2018年5月アーカイブ

最近不快に感じた言葉2つ

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ひとつは、先日保釈された「森友問題」の発端である籠池(夫)さんの記者会見最後の言葉だ。

曰く「これから活躍させてもらいますよ」とニタリ。



もうひとつは、日大アメフトの問題で、

試合終了直後に週刊誌記者からインタビューを受けた内田前監督が、

違反タックルをさせた選手に関して「これが内田のやり方。(彼を)まだまだいじめますよ」と平然と答えた言葉。



ナニ考えてんだろう、このおっさん二人。

品性も教養も清潔さも感じられない。

このような連中が【金・権力・地位】を握ってしまうのか。

今の時代に成りあがる人間の共通項は『厚顔無恥』だと、つくづく思う。




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残念な育児だと思う

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前記事の母親に対する私の想いは「残念な育児をしているなあ」ということ。

子供が無邪気で素直だと見受けられるだけに、尚更、母親の対応に残念を感じている。



最近の若い人たちは、人間関係に余計な波風を立てないための言葉の使い方を知らなさすぎる。

それは、彼らの親の育児や躾の問題もあるし、本人自身がこれまでの社会経験から何を学ぼうとしてきたかという問題もある。



下の記事に関して言えば、子供が一生懸命管理人と話をしたがっている気持ちを尊重し、

管理人という社会人にでも礼を失しないようにし、かつ、自分の尊厳をも保とうとするならば、

「管理人さん、うちの子がうるさく話しかけてごめんなさいね。いつもお世話さまです。」

「さ、○○ちゃん、管理人さんはお仕事で忙しいんだから邪魔しないようにしようね。」

とでも諭してその場を離れるように促せばよいのではないかと、私は思う。

そうした言葉かけをすることで、子供も、他人に話しかける内容やタイミングなどを学ぶものではなかろうか。



このごろは、いたるところで見かける若い(昔に比べれば年齢は高いが)

