸せなのですよ。そのうち、年取ってくるとだ〜れも注意してくれなくなります。」
HPに設けた掲示板に、心豊かで優しい人たちに訪問して頂ける私は、
幸せ者だなぁ、とつくづく思うこのごろ。
年の瀬になると、何となくこうして足跡を振り返ったりして・・・
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2002/11/29 (金) 晴れ
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「不信の時代」だと思う。
人の話は疑ってかかれ、と思う人が増えているように感じる。
もちろん、危うい世の中になっていることは否定できないのだけれど、
何かが欠けているのではないだろうか?
信頼、理解、共感、寛容、受容・・・・・
語れば、
「ああ、そうだったね」「そういうこともあるよね」「そうだったのかぁ」
と受け止め
「実は、自分としてはこれこれこうでね・・・」
と続く。
そうした人間関係が希薄になってきているように感じる。
疑えば、自分以外の人間は全て信用できない。
場合によっては、自分さえも信じられない状況に陥る。
そうして人は精神を病んでいく。
今の時代にお釈迦さまがお見えになって何かを語られても、
人々は容易に耳を傾けず、その言葉にすら疑いの目を向けるのではないか、
そんな気すらしてくる。
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2002/11/28 (木) 晴れ
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コミュニケーションは「あいづち」を打つことから始まる。
何も同調しなくても良いけれど、
せめて、「あなたの話は聞こえていますよ」という意思表示の声を出すのが会話だと思う。
ところが、これが数人の人間が集まると声が出てこない場面が多くなっているように感じる。
一対一だと、どうしても何らかの返事を返さざるを得ないが、
二人、三人と聞く人の人数が増えていくと、「ウン」でもなければ「スン」でもない状態になる。
こんな時に、真っ先に声を出して「あいづち」や「問いかけ」をするのは勇気を要する。
しかし、黙り込む数人を前に、その受け止めた反応もわからずにしゃべるのは辛いものがある。
視線はこちらに向けられていて、笑みだけでも返してくる人もあるのだけれど、
やはり、声で反応が返ってこないというのは不気味なものだ。
次第に自分の話し方が弱気になっていくのが情けない、という経験がある。
自分が一人で複数の人の前で話すという経験を何度かして以来、
私は、人が話をしている時には無言で見つめてはいられなくなった。
話し手の居たたまれない感情を想像すると、何らかの反応を示さなければ、と思ってしまう。
もちろん、これはいわゆる「講演」などのケースではない。
使いこなせる言葉の数【語彙】の少ない人が増えてきているのかも知れない、
そんな印象を受ける昨今。
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2002/11/27 (水) 晴れ
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語れば揚げ足を取られ、口を閉ざせば何も無い腹を探られ・・・
いったい、この私にどうしろと言うの?
と訊きたいときもある。
信頼と受容の気持ちの無いところには、思いやりを期待するのは所詮無理な話なのだろう。
「他山の石、以って玉を攻(おさ)むべし」=(他山の石は、それを砥石として玉を磨くことができる)
「The fault of another is a good teacher.」=(他人の失敗は良い教師なり)
そう思うしかないか・・・
今日の教訓は、
人間、「反省」と「感謝」の気持ちを忘れてはいけない。
そんな気分。
あ〜、疲れた。
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2002/11/26 (火) 晴れ
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風邪で一日ボンヤリしていた。
クシャミ・鼻水・鼻詰まりと風邪薬の宣伝に並ぶ症状がみんな出ている。
一日家の中でブラブラして、夕方には少し持ち直してきた。
