2001/10/31 (水) 晴れ
(つゆくさのこころ)に「異見と人権」というタイトルの11年前に書いた文章を、先日アップした。
この文を書いた時の気持ちは、未だに胸の奥に新しい。
似たような状況に、しょっちゅう出くわすせいかもしれない。
異見がぶつかる時に、話し合いに応じて自分の意見を語り、相手の意見に耳を傾けようとする人が少なくなったように思う。
世の中の変化のスピードが早すぎるのか、人間がせっかちになったのか。
今日の新聞のコラムで、元長崎市長の本島等さんの言葉が紹介されていた。
▼自分を銃撃して懲役12年の判決を受けた男について元長崎市長の本島等さんは「彼と一度話し合いたいと思ってきた。君の主張が正しいのなら、私の信念も正しい。だから、暴力はいけない。そこは言論の自由と認め合うべきだ」▼
そういえば、そろそろ犯人の懲役が終わる頃である。
アメリカでは、犯罪を犯して懲役を受けている人間と、その事件の被害者を面接させる試みがあるらしい。
人は傷つけ、傷つけられ、
そんな時、胸の内を披瀝しあうことで、お互いを認め合うことはできないだろうか?
2001/10/30 (火) 曇り
雅子さまがビーズのネックレスをされている写真が女性週刊誌に取り上げられていた。
今、女性の間ではビーズで作ったアクセサリーが流行っている。
ちょっと前まで、大手百貨店のアクセサリー売り場ではアクセサリーと言えば貴金属が主流だった。
値段もそれなりに付けてあった。
それが今では、百貨店にさえビーズのアクセサリーが並んでいる。
バブルの頃、お金をたくさん払えば価値も高いような錯覚はなかっただろうか?
昔、子供の遊びの手芸だったビーズが、今、ある物は美しく、ある物は可愛らしく女性を飾っている。
いくら本物の貴金属で外見を飾っても、飾りきれない内面であっては美しくはなりきれないだろう。
外見をきらびやかに飾る宝石にお金をかけるより、内面を磨き輝かせることのほうが安上がりだし、綺麗になれるような気がする。
なかなか難しいことだけれど・・・
2001/10/29 (月) 晴れ のち 曇り
晴れた日もあれば、曇りの日もある。
心楽しいかと思えば、絶望に沈んだり。
そんなことを繰り返しながら生きている。
小さな喜びを拾い集めて、大きく喜べる自分でありたい。
2001/10/28 (日) 曇り のち 雨
時々(命の限界)について考える。
何時・どのようにして(その時)が訪れるのか、と。
(その時)、自分はどうありたいのか、とも。
何度、頭の中で描いてみてもこればかりは予測がつかない。
【quality of life (QOL)=命の尊厳】
自らの死について意識し、表現することができる生物、人間。
「死の川の船頭をつとめて」という演題で講演された日野原重明さんの話の内容を、折に触れ思い出す。
よく死ぬことは、よく生きることにつながる、と。
せいいっぱい生きていよう。
2001/10/27 (土) 晴れ
(記述なし)
2001/10/26 (金) 晴れ
時々マザー・テレサの奉仕について考える。
なぜ、あのような無私の献身ができたのだろうか、と。
あれは(キリスト者)ゆえにできたことなのだろうか。
日本にも「ありの街のマリア」と呼ばれた人がいた。
やはり(キリスト者)だった。
博愛の心というのは、宗教によるものばかりではないと思いたい。
無私・無欲は、為すことの大小に関わらず、それぞれの個人に実現可能なことだと思いたい。
2001/10/25 (木) 晴れ
アフガニスタンで一人のフリージャーナリストがタリバンに拘束されているという。
この一人の日本人のために、政府は難しい交渉を強いられるだろう。
それでなくとも現在の世界情勢に日本がとるべき立場には難しいものがあるのに、
そんな中で一人の人間の予期せぬ行動が、多くの人を動かし、状況の解決を困難にしかねない。
どんな意図でそのフリージャーナリストがアフガニスタンに入っていったかはわからないが、
人が行動を起こす時には、状況を読むことは大切なことだと思う。
それでもなお、行動を起こさざるを得ない理由があるなら別だけれど。
無事に解放されることを祈りたい。
2001/10/24 (水) 晴れ
あっという間に10月も、残すところ一週間となっている。
このところ、TVもゆっくり見ていないのだけれど、
アメリカの対アフガン攻撃では、戦後の話が出ている様子。
それでなくても不況で、社会の雰囲気は下降気味だったのに
ツィン・タワーの崩落の映像が、一挙に世界を暗黒にしてしまった。
アメリカと二人三脚で奔走するイギリス、
最近、ブレア首相の“やつれ”が気になる。
今回のテロの影響で唯一朗報は、IRAが武器廃棄を始めたというニュース。
朝のBS放送・BBCニュースで見たブレア首相の興奮した様子が印象的だった。