最寄り駅で下車して職場に向かう道すがら行く手に大きな虹を見つけました。雨あがりではありません。立ち並ぶビルをまたぐように七色の半円がかかっていました。方角は西です。朝だから東の太陽光を受けてかかった虹です。でもちょっと違和感が。こんなに厚着をしてヒンヤリした季節に虹を仰いだことあるかしら......の違和感が。
検索してみると冬の虹は珍しいのだそうです。冬は乾燥の季節なので、大気中の水分が少ない時季には虹がかかることは稀なのだそうです。
嬉しくて、この感動を誰かと分かち合いたくて、ちょうど向こうからボーっと歩いてきた若い娘さんに「ねぇねぇ虹が出てるの、見て」と声をかけてしまいました。すると彼女も「あ、ほんとだ」とニッコリ。「きっと良いことあるわよ」と言ってお別れしました。
それにしても、大きくて美しい虹でした。
ネコは誰に忖度するでもなく気ままに動いているように感じます。うらやましい。
街角ピアノを弾く人たちには、演奏する曲へ移入した感情が伝わってきて名演奏家の演奏とは異なる感動が伝わってきます。
どちらも「あゝ、生きているんだよね」と思えるのです。
このところ原作者の意図したことと実写作品脚本の違いでのトラブルが報道されたり、応募した作品のアイディアをプロの作家に盗まれたと妄想(?)した結果の事件とかが話題になっていますが、無いところからストーリーを組み立てていくことがどんなに困難なことかが推察できます。
私は最近、古本屋さんで適当に見つくろった文庫本や新書サイズの本を通勤電車の中で読んでいます。本を選ぶのは本当にテキトーです。タイトルが興味関心を引くものがほとんどです。作家に関しては、過去に手に取ったことのないような人が多くなりました。だから当然あたりはずれはありますが、そこは古本の良さ、諦めはつきやすいのです。でも、古本といえども値段が上がってますね。数冊買うとけっこうな値段になります。
ところで、過去に読んだことのない作家の小説だからというわけではないのですが、近年の社会を扱った小説を読んでいて自分のリアルな生活と共通点がある場面にしばしば遭遇してストーリーがいきなり身近に感じられるという経験が重なっていて興味深いですね。
たとえば「読んでいる物語の時間設定と同じ時間に読んでいる」とか「物語の舞台が自分のよく知っている場所」だったりとか「人間関係のもつれ方が我が身の経験と似通っている」とかです。そんなことが最近度重なっていて、次はどんな共通点が出てくるかということも読書への期待のひとつになっています。
まあでも、最近の社会を舞台にした小説であれば、どこかしらに「あっ、私と同じだ!」「この場所あそこじゃん!」という箇所が見つかるのは不思議なことではないですが、少なくとも作品を身近に感じることは確かです。
人間の日々の暮らしや出来事というのはさほど特殊というものはなくて、だからこそ作品にも気持ちを投入して読み進めることができるのでしょうね。
さあ、次はどんな共通点を発見できるかな。楽しみです。
早く暖かくなってほしいなあ......というのが以前からこの時季の脳内を占めるすべてのような気がします。
それは社会的なことにも言えるようで、現在の世界情勢は厳寒のような気がしています。こんな凍えるような時代には、私のように非力な人間はひたすら身を縮こませてジーっと耐えているしか方策は見つかりません。
温かい防寒着も暖房も一時的な方策であり、身の回りの外界は冷え切っています。
とにかく、季節も世界情勢も、一日も早い春の訪れとなりますようにと、それが現在の私の切なる願いです。
]]>犯人は高校生4人組らしいと最近になって知りました。
コロナ前とコロナ後では朝の通勤路で出会う人の数が全く違っています。ほとんど、と言うより一人も歩いていない道をおよそ15分くらい歩きます。事件の後で経路を少し変えたのですが、すれ違う人がいないことには変わりありません。駅近くなってやっと1人か2人の姿を見かけます。やはり、朝5時過ぎというのは相当早い時間と言えるようです。早く明るくなってほしいなあと思いつつ慎重に歩いています。
それにしても、現在の職場に通い始めて7年目になりますが、日に日に陰っていく社会状況を目の当たりにしながらの7年です。
何があるかわからないし何があってもおかしくないこのごろ、事件や事故に巻き込まれないように過ごしたいと祈るような毎日です。
先日は赤いカーネーションがズラリと並んでいました。一つの花の直径が6-7cmもある大輪です。深い赤色が見事です。一度は諦めたのですが、二日後に一束買いました。18本入っていました。普通に買えば3,000円くらいするんだそうです。それが500円です。いまリビングルームに飾っています。生のお花を飾った部屋は、やはり良いものです。