親たちが子供に社会性を考えた躾をしているのを見ることが少なくなった。

体が大きいだけで、やっていることや考えていることは彼らの子供と同じレベルではないかとさえ思える。



母親である自分が軽蔑している管理人に対してさえ、我が子は曇りの無い目でコミュニケーションを求めている。

その「他人を職業や見かけで差別しない純粋な心」に感動して、我が子から学ぼうとするなら、

その関係は単なる "育児" に終わらず "育自" にもなるはずなのに・・・と思うと残念だ。




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差別的扱いには慣れている

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マンション管理員になって1年が過ぎた。

昨年の今頃はアタフタしていて、この仕事が続けられるだろうかという不安の日々だった。



仕事を始めて間もないころ、

「管理人なんかに挨拶しなくて良い」と幼児の手を引っ張った若い母親がいたように覚えている。

もともと人の顔や名前を覚えることに関心が無い性格の私だし、

不慣れな仕事をこなすのに懸命だったこともあり、それがどの居住者だったのか定かではなかった。

最初から差別的扱いへの覚悟はできていたので、「まあそんなものよね・・・」と受け流した。


1年が過ぎ、居住者の顔が見分けられるようになって、

あの時「管理人なんか・・・」と言ったのはこの母親だったのではないかと思う人物がいる。

子供たちは、当時2歳と5歳くらいの丸刈りの兄弟で、とても人懐っこい二人。

新しい管理人に興味津々のようで、出会う度に話しかけてきていた。

その都度、若い母親から「やめて○○くん、行くよ!」と声が飛ぶ。

母親は決して私に挨拶はしない。



今年、お兄ちゃんが小学校に入学した。

お兄ちゃんは、母親の「管理人に話しかけないで」という言いつけが理解できたのか、私に話しかけることはしなくなったが、

3・4歳くらいの弟くんの方は、まだ理解できないようで、無邪気に話しかけてくる。

その都度、母親は、あからさまに子どもの手を強く引っ張って私の前から連れ去る。


父親の方も、家庭内で奥さんに言われているのか、私に対する差別的態度を隠さない。



私は、決して恵まれた人生とは言えないめぐり合わせの中で、必死にもがき足掻いて生きてきたので、差別的扱いには慣れっこ。

むしろ、そうした境遇にあったお蔭で、人の態度や言葉の真贋を見分ける直感が身についたと思う。



絶対価値観で物事を考えれば、安易に対象に優劣はつけられないが、

相対的価値観で考えるから優劣が生じて劣なものを遠ざけようとしたくなる。

その相対的価値観は、いつまでも満たされることの無い渇望を生み出して自らを苦しめることになる。



その母親の態度を見ていると、子供たちの今の無邪気さがどう変化して行くのだろうと考えてしまう。



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佐伯啓思:著 「西田幾多郎   無私の思想と日本人

4年前に出版された上掲の本を読んでいるのだが、

混乱する今日の世界情勢を理解する一助になりそうな箇所が多々ある。

その中で、まさに今にあてはまりそうな部分をメモしておこうと思う。




以下、引用---------(p.170 ~ p.171)


(前略)



 そしてここには実は大変に大きなしかも深刻な矛盾が含まれていました。そのことは後述しますが、さしあたり西田が次のように述べていることに注意しておいてください。



 今日、科学の発展による機械工業の勃興と資本主義の発展によって世界は一つになった。しかし、このような機械工業や経済システムが世界を一つにするということは、それを動かす主体が世界を支配することを意味している。それは一つの国家が主体として世界を支配することであり、帝国主義である。この時、一つの国が大国で強国なら一時的に平和は保たれるかもしれないが、それは他の国を奴隷化することだ。これは人間を堕落させることであり、また戦争を引き起こすだろう、と西田はいう。



 妙にこの21世紀のグローバリズムの時代を予感させる議論ではないでしょうか。80年前よりもはるかにわれわれは、ITを含む機械技術と市場経済によって画一的で単一の世界へと編入されてしまいました。それを支配するのはこの技術と市場経済を制覇するもので、現下ではアメリカが覇権をもっているのです。また、だからこそ、技術と市場をめぐる覇権競争が生じているのです。




(後略)


-----------引用終わり



80年前、既に西田は現代の世界の混乱を予見していた。

そして、佐伯啓思も、現在進行形の米朝のかけひきの混乱が発生する4年前にこの本を出版している。



まさに「温故知新」、過去の思索に学ぶべきことは多そうだ。



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今、私が勤務するマンションがある地域には若い夫婦が多く、

この少子化の時代に幼児や赤ちゃんがとても多い。

そして目立つのは、若い父親がとてもよく子供の面倒をみていること。

休日ともなると、子供を遊びに連れ出す若いパパさんたちの姿が多く見られる。

ママさんたちは、その間に息抜きや掃除などをしているのかしら・・・と思って眺めている。



とにかく、若い男性が家事・育児を日常的に担っていることは確かなようだ。



けれども、彼らのそうした様子を眺めながら、

私には一抹の疑念とも不安とも言える感情が拭えないでいる。

何だろう、この感情は。



若い両親は、そして、その子供たちは、幸せなのだろうか?

社会に貢献できるような思いやりとか情愛溢れる常識を備えた子供たちは育っているのだろうか?

若い人が多い街ということは、ある意味、この国の将来を形成する人たちの空気だと言える。

だからこそ、この国の行く末を楽観できないものを感じてしまうのは、私の老婆心だろうか。


日々、何かが違うと思いつつ、既に、この時代という舞台には出る幕の無くなった私には、

ただ"眺める"ことしかできないのだが。




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雨ニモマケズ

   ---雨の日は困ることが多いけれど負けずにがんばっている。


風ニモマケズ

   ---風は、本当に苦手。だけど、負けていない。


雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

   ---雪の日も、暑さの夏も、やらなければならないことはやっている。


丈夫ナカラダヲモチ

   ---これはバッチリ!!


