2016年12月アーカイブ


二度と無い一年間が、今年もいよいよ最終日。

年齢を重ねるごとに時間の大切さを痛感する度合いが深まる。



昔、新年を迎える前に必ず親が買っていたのが(高島暦)の一冊。

これは農業に携わる家では農事暦としても使われていたようだが、生まれ月による運勢の記述が大半。

その巻末の方には、干支別の人生指針のようなページもある。

そこに書かれていた自分にかかわる内容で覚えていることは

「皇帝の手に位置する干支ゆえ手先器用で技芸・芸術に秀でる」

「晩年は幸せ」

という二つの文章。


器用であるということは、秀でるとまでは言えないけれど、まあまあそうだろうと思える。

そして私の晩年は・・・

まだあの世に逝っていないので、どのあたりが晩年になるかは未定だけれど、その近くの年齢になってきたことは間違いない。


過去を振り返るとさまざまなことがあった。

世間大多数の同世代に比べると、底辺近くをウロウロしながらの人生だったと思う。

ではそうした過去がいま現在の私に不幸せ感を抱かせているかと言うと、そうではない。

大変なことを数々乗り越えた分だけ、現在の平穏に対する幸福感は二倍にも三倍にも跳ね上がっている。


「若いうちの苦労は買ってでもせよ」とはこのことかと、ほぼ人生後半になったからこそ確信できるのである。



幸せの尺度や条件は人によってさまざまだけれど、

あれも無いこれも無いという条件の中で、

それでも投げ出すことなく、

手元にある条件を最大限生かす工夫をしながら地道に誠実に日々を暮らしてきたからこそ、

どうってことないささやかな出来事にも大きく喜べるということなのだろう。


「禍福はあざなえる縄の如し」


このごろなんだか死ぬことばかり意識した文章が増えてきたなあと思うが、

考えてみるとこれまでずっと

「最悪の事態は不慮の死。それさえ覚悟していれば何にでも挑める。だからどんな難事からも逃げ出さない」

を信条に事にあたってきた。



誰の著作だったか忘れたが(死ぬ気満々)という言葉が印象に残っている女性作家の本があった。

この(死ぬ気満々)という言葉が妙に私の心に響き、共感した。

(死ぬ気満々)(メメント・モリ=死を想え)、これまで死は常に私の傍に寄り添って在り、死は私の唯一の友であった。

だからこそ、眼前の困難に勇気を持って立ち向かい乗り越えてくることができたと、

今の私が断言することは許されると思う。



昨今、いじめを苦にして自ら命を絶つ若者がいるが、そうした人たちに伝えたい。

死ぬのはいつでも死ねる、嫌でもいつかは死ぬ、でもそれは一度きり。

だったら、死んであの世に生まれ変わったのだと思ってこの世の地獄を渡ってごらんと。

この世の(血の池地獄)なら対岸に泳ぎきったところにあるかもしれない穏やかな景色を、

生きて自ら確かめられる日がきっと来るから。

私がそう言える根拠は、あらゆることに『永遠』はないという事実を確信しているから。

(血の池地獄)を懸命に泳ぎ渡る間に、人間は、より強くよりたくましくなっていくから。



ま、こうして何だかんだと言いつつ振り返りつつ、人生の残り時間を消費している。


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三太郎を考えてみた

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最近、携帯電話会社のCMに使われている三太郎が、けっこう人気らしい。

三太郎とは、桃太郎・金太郎・浦島太郎のこと。



日本のみならず世界中に子供向けのお話(いわゆるおとぎ話や童話)があるのだが、

その話を大人の目線で考察し直した本も出版されている。

白雪姫を別角度から読むとこうだとか、アンデルセンの童話が示唆することとか、

大人社会の事情で読み解くと、そこには単純なハッピーエンドでピリオドが打てない継続性が浮かび上がる。



そんな大人目線で三太郎を考えてみると・・・


金太郎は、力のあるものが勝負には勝つけれど、

勝負を離れたところでは互いの存在を認め合って共生しようとするごく平凡な人間の日常。


浦島太郎は、困っているものに手を差し伸べるのは人として当たり前の情であり、

その情で救われたものは救ってくれた人に感謝の念を忘れないこともまた人として疎かにできないことだと読める。

玉手箱を開けた浦島太郎が一瞬にして老人になったのは、ある意味乙姫の思いやりとも言える。

長の年月、現実世界を留守にして龍宮城で時を忘れて遊び呆け、

ひさびさ故郷に帰ってみると、そこは龍宮城に出発する前に見知っていた環境でもなく知り合いもいない。

そんな場所で不老の浦島太郎が生きて行くことに困難を覚えることはお見通しの乙姫は、

故郷の時の流れを一瞬にして浦島太郎に出現させる玉手箱を持たせたのだろう。


が、古来より人の願いのひとつに挙げられる「不老不死」の観点から見てみると、

永遠の命を手に入れてどうなるということへの暗示が含まれているとも言える。




金太郎も浦島太郎も、ごく普通の人間として受け止められるが、桃太郎に関してはどうだろう。

最近出版された本で(かぐや姫は嫌な女だ)という本が出ているらしいが、桃太郎も実は嫌な奴の部類かも。


高齢の両親に後生大事に育てられ、立派な装束に身を包み、きび団子を持たせてもらって鬼退治という手柄を立てに出立する。

鬼が島への道すがら、きび団子という餌にすり寄ってくる者たちを手下にして鬼退治を手伝わせる。


村の人間にとっては鬼が悪者かも知れないが、鬼社会から見ると桃太郎が敵である。

それまでは鬼社会なりの日常が営まれていたところに桃太郎が家来を連れて乗り込んで来て、

鬼社会の平穏をぶち壊したとも言える。

村に帰った桃太郎は英雄扱いされるかも知れないが、鬼たちからは憎まれるだろう。




おとぎ話や童話のような本来子供向けとされる話にも、しっかり大人社会は反映されているわけで、

各年齢・各立場のオトナ目線で見直してみると突っ込みどころ満載のお話ばかりだと言えそうだ。


つれづれなる日々に、そんなことが頭に浮かぶこともある。


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我が家では、ガス警報器が、何度新品に替えても誤作動を繰り返す。