夜、TBSのドラマ特別企画で、ビートたけし原作をオムニバス形式でドラマ化した「少年」を観る。
短編の三部作で、小中学生くらいの子どもの風景を描いたもの。
しつこく問題を掘り下げて長時間のドラマにしたてるよりも、分かりやすかったような気がする。
しかし、問題は提起されたまま、思考の課題は視聴者に委ねられたようだ。
番組最後に、次々と映し出される昔の子どもが写っている写真の数々。
それは、ビートたけしと同年代前後の我々が、子供だった頃の風景だった。
宗教学者:中沢新一も警鐘を鳴らし、こころある中高年なら薄々気付いていることだけれど、
団塊の世代の尻尾の50歳を境に、日本の精神風土や伝えたい文化の伝承が途切れようとしている。
ビートたけしも、そんな危機感を抱いている一人のような気がした。
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2002/11/25 (月) 曇り 時々 雨
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久し振りの雨。
新聞に入ってきたチラシに、懐かしい顔が・・・
ソロとイリヤ、言わずと知れた(この頃では説明しなきゃわからないかも)「ナポレオン・ソロ」の主役二人。
「むっ、さてはテレビで再放送か?」と、よくよく見れば、
再放送は再放送でもケーブルテレビでのことだった。
「う〜ん、我が家はケーブルテレビは契約してない。残念」
あの頃のテレビ番組は楽しかった。
「シャボン玉ホリデー」や「夢であいましょう」なども生放送で、
歌は口パク当たり前、アドリブの面白さもあるし、ハプニングも人間くさくて良かった。
ユーモアは上質で、礼儀と節度のあるバラエティは安心して観ていられたような気がする。
最近は、テレビを付けない日が多くなった。
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2002/11/24 (日) 曇り
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24年ぶりに帰国された拉致被害者の方たちを報道で見かけるたびに、
その表情が柔らかく変化していくことに気付く。
具体的な言葉で表現されなくても、
そんなところからも、向こうでの生活の緊張感や厳しさがうかがえる。
一度ならずも二度までも、ある日突然、
本意ならずも生活の場を変えさせられるという過酷な運命。
この人たちに、一日も早く落ち着ける日が訪れることを祈りたい。
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2002/11/23 (土) 曇り (勤労感謝の日)
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ここ数日、喉が痛くて気力が後退している自覚があったのだけれど、
どうやら緩やかに風邪の症状が進行していた模様。
いつものことながら、休日を待って症状が悪化する。
というわけで、「休みにはあれをしようこれをしよう」が全てキャンセルになってしまう。
今日は勤労感謝の日。
誰も感謝してくれるわけではないので、自分で自分の働きに感謝しながら、
ウダウダと過ごして一日を終える。
(うん、これもいいかも。これでいいかも。)
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2002/11/22 (金) 曇り
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東京都港区六本木にある「みなとNPOハウス」の見学をして来た。
廃校となった中学校の建物を借りて、28団体の事務所が入居する施設としてスタートするオープニングイベント。
体育館で行われたシンポジウムでは、電気ストーブのせいで停電する場面もあり、
これらの活動が派手な利益とは無縁の活動であることの象徴的な出来事のような気がして
それはそれで、ほのぼのとした雰囲気をかもし出していた。
現代社会で、人々が解決したいと思う課題はそれぞれに異なっている。
「一丸となって」というのは、この多様な社会では現実的ではなく、
それはむしろ少数者に無理を生じさせるであろうことを考えると、
シンポジウムでも言われていた通り「21世紀はNPOの時代」と言えるのかもしれない。
介護・福祉・環境・教育 etc.