慾ハナク

   ---これもまあまあ。欲は少ない方だったし、齢とってからはますます欲は無くなっている。


決シテ瞋ラズ

   ---昔は、よく怒っていた。子供が幼いころは特に(汗)。今は怒りの炎は燃え上がらない。


イツモシヅカニワラッテヰル

   ---子供の頃は「無駄に笑わない」ことを自分に課していた。最近は、笑顔ができるようになった。


一日ニ玄米四合ト

   ---米四合は、さすがに食べない。昔の食欲も、今は無い。


味噌ト少シノ野菜ヲタベ

   ---調理に味噌は、あまり使わない。野菜は努めて多く摂っている。


アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ---子供の頃から、自分を勘定に入れることを忘れてばかり。他人に利用されることが多い。それで良いのかも・・・


ヨクミキキシワカリ

   ---昔は「早とちり」で「せっかち」だった。一方、見聞を広めて理解しようとする気持ちは、昔も今も同じ。


ソシテワスレズ

   ---これは未だに(というより、ますます)、過ぎてしまったことは、ほとんど忘れている。


野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

   ---「野原の松の林の陰の小さな茅葺の小屋」に住みたいけれど、現実は「コンクリートの箱の中」


東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ---このような気持ちは常に持ち続けてきたけれど、現実は自分の周辺のことで手一杯。


ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

   ---自然の力を畏怖しながらも、あるがままを受け入れていると思う。


ミンナニデクノボートヨバレ

  ---面と向かって言葉にされずとも、ひそかにそう思われているだろう。


ホメラレモセズ

   ---褒められることとは縁遠い。たまに褒められると、ムズムズして心地悪い。


クニモサレズ

   ---苦にしている人がいるかもしれない。できるだけ目立たぬように存在を消して生きるようにと心がけている。


サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

   ---そういう者に、私もなりたい。



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「無私」ということ

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日本に唯一の哲学と言われる西田幾多郎を取り上げた佐伯啓思の本を読んでいる。

西田幾多郎の著作そのものは、時代の隔たりもあり、なかなか難しくて途中挫折してしまったのだが、

こうして読み解いて解説してもらうと、なんとなく伝わってくるものがある。



「無私」、西田哲学の背骨を為す考え方。

「我思うゆえに我あり」と考えたデカルトと対比して述べられている。

それはすなわち、西洋の哲学と西田が日本という風土から生み出した哲学との違いだという。


「我思う・・・」というからには、まず、「私」がいることが前提で思考が組み立てられる。

しかし、西田の思想は主体である自分と客体である環境との偶然の出会いで経験が生じ、

そこで自分の中に生まれる何らかの思考・感情の動きが「私」を成立させるという。

つまり、経験以前に「私」は無い。

これが「無私」。


今、読み進むほどに味わい深い読書をしている。


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先日のBS日テレ「深層ニュース」でーーーおひとりさまーーーの問題を取り上げていた。

その場に、コメンテーターとして呼ばれていた女性識者の言葉の中に出てきたのが「孤独」と「個独」の言葉。

「孤独」は、人とのつながりを持てずに孤立して寂しい状態とし、

「個独」は、人とつながることを、あえて求めず、一人行動や暮らしを楽しんでいる状態、

のような違いで語られていると受け止めた。



なるほどね。

とすると、現在までの私の(独りが好き)傾向は「個独」ということになりそうだ。



最近は「おひとりさま」という言葉が盛んに使われていて、

そういう行動傾向の人間にとっては色々と社会的活動において楽な面も増えてきた。



その専門家は、「個独」に固執していると、将来、「孤独」に移行する可能性もあると警告していた。

まあ、それも人によりけりでしょうが・・・



この回の女性コメンテーターの話には、あまり共感も新味も覚えなかったことを記しておこう。



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いま、再び哲学を

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先日、養老孟司さんの「遺言」という本を買った時に一緒に買い求めた本がある。

