2018年6月アーカイブ


今回の浅薄な政治ショーの流れを傍観しながら、改めて歴史と風土と文化が育む人間性について考えた。

北朝鮮のやり口に関しては「あヽ、やっぱり」と思い、トランプに関しては典型的アメリカ人だな・・・と感じた。



近年、日本人の語学音痴が盛んに議論されて、幼いころから英語教育をという風潮に流れていることを危惧している。

大切なのは語学が達者になることではなく、

「自分は何者か、どこに立脚して活動しているのか」をしっかり自覚して主張を持てることが先。

そうでなくては、相手からは、コツンと手ごたえを感じない掴みどころのない対象として切り捨てやすい存在になってしまうことは必至。



トランプにとっては、何でもにこやかに応じて、しかも、Noを言わないバカ正直な日本人より、

自己主張をハッキリして要求も明確な朝鮮人の方に(彼の好きな)交渉の面白みを感じていたのかもしれない。



語学を学ぶには、それと並行して、その言語が成立して運用されている社会の歴史・文化も把握しておかねば、

相手の態度や発言の真意に気付くことはできない。

「はじめまして、こんにちは」の日常会話ができるだけでは言語習得したとは言えないのである。

生半可に外国語を操れると自認する日本人に危うさと拒否感を抱くのは、

決して自分が語学を自在に操れないやっかみではなく、

多くの場合、同胞を見下す無国籍な優越感を感じるからなのだ。


今回のアメリカと北朝鮮の茶番劇政治ショーを見ながら、そんなことを感じている。


それにしても、日本人は交渉事が下手なんだなあ・・・

日本よ、日本語で構わないから、もっと声高に自己主張せよ!!

世界が、日本が何を言っているのか知りたくて日本語の主張を翻訳せざるを得ないくらいに。



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大げさな政治ショーが注目を集めた一日。


識者のさまざまな解説が次々に為されている。


一庶民の直感と一笑に付されることを覚悟して言えば、

「してやられた」のではないかとしか思えない結果。


「大愚」と「大賢」・・・さて、どちらが「大愚」でどちらが「大賢」だったのか。


権力を託して良い人物と、権力を握らせてはいけない人物に関して、

国内国外問わず、大いに考えさせられる事象が相次いでいる。



考えるだに空恐ろしい事態が、いま進行しているような気がしてならない。



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労働力が不足ということで、女性や高齢者や外国人の労働力が期待されているらしい。

私も、定年再雇用を経て、異業種であるマンション管理員の仕事に高齢者として雇用された一人である。

幸い、体が丈夫なので日々の現場仕事はなんとかこなせている。

ただ、長年勤めた前職とは異なる業種なので、事務処理の仕方や社内の組織に関しては疎い。

一物件に一人配置で清掃兼務の管理員なので、誰かと相談しながらということはできない。

現場配置の前に丁寧な研修はしていただいたけれど、机上の研修は即実践で活かせるものではない。



マンション管理員になって満一年が過ぎたが、現場仕事は何とかこなせるようになった。

一方で、居住者と支店をつなぐ事務処理に関しては、未だに戸惑いが多い。

近年は個人情報保護の観点からの注意事項が多く、取扱いに苦慮している。

(どこまで聞けるのか)(どうやって聞くのか)から始まって、居住者から預かった個人情報を支店へ繋ぐ方法など、

わからないことだらけだ。



支店のオフィスワークの若い人たちとの交流は少なく、誰にいつどう連絡・報告・問い合わせして良いのかも把握できていない。


居住者の書類上の手続きが発生して初めて、アタフタとあちこちに電話しながら手続き方法を覚えている。

その都度、支店の事務の若い女性に電話で叱られたり呆れられたりする。

おまけにそれらの作業は殆どパソコンでやることを求められる。

これがまた高齢者にとっては厄介なことだと雇用者側に理解されているだろうか?

高齢雇用者に関わる若い社員は、自分のコミュニケーションの仕方を検討したり反省したり改善しようとする努力をしているだろうか?



つくづく感じることは、

外国人や高齢者を即戦の労働力として当てにしようとするのなら、もう少し働かせ方に工夫しなければだめだということ。

定年後の高齢者は、社会経験があるので、それなりに筋道立てた説明を受ければ物分りは早い人が多いと思われる。

ただ、デスクワークの若い人たちが、そうした高齢者の特徴を把握しているかどうかに疑問を感じる。



というわけで、私は現在、デスクワークの若い女性やマネージャーに鼻であしらわれたり叱責されたりしながら仕事をしている。


まあ、そこはそれ、人生経験豊富な者としては、別段腹立ちを覚えることは少ないが、

困ったなあ・・・と一瞬たじろぐことはある。

あれも経験、これも経験、「永遠の今」を繰り返しつつ人生の下り坂をソロリソロリと下りつつあるこのごろ。



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西田哲学と日本の思想

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「西田幾多郎  無私の思想と日本人」  佐伯啓思:著    新潮新書


通勤の車中で少しずつ読み進み、読み終えた。

子供の頃から本に線引きしたり書き込んだりすることは極力避けてきたが、

今回は、鉛筆を片手に気になった部分に線を引き、空白にメモ書きしながら読んだ。



そんな中に、強く納得できる部分があったので、その部分を書き残しておこう。



以下、引用 (p.238 ~ p.239)


(前略)

 確かに西田哲学には毒があります。落とし穴というべきかもしれません。あるところで西田自身も書いていますが、自分の書いたものは超のつく難解だといわれる。だけど、どこかある箇所をつかんでそれが分かれば、すべて分かってくるような種類のものだ、というのです。面白い自己評ですが、まさにそのとおりで、突然、ある時に分かったような気がするのです。すると、あのわけのわからない文章で、彼が何をいおうとしているのかが、読み解けるような気になってきます。そのうち、あの文体でしか書けないのではと思えてくるのです。秘境的で謎解き的なところがある。


 しかしそうなると、この「分かった」という境地の方が大事になって、それを説明する必要がなくなってしまうのです。もしも分かりやすく説明できるのなら、そもそも西田自身があんな文章は書かなかったでしょうから。


 しかしこのことは思いのほか大事なことで、これは西田哲学の抱えた問題というより、「日本の思想」そのものにかかわることなのではないでしょうか。日本に西洋のような体系的な哲学や思想が生まれなかったひとつの理由は、日本では「ものを考えること」が、世界の認識へ向かうのではなく、多くの場合、人が生きる上でのある境地を目指すものだったからです。仏教の教えや禅もそうであり、かなり学問的な儒教にもその傾向があり、俳句や和歌もその方向を向きました。


(後略)      ーーーー 引用文内、太字処理と下線は、本ブログ筆者による ーーー



なんとなくでも「分かった」と思えば、それを改めて文字化する必要はないともいえる。

ただ、なぜ私がブログに日々の思索を公表するかといえば、

同様に思索する誰かに私の表現した言葉のどこかが引っ掛かかり、

「そうなんだぁ」ということになればとのささやかな想いからに他ならない。



とにかく、西田幾多郎が「哲学の小道」を歩きながら思索を繰り返したように、

誰もが自分自身の「哲学の小道」を歩むしかないのだと、そう思う。



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