これまでの例に倣って分類わけはできそうだけれど、
基本は【人間の暮らし方とこころの豊かさ】にあるような気がする。
そこに視点を据えた上で、活動が拡大するか縮小するかの話であって、
NPO/有償ボランティア/コミュニティ・ビジネスといった形態の目標とするところは
決して、「競い合う利潤や名誉」ではないのだということ。
ただ、人が動く時にはお金は不可欠のものであり、
お金が介在することで、ボランティアにも受益者にもそれなりの真剣みが生じるのであれば
それはお金の生きた使い方ということで、有償ボランティアは検討される価値のあるものだと思うようになった。
NPOも有償ボランティアも、現在、そのあり方を模索中。
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2002/11/21 (木) 曇り 一時 晴れ
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今夜は久し振りにテレビで洋画を観た。
昔はほとんど洋画ばかり観ていたのに、
最近は、テレビドラマならお手軽な和製のサスペンスが肩が凝らなくていいと思っていた。
それにしてもすごい迫力だった。
メリル・ストリープ主演の「激流」。
メリル・ストリープは好きな女優。
彼女を好きになったのは「愛は霧のかなたに」を観た時から。
西ローランドゴリラの研究者を演じた彼女に、すっかり惹かれてしまった。
性格俳優というのだろうか、内面の表現に長けた女優だと思う。
男性俳優なら、ロバート・デニーロが同様の傾向にある。
こちらも好きな俳優の一人。
洋画が好きな理由のひとつは、女性の描き方。
辟易するほど甘ったるく扱わないところが好き。
とにかく自立している女性が多い。
あくまでも、強くたくましく、それでいながら情もある。
振り返ってみると、数多く観てきた洋画の中の女性の生き方が、私のお手本になっているような気がする。
今晩は、ハラハラドキドキの映画鑑賞だった。
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2002/11/20 (水) 曇り
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新聞の折り込みチラシに、大型のおもちゃ屋さんの広告が入っていた。
そろそろクリスマスプレゼントを当てにして、子どもの気を引く為のチラシ。
最近の子どもたちは、どんなおもちゃを欲しがるのだろうか。
クリスマスプレゼントの心配をしなくなって、おもちゃにはすっかり疎くなってしまった。
夕食の買い物に立ち寄ると、クリスマスケーキの予約も始まっている。
一時期ほど派手な商戦はなさそうだけれど、一応季節の商品か。
バタークリームたっぷりのケーキが、何時の頃からか胃に負担がかかるようになった。
大好きだったのに・・・
クリスマスケーキとして眺めるには、丸型よりノエル・ド・ブッシュがいいかな?
そう言えば、改めてクリスマスケーキを手配することもしなくなった。
そういう生活は、ちょっと寂しいかもしれない。
今年は久し振りに、ケーキでも買ってみようかな。
去年見かけたお宅は、今年もイルミネーションを飾り付けるのだろうか?
埒もないと思いつつ、切れ切れにそんなことを考えた。
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2002/11/19 (火) 曇り 一時 晴れ
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時折ふっと考える「あと何年こうして考えたり動いたりしていられるだろうか?」と。
それは決して暗い気持ちからではなくて、むしろ、与えられた時間を貴重なものとして受け止めている時。
きっと、そう長くはないはず。
10年20年はあっという間に過ぎてしまうことは、
これまでの人生を振り返ると自明の理。
10年で何ができるか、20年なら何をしよう。
そんなことを考えながら、今ひとつ集約してくるものがない。
とどのつまり、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、
三度のご飯を頂いて、寝て、起きて、
また、「ああでもない、こうでもない」と日を送る。
うん、これもいいかもしれない。
これが人生かも知れない。
生きているんだなあ、私。
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2002/11/17 (日) 曇り
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友人に誘われてサッカー観戦。
曇り空の下、少々寒い一日だった。
熱心なサポーターとは言えないけれど、一応地元のチーム「柏レイソル」を応援している。
今年の成績は振るわない。下位低迷でシーズンを終わりそう。J2落ちも危ぶまれる。
何が原因かはわからないのだけれど、
活躍している時の試合とは雰囲気が違うということは感じる。