「西田幾多郎 無私の思想と日本人」 佐伯啓思:著 新潮新書



哲学というと、何か小難しい学問だと敬遠されることが多いが、実は違う。

如何に生きるかを考えること、すなわち哲学であり、

全ての人は生きている以上自覚せずとも日々哲学を体現していると言える。



では、哲学者として知られる著名人の著作に何を学ぶかというと、思考の道筋を参考にさせてもらうというほどのことだろう。


人はそれぞれゼロからスタートして、その生を終えるまで、

面倒くさくなったからと誰かに人生を肩代わりしてもらうことはできない。

地球上の人類の歴史が何千何万年であろうと、個人の歴史は長くても百年である。

その限られた時間内で「いかに生きるか」と考える時間は限られている。

全ての人が自分の人生観を手探りするしかないのだが、

その暗闇に道しるべの明かりを灯してくれるのが哲学者と呼ばれる先人の言葉の数々であろう。

そこに万人共通の答えがあるわけではない。

それぞれの人が自分の腑に落ちる言葉を選んで自らの生き方の参考にするしかない。

哲学とは、それで良いのだと思う。


「真実一路の道なれど 真実、鈴ふり、思い出す」

まさに今、西田幾多郎の「哲学の道」を(京都にある名所ではなく)頭の中でたどりながら、鈴を振ってみようと思う。



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今朝、TV(羽鳥慎一のモーニングショー)で、錦糸町駅に棲みついた「券売機カラス」の話題が取り上げられていた。

偶然だけれど、ハトのことで私がブログ記事をアップした直後だったので、似たような話題で驚いた。


番組の見解では、「券売機カラス」の人馴れようは、かつて飼育されていた個体ではないかということだった。

飼いきれなくなると野に放つ、これ困るんだなあ・・・


錦糸町のカラスに餌を与える人がいるとも報じていた。

専門家は、餌を与えてはいけないという忠告をしていた。


以前、私が登山をしていた時にも、野生の鹿に自分の食物を与えていた人がいたっけなあ。

「それマズイでしょ」と思って見ていたけれど、野良の生き物に安易に人間の食物を投げ与える人は多い。

こういう人の多くは、誰かに注意されるとムキになって反論したり逆恨みする傾向があるので、

私はあえて注意はしないことにしている。


『野生』ということを考えたこともない人間が増えたんだろうなあと感じる。

そのことが廻り回って自分たち人間の生活に脅威をもたらすことになるかもしれないとは考えもしないのだろう。


一時の自己満足で動物を甘やかすことは、動物にとっても人間にとっても良い結果にならない。


人間も自然の一部であることを自覚して環境に対処する能力が衰えている時代。


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いたるところでハトを見かけるようになった。

私が暮らすマンションにもハト避け対策を施しているお宅を見受けるようになった。

ここ2-3年のことだ。


そう言えば、自宅付近で増加しつつあったカラスの姿が減っているように感じる。

ゴミ集積所のカラス対策が功を奏して住み処を替えたのか、

長らく空きマンションだった隣のマンションに入居が進んで人間が増えたせいなのか。

ハトとカラスを比べれば、カラスのほうが優位であろうから、カラスの減少がハトをはびこらせているのか。


原因はわからない。


私が現在勤務しているマンションでも、ハトが飛来して高い場所からフンを落とす季節になった。

見ていると、バルコニーの端からお尻を出してフンを落とし、その後、向きを変えて下を覗き込んでいるハト。

自分の排泄物を観察しているのか・・・憎たらしいったらない。

柔らかいフンは飛び散り、建物のガラスや壁に飛沫が点々と付く。

それを掃除するのは私の仕事になるが、拭いても拭いても拭いた傍から汚されるのでキリがない。


私がいま仕事に通っている街は街中ハトだらけ。

蹴飛ばそうと思えば蹴飛ばせるくらい、いたってノンビリと人間の足下をヨチヨチ歩きながら何かを啄ばんでいる。

通勤電車の車窓から見る駅のホームは、どの駅にもハト避け対策が為されている。



たぶん、どこの施設でも住宅でも、ハト対策には頭を悩ませていることだろう。



一時、広島平和公園のハトが増えすぎて、一網打尽に捕獲して無人の島に連れて行ったというニュースがあったように思う。

「平和の使者」などというアンタッチャブルな伝説故に誰もハトを害鳥として駆除できないのだろうか。


「焼き鳥にして食べちゃえばいいのに」と動物愛護団体が目を剥いて怒りそうな冗談を言ったら、

「ハトは、バイ菌だらけだから駄目なんですよ」と防鳥対策業者が真面目に答えた。


害獣化するイノシシやクマやアライグマやサルなどの問題もある。

これらの動物や鳥とバランスを保って共存することはできないものだろうか。


たかが鳥と侮っていてはいけない。

かつてヒッチコック監督制作の「鳥」という映画があった。

鳥も増え過ぎれば十分に人間を脅かす存在になり得ると思うこのごろ。



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