このお花屋さん、いつも通りすがりに大勢の人が買い求めていきます。仕入れやディスプレイが上手なんですね。
今日はスイートピーの10本束と白菊15-6本の束も並んでいました。これら同種同色の大束が税込み500円なんて信じられない安さです。
この花屋さんの前を通るのは、私の毎日のささやかな楽しみです。
今朝、仕事始めということで職場に向かって歩いていると前方に若い女性がしゃがんでいるのが見えました。手元に白い物が見えます。何かトラブルのようでした。
今日わたしはお正月の間にたまったゴミ出しの大変さを覚悟して職場に向かって急いでいました。若い女性のそばを通過しても無視しようと思ったのですが、無理でした。周囲には私一人しか歩いていなかったからです。午前6時半とはいえ、あたりはまだ薄暗い時間でした。
「どうしたの?」と声をかけたら、どうやらスカートの裾が自転車の後輪に巻き込まれてしまったようです。抜き取ろうと四苦八苦していました。
さてどうしたものか...と一緒にスカートを引っ張りましたが、これがなかなか抜けてくれません。そこで私は思いつきました。前に進んでいて巻き込まれたのだから、車輪を反対に回してみたらどうだろうと。思い付きはピタリとあたり、何とかスカートを抜き取ることができました。
若い女性は「ありがとうございました」と一言残して猛スピードで自転車をこいで立ち去っていきました。
車輪に巻き込まれたのは足首丈の白いフレアスカートでした。こんなスカートをヒラヒラさせながら自転車を猛スピードでこいだら危ないですよねえ。
分かってくれたかな、あのおじょうさん。
]]>2日目の夕刻に羽田空港で起きたJAL機と海保機の衝突炎上事故にもショックを受けている。
年明け早々この二件の悲劇を目の当たりにして、日本人の多くは今年一年の先行きに大きな不安を抱いたに違いない。かく言う私もその一人なのだ。
そうでなくても、電車通勤を始めてから7年間、日に日に暗く沈み込んでいく人々の空気を目のあたりにしてきた。車内は常にお通夜状態。みんな疲れ切っているのが見てとれる。
一方、この国をかじ取りすべき政治の世界のノー天気ぶりには、私は腹立たしくも諦めてしまっている。こんな軽佻浮薄な日本社会は「なるべくして行き着いた結果」だとしか思えない。鈍重だけれど真面目で辛抱強いとか、物事の本質を考え尽くし語ることとかを鼻先であざ笑い排除するような日本社会の風潮が次第にひどくなっていた。排除するだけならまだしも、一人で真剣さを表に出そうものなら陰口を広められてイジメつくされる集団優位社会。
日本人は集団の無意識に付き従っていさえすればとりあえずは安泰という傾向が強い。独りで考え独りで立つ人間にとっては生きづらい社会なのだ。が、こんなに自然災害や事故・犯罪が日常茶飯事になっては、もはや、誰かの後ろにくっついて動いていればどうにかなるというものでもあるまい。
一人一人が自分の頭で考え、それらの考えを持ち寄り、語り合うことで空気を変えていかなければ、未来への希望なんて風前の一灯と言わざるを得ない。
声を出しての儀礼的な挨拶さえもできなくなっている日本人は、もうダメかもしれないと、このごろつくづくそう思う。
その後の報道を視聴し続けているが、地震の発生地は石川県能登地方で、震度7 マグニチュード7.6というから相当な被害が出ている模様。日暮れに向かう時間で全体の被害状況は未だつかめていないようだが、そうとうな規模の被害が発生していると予想される。
新年早々に被災された方々の現在状況を想うといたたまれない。
自然も人的にも厳しいことの相次ぐ時代に、どんな希望ある未来を語れようか。
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個人的には一年一年の改まりに感動も薄くなってきたこのごろ。昨日に続く今日、今日に続く明日、波はあるようでないような時間の連続。年月の積み重ねとはこういうことか、と。
高齢者が先頭に立って他者に迷惑をかけるという出来事が多かった一年だったなあ...との思いが強い。現在継続中のさまざまな大問題に70代80代の年寄りが先頭に立っていることが、同じように高齢となった身としては恥ずかしい限り。時代をバトンタッチできる後続世代を育てずに、自らの欲するままに時代をむさぼった挙句に、まだまだ欲を満たそうとする意地汚くもあさましい姿が情けないやら腹立たしいやら。
まあ、どんなことを言おうが思おうが誰にもなんにも意にとめられることのない塵のひとりごと。
しっかし、長い。とにかく長引いている。
スタートは先週の水曜日で現在翌週の木曜日。ようやく改善の兆しではあるが、まだ鼻と喉に違和感がある。
マンション管理人になって7年目にして初めて体調不良で1日有休をとった。先週の土曜日のこと、朝起きてみると声が出ない。声が出せないとはこういう症状か...と、これまた初めての経験。