個人には、その時その時で変化する気の流れのようなものがある。
それは、チームにも言えるのかもしれない。
最近思うのは、狭い範囲の地域や国全体に関しても、
バイオリズムと言えるような空気の変化があるような気がしている。
重苦しい空気に流されないようにしなくては。
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2002/11/16 (土) 曇り
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この国の精神的な荒廃を切実に感じ、危機感を抱いている。
その為に自分は何ができるのか、と模索しつづける毎日。
「念ずれば通ず」ということで、少しづつ見えてくるものはある。
それに向かって全力でまい進したいのだけれど、なかなかそうも行かないもどかしさがある。
与えられた時間はどんどん消費されていく。
「もっと時間が欲しい」と思うこともある。
気力・体力も、これまでのレベルを維持するためにはより一層の自己管理が必要になってくる。
課題山積、実行低迷、
などと言って手をこまねいている場合ではない。
まずは目先の小さな事から。
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2002/11/14 (木) 晴れ
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シチューにも入れた、煮びたしにもした、和え物や炒め物もしてみた。
熱を加えると嵩(かさ)が減る。それを考慮すれば、一度に多量の葉っぱを調理できる。
食感と味は、ほぼ白菜。 なるほど、聞いたとおりに葉が折れたりちぎれたりし易く、 持ち運ぶ際に傷み易い野菜である。 本当は、漬物が一番美味しいのだそうだ。 残念ながら我が家にはこれだけの菜っ葉を漬け込む容器も場所も無い。 と言うわけで、このところ野菜が主食のような毎日。 体調はすこぶる良い。 ベジタリアンって、絶対に健康に良いに違いないと、つくづく感じさせられる。 薄暗がりの中で収穫してきたら、茎の部分にミミズが数匹潜んでいた。 畑で見た時は「ここの土はいい土なんだね」という誉め言葉も出てきたけれど、 マンションの台所にミミズを連れて帰ると捨て場に困る。 ミミズもいる、青虫もいる、まあ、それが自然かな。 |
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2002/11/13 (水) 晴れ
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傍から見ると、どんなにゆったりして見える人でも、
周囲のあら探しをせず自らの向上に余念の無い人は
せわしなく精神的な気を働かせている人だと思う。
傍には、さも忙しそうに見せていても
常に他人を貶めようとか、あらを探そうという目線で見る人は、
要するにヒマなんだと思う。
見つめるのは自分の行いだけで良いのではないだろうか?
他人のことはその本人が自省すればいいのだから。
他人のあら探しばかりしているうちに、自分の姿が崩れているのにも気がつかない、
そんなことになりはしませんか?
と、面と向かって言いたい相手がいて、
でも、言っても無駄なような気がして・・・
次第に疲れがたまっていくこのごろ。
何とかしなくっちゃ!
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2002/11/12 (火) 晴れ 暖かめの少々きつい風
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「ゴマすりも人間関係力のひとつ」と書かれた記事を読んで落ち込む。
自分には到底できそうにない。と言うことは、人間関係力が弱いということか・・・
確かにお付き合いは苦手ではあるが、誠意を持って対処したいと常に心がけてはいるつもり。
それなのに、何故か気持ちが行き違う。
つまりは相性の問題で、誠意や人柄ではどうしようもできないこともあるのだと思うようになっていた。
ところが、その記事の続きに「技能や人柄」が、人間関係を好くする為の要素に占める割合は少なく、
人は「自分を気持ちよくさせてくれる」相手に好感を持ち、高い評価を与えると書いてある。
なぜなら、人は好意には好意をもって返したいという返報性があるからだそうだ。
例として、ノーベル化学賞受賞の田中さんが挙げられていて、
彼が昇進試験を受けずに、一研究員として働くことを選択した事は
会社の評価制度に関心を持たなかったということで、会社も彼の業績を見出すことはなかったのだと。
もしも、ドイツの研究グループの口添えが無ければ、彼の受賞は無いままであったろう、と。
また、優秀な研究や業績を挙げながら、「人間関係力」に欠ける為に埋もれる場合があるとも書かれている。
これからを見据えた目新しい論点のように扱われているのだけれど、どこかしっくり来ない。
地道に仕事に取り組む人は、得てして点数稼ぎは苦手な場合が多いかもしれない。