使っているのは都市ガスで、警報器はガスコンロの上部天井に設置してある。

集合住宅なので警報器は管理室の警報管理装置に連動し、

異常があるとガス会社と警備会社から人が駆けつける仕組みになっている。

この両者が訪ねてきた回数が、我が家では過去30数年間に2-3回というのはあまりにも多すぎないだろうか?

しかも、その都度ガス漏れは検知されないという結果。

ガス警報器が何に反応したのか、または、どんな原因で警報ランプが作動するのか不明。

トラブルが発生する度に新品に交換してきた。




そもそも安全警報装置は生活するにあたっての安心を助けるための物なのに、

我が家では逆に警報器のご機嫌を窺いながら日常生活をおくるという不安要素になっている。



人間が安全に暮らすためには、できる限り危険は避けたい。

かといって、危険要素も含むが生活には欠かせないという全てを生活から排除するわけにはいかない。

その対策として、これまでにさまざまな危険察知のための機器が開発製造されて使われている。

しかし、所詮は無機質な機器である以上、人間生活のあらゆる場面への応用的な対応はできない。

故障もあれば誤った検知で作動する場合もある。

たとえ間違いであっても作動するなら良いではないかと言う人もいるが、

そもそも危険が迫っていることを知らせる為の機器なので、

その発動は人間の不安や恐怖を誘発する。



さてさてどうしたものか・・・

今は、再び新品(同機種で)に交換してもらったガス警報器が誤作動を繰り返さないことを祈りながら、

ビクビクしながらの日々である。


まあ、 "慣れ" とはおそろしいもので、そのうち気にもせずに暮らすようになるだろうが、

忘れたころにまた誤作動という事態になり兼ねない。

便利で安全で平穏で・・・と、不安要因を全て取り払った生活などあり得ないことを、

一個のガス警報器が教えてくれたのかもしれない。


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「若い者には未来がある」とか「若いから希望を抱ける」とは、当たり前のように使われる言い方。

ま、近年の社会の混乱ぶりを見ると、近頃の若い者には素直に受け入れられない表現かもしれないが。

「老人には未来が開けている」とか「高齢者だから希望がいっぱい」と言う人は、なかなかいないだろう。



では、『未来』とか『希望』とか『夢』などという言葉とは縁遠くなった老人は『幸せ』という言葉とも縁が無いかというと・・・

おっとドッコイ、この『幸せ』という言葉は年齢に関係なく当てはまる言葉なのである。

そして、人は、何とかして自分がこの『幸せ』という言葉に当てはまるために日々を消費しているとも言える。



私が若いころ、

 ♪ 若いという字は苦しい字に似てるわ  涙が出るのは若いというしるしね ♪

という歌詞の歌があった。

『未来』とか『希望』とか『夢』という言葉は、必ずしも『幸せ』とセットではないということが、

長年いろいろ経験し、悩み、苦しんでみるとわかってきた。



今の自分で良し・・・と思えることこそ『幸せ』に一番近い考え方。

それは変化を拒むということでも、何かをする意欲も無くて良しということではなく、

淡々と現状を生きる自分に素直であることなのだが、この境地を言葉にして説明することは難しい。


ただ言えるとしたら「歳とるのは哀しいことばかりではない」ということだろうか。



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外出には覚悟が必要な時代

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師走も早や半ばが過ぎようとしている。

今年の後半は、とにかく忙しい日々が続く。

街中への外出も頻繁になる。

私は車の運転を止めたので、移動は全て公共交通機関を利用するか徒歩である。

前期高齢者の仲間入りとはいえ、幸いなことに自分はまだまだ元気に動けている。



そんな私が、最近、外出の際に特に意識するようになったことは「危険の回避」である。



今年は特に高齢者の自動車過失運転に巻き込まれ死傷者が出るという事故が相次いでニュースになった。

道路を歩くにもウカウカしていられない。

常に周囲に目配り気配りしながら歩かなければと思う。

自分本位で無謀な自転車は言わずもがな、超が付く危険な対象である。


電車のホームでボンヤリしていれば、いつ何時背中を押されて線路に突き落とされるかわからない。

電車の到着を待つ間も、できれば壁を背にして立つとか、周囲の気配に神経を研ぎ澄ますようにしている。



そんなに神経質にならずとも・・・と笑われるかもしれないが、

このような私を行き過ぎた心配性だと鼻先で嘲笑する人は、考え直した方が良い。

今や、都会だから地方だからと区別できる状況ではないはずだ。

もっと範囲を広げて言えば、世界中が危険に満ち溢れている時代なのだ。



人間なら誰も必ず一度は死ぬ。

その一度には復活という選択は無い。

一度しかない死なら、自分で納得の行く死でこの世とオサラバしたい。

間違っても、理不尽な事故に巻き込まれるような死に方はしたくない。


というわけで、

超が付くほどの慎重な行動を心がけるようになった私。

だって、なるべく痛い思いはしたくないし・・・


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