幸い症状は軽快の一途をたどりつつありホッとしている。明日1日がんばれば年末年始の休みが待っている。がんばろう、わ・た・し。
ある時、自らの不器用を省みることなく、無謀にもフラメンコ教室に申し込んでしまったことがある。何事も道具から趣味を始める癖があるので、その時もさっそくフラメンコのスカートを2着買いこんで勇んで教室に通い始めた。
結局、リズム感が無くて動きの鈍くさい私には無理だと悟り、早々に諦め、教室を短期間で止めたのであった。
さてさて私のふとした血迷いの名残として手元には2着のフラメンコスカートが残ってタンスの中で眠ることになった。衣替えのたびに捨ててしまおうかとも思ったが、床まで届くスカート丈でたっぷりの生地を使ったボリューミーなスカートは、それはそれなりに捨てがたく手元に置いておいた。
このところ急に寒くなって、湯上りにテレビを見たり編み物をしたりするのに防寒になるかもとタンスからフラメンコスカートを引っ張り出して身につけてみると、これがけっこう暖かい。しかも、歩くときにスカートをさばく感じが良い感じ。「思わぬところで役に立ったねフラメンコスカート」と一人悦に入っている。
ところで、最近街中で見かける若い女性のスカートが、まるでフラメンコスカートみたいだなあと思う。表面にフワッとチュールの生地を被せたデザインで床に届きそうなほど丈が長いのだ。この流行なら、私がこのフラメンコスカート着用して街中を歩いても、今なら違和感ないかもね。
いやいやこの明るさでは無理でしょ、と室内に引き上げようとした時、微かな光が流れた。見えました流れ星。時間は午後10時5分。
子どもの頃は庭先に出した縁台に寝そべって飽きもせずに星空を見上げていたらスーッと流れる星を何度も見たような気がする。田舎のことで、周辺の人工的な明かりも少なくて、クッキリと星々が見えたものだった。
なんか嬉しい。流れ星、何か良いことがありますように。
地方でもそうかもしれないが、都会のハトは歩道で何かをついばんでいるときに10センチの近くを人が歩いても飛びたたない。ときどき私は「蹴とばそうと思えば蹴とばすのは簡単かも」と思いながらそばを通り過ぎている。
管理人業を始めた頃、管理する物件に大量のハトが棲みついて困ってしまった。「ああ、これからずっとハトの糞の始末が業務になるのか......」と落胆していたが、2-3年過ぎるころにはハトは飛来しなくなってホッとした。
当時は勤め先最寄り駅の駅前にもハトの大群がいた。仕事帰りに駅前で大量のエサを撒いているおばあさんも見かけた。今はエサを撒く人もいないしハトもまばらになっている。行政が駆除したのか自然に棲みかを移動したのか、それはわからない。
私は田舎育ちだから野生の生物は野生であって人間とは価値観や道徳観や衛生意識は共有できない存在であると思っている。それを踏まえたうえで『共存できるかできないか』なのだが、人間も地球の自然の上に数と力で他の生物を圧倒して生きている生物に他ならない。単純に言えば生物は我が命を守ることが最優先で動いている。その厳しい生存競争において、倒された者に『哀れ』の感情が生じるのは人間の人間たる証拠であろう。が、『哀れ』が行き過ぎると自分が倒されることにつながることもある。最近のクマやイノシシの人的被害のように。
難しい......
勤務マンションのハト飛来に対応していた時に来てもらっていたハト被害対策業者に「焼き鳥にして食べちゃおうか」と冗談を言ったら「ばい菌だらけだから駄目だよ、ハハハ」と言われた。
つい先週のこと、出勤途上に人気ラーメン店の横を通り過ぎようとしたら大きなネズミが死んでいた。
私は決して動物を毛嫌いしているつもりはないが、邪魔だと思えば「シッシッ」と追い払うことさえ罪悪感を抱かねばならないとすれば動物愛護を声高に叫ぶ主張に困惑せざるを得ない。
ハトが1羽轢き殺されたことが事件になりニュースになったことにモヤモヤしたという話。
私も自分で自分のことを「わけのわからない老人」になりつつあることを痛感しているところ。そして、年齢を重ねるにつれて、かつての私がいかに愚かでバカな人間だったかが明らかになり、それでもまあ死ぬまでは生きているしかないでしょうと思っているのだ。
しかし、最近の世界中の出来事を見ていると高齢の指導者の血迷ったとしか表現しようのない決断による第大惨事が頻発している。「立つ鳥は後を濁さず」。近々この世から去り行く人間が世界を引っ掻き回してどうするんだとの思いがぬぐえない。
そして議論が活発化しているAIの利用方法。
人間は人間にとって大切な決断や情緒までAIに預けて責任回避に走ろうとするのか。世も末とはこのことだろう。もう止められないかもしれない。