確かに、自分の存在をアピールして立場をよくする為には「立ち回りの上手さ」がものを言うだろうけれど、
全体の流れがそういう方向に向かってしまっても良いのだろうか?との疑問が胸のうちから消せない。
実直とか真面目とか、そういうことが軽んじられる風潮をヒシヒシと感じている今、
こんなことをこんな大層な雑誌が書いているのでは、
ささやかに暮らす多くの人々が、生き辛さを感じるのも当然かなという気がする。
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2002/11/11 (月) 晴れ
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人を束ねることは難しい。
束ねながら、その枠の中で自由にそれぞれのメンバーが動けるように計らうのは、もっと難しい。
その上で、最終的な責任を一身に引き受ける覚悟を持つことは、さらに難しい。
おそらく、こうしたことを具現でき得る人物に人はついて行くものなのだろう。
そうした人をこそ、真のリーダーと言うのだと思う。
今日読んでいた雑誌に、図らずも関連する言葉を見つけた。
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多様な意見の
噴出を束ねていくのは
大変なことだが、
大量生産大量消費の時代が
終わったいま、
それができない組織は滅ぶ。
専制的な集団からは、
独創性は生まれないのだ。
プレジデント 2002 12.2号 「『人が引き付けられる』5の能力」53ページより
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身にまとった(役職の権威)という衣には、人は心底からは傾倒しない。
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2002/11/10 (日) 晴れ
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秋の日のヴィオロンの溜め息の身にしみてひたぶるにうら哀し・・・
さわやかに晴れた秋の一日(いや、立冬を過ぎた今は、もう初冬か)
こうして家の中でノンビリとくつろいでいると、
ふとヴェルレーヌの詩の一節を口ずさみたくなる。
詩人の感性というのは鋭い。たかが詩とあなどってはならない。
そこに人間の本質をつく言葉が並んでいるなら、
人の一生を左右するような影響を与えかねない力さえ内在させているから。
詩を書くなら、単なる言葉の遊びに終わらない、
人の心に響くメッセージとなるような作品を生み出したい。
そう考えると、詩作もけっこうな労働である。
サムエル・ウルマンの「青春」という詩がある。
いまだに、その詩に触れた人に勇気と希望を与えている。
作者は老年と呼ばれる年齢になって詩作を始めたと聞く。
その長い人生の果実として結実した言葉は経験に裏づけされて
人の心に届くのではないか、と思っている。
「青春」という詩は、私も心の支えにしている。
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2002/11/09 (土) 晴れ 強風
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朝から強い風が吹いている。
風は大の苦手。
こんな日は気持ちが落ち着かない。
また新しい試みにチャレンジ。
と言うことで、今日は開講式。
海の物とも山の物ともわからない、手探りの講座。
最後までやり通せれば良いのだけれど、と思いながらのスタートとなる。
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2002/11/08 (金) 曇り
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2000年12月に読んだ
「モラル・ハラスメント」 マリー・フランス・イルゴイエンヌ:著 高野 優:訳 紀伊国屋書店
という本の中から書き抜きをしていた。
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・・・・・・・人間は、誰でもモラル・ハラスメント的な行為をすることがあるという。だが、私たちがすべてモラル・ハラスメントの加害者であるとはいえない。普通の人間がそんなことをしたら、罪悪感を覚えて、自分のしたことの埋めあわせをしようとするからだ。だが、モラル・ハラスメントの加害者という人種が存在するのだ。本書によると、それは<自己愛的な変質者>である。自己愛的な性格の特徴をいくつかあげると、誇大妄想的でたとえ業績がなくても、自分には才能があり、仕事ができると思っている。また人からもそう認められたい。自分が特別であり、自分のためなら誰もが喜んで尽くしてくれるべきだと思っている。自分の目的のために他人を平気で利用する。他人に対する共感に欠け、誰かが苦しんでいるのを見ても同情を感じない。他人を羨望する、などである。モラル・ハラスメント加害者について言えば、これに加えて、罪悪感を感じず、自分を省みることができない、起こったことの責任はすべて他人のせいにする、などが上げられる。
いっぽう、被害者のほうは、いわゆる<メランコリー親和型>と呼ばれるタイプの人間である。その特徴は、几帳面で家庭や職場の秩序を愛し、まわりの人々に献身的に尽くす。真面目で責任感が強いので、仕事の面では成功することが多い。だが、罪悪感を持ちやすく、抑うつ状態になりやすい傾向を示す。また、子供の頃の出来事のせいで、他人の支配に屈しやすい、などである。
こうしてみると、加害者と被害者は見事な対称をなしていることがわかる。片方は罪悪感を持ちやすく、片方は罪悪感を感じない。片方は責任感が強く、片方は他人に責任を押しつける。片方は献身的に人に尽くし、片方は人から尽くされて当然だと思っている。また、片方は支配に屈しやすく、片方は他人を支配したいと思っている・・・・・。加害者と被害者はまさに出会うべくして出会ったように思われる。といっても、それによって被害者に責任を分担させることはできない。
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この部分を読んだ時、まさに、目から鱗が落ちた。
そうだったのか、そういうことだったのか、と。
【harassment=悩ませること、嫌がらせ、いじめ】は、
それを改めて欲しい人こそ意識することのない概念かも知れない。
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2002/11/07 (木) 晴れ
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なんていう日なんだろう。
夕食を食べていると前歯の一部が欠けた。
痛みはないけれど長く放置するのも良くないと思い、
かかりつけの歯医者に電話を入れると留守番電話のメッセージが返って来た。
「院長の骨折のために現在休診しておりますが、11月末より診療開始いたします」との内容。
とりあえず、昔行った事のあるもう一つの歯医者に予約を入れる。
さあ、ホームページを更新しましょうか、とパソコンをスイッチオン。
掲示板をクリックするけれど出てこない。
しばらく間を置いて再クリックしても駄目。
どうやらレンタルサーバーがダウンしている様子。
今夜はこれまで、もう寝なさいということだと諦めて、早めの就寝。
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2002/11/06 (水) 晴れ
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阪神淡路大震災からボランティア活動が注目を浴びるようになった。
人が動いても必ずしも利益に結びつかない活動が市民権を獲得したかに見える。
ところが、生真面目な国民性の為かボランティア活動であっても義務感を感じてしまう人がいる。
先日、あるボランティア活動の連絡網で集合日時を回した時、
日頃出席していない人が、電話口の向こうでクドクドと欠席の言い訳を始めて困った。
「私もいろいろ忙しくて、なかなか出席できないんです」
「とりまとめの○○さんから資料は郵送されてきたんですがねぇ、あの人頼りないから・・・」
「今度の活動の日も用事があるし・・・」
ちょ、ちょっと待って!
あのね、これはボランティアなの。
だからね、参加できなくても、だ〜れも文句は言いません。
私に言い訳されても困ります。
ただね、一人前を当てにされる前に、できないならできないと早めに連絡すればよろしいでしょ!
と言いたいのを我慢して、受話器を握って聞いていた。
最近辛抱強く人の話を聞けるようになった、と自分を誉めてあげたい位の私だったけれど、
この時ばかりは、久し振りにイライラしてしまった。
こんな意識でボランティアに名乗りを上げる人もいる。
ボランティアは自発的にするものであって、決して強制的に押し付けられたり要求されたりするものではない。
だから、その行為から得られる喜びや愉しみ、感動は行為者自身にこそ返ってくる。
ボランティアは、決して他人のためにするのではなく、究極のところ自分自身への行為だと思う。
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2002/11/05 (火) 晴れ
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今年は寒さの訪れが早い。
手の荒れで、ふっとそんなことを感じる。
石川啄木は、自分の手を見つめて
「働けど働けど・・・」と詠んだ。
あゝ、その気持ちがわからないでもないなあ。
などと感傷に浸りかけると
頭上を、カラスが「アホーアホー」と飛んでいく。
バッカジャナカロカ コノアホー!
なんて可愛げのない鳥だこと。
お前に言われなくたって、
分かっていますよ、だ・・・
ハンドクリーム塗ーろおっと!
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2002/11/04 (月) 晴れ 午後から雲多し (振替休日)
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三連休の最終日。
大分を中心に大き目の地震があったらしい。
最近、西日本に異変が多いような気がする。
こんな時こそ気を緩めずにいなければ・・・
関東地方、音なしというのも不気味なもの。
以前は頻繁だった地震が、このところあまり無い。
災害ばかりは予測がつかないので恐い。
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2002/11/03 (日) 晴れ 一時雲広がる (文化の日)
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JAの農業祭があると聞いて出かけた。
市民の憩いの場所として整備が進む川沿いの一画。
車を降りて会場に向かう途中、散歩する人々とすれ違う。
犬を連れている人が多い。
それは良いのだけれど、綱を犬の首から外している人が多い。
犬を外に連れ出す時には、飼い主が綱で犬の行動を制御するように決められているはず。
ところが最近、ちょっと広めの草ッ原があると首輪から綱を外して、
気ままに犬を走らせている人を見かけるようになった。
確かに、最近のペット犬は小型の種類であることが多い。
飼い主が呼べば素直に帰っても来るだろう。
ペットの飼い主にしてみれば「うちのワンちゃんは良い子だから」という事になるのかも知れない。
しかし、他人を傷つけはしないにしても、
走り回った先で用足しをするかも知れない。
たとえ小型の愛らしい犬であっても、犬嫌いの人にとっては恐怖かも知れない。
人が入ってこない領域でなら、綱の拘束を解いて犬本来の姿のまま走り回らせてやりたい気もするが、
さまざまな事情を抱えた人々が頻繁に往来する場所では規則は規則として守って欲しい。
「そんな固いことを言わなくても、迷惑はかけないわよ」
という反論が返って来るだろうか?
『これくらい・・・』
と思う心が、次第に秩序をないがしろにしてしまう風潮につながらないだろうか?
こんなことを言うから、硬すぎるなんて言われるんだろうなぁ、私は。
ちょうど夕食を作りながら聞き流している放送大学の講座の内容は「逸脱の社会学」
社会的な逸脱行為は、その個人が生来逸脱者なのではなく、社会構造の中で逸脱者は作られる、のだそうだ。
社会ルールの制定・遵守・罰則規定の兼ね合いの難しさを感じる。
先だっての東京都内の「歩きたばこ禁止条例」にしても、
注意された女性の中には「お金払えばいいんでしょ!」と、
財布から3万円を抜き出して路面に叩きつけて立ち去った人もいたとか。
う〜ん、何も腹を立てなくても・・・
施行される規則規定に不満があるなら、
人々を納得させる条件を用意して反論できる可能性はある筈なんだけれど・・・
ただ、少数者になると発言し辛い風潮は確かにあるし、なぁ・・・
と、さまざま考える日々。
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2002/11/02 (土) 晴れ のち 曇り
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農業ボランティアの研修。
日本で初めて中国野菜の営利栽培を始めた農家を見学。
何ごとも『初めて』手を染める、ということは大変な冒険。
先の見通しとゼロからスタートの試行錯誤。
今でこそ中国野菜は一般的にスーパーに並ぶようになったけれど、
そこに至るまでの最初の最初の種を蒔いた人の話を聞くのは面白かった。
畑は、4−5町歩もの広さに各種の中国野菜が有機栽培されている。
段階的に収穫していくように時期をずらして育成すれば、
栽培農家は、年中休みなく働くことになる。
対象が生もので、作りおきできない農産物となると、労働も厳しい。
農業ボランティアの講習も、回を重ねるごとにさまざまなことがわかってくる。

2002/11/01 (金) 雨
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やはりラジオで小耳に挟んだニュース。
近ごろ、犬や猫のコンタクトレンズがあるらしい。
もちろん彼らは自分で装着できるわけはなく、
また、飼い主にも無理なようで、
獣医師の手で着けてもらうのだという。
とは言っても、度数のあるレンズではなく、どうも埃よけとかの別の目的だそうだ。
昔、「ドリトル先生の不思議な冒険」という映画があった。
獣医師のドリトル先生は、動物と話ができる。
ある日、近視の馬がやって来て先生にメガネを作ってもらう、というお話。
犬猫のコンタクトレンズの話を聞いて、その映画の場面を思い出した。