知らないということを知ること

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職場に若い人が増え、ある程度年齢の高い人でも未婚の人が増えると、

過去には当然であった基本事項も滞るようになりました。

それらの多くは、実生活を多々体験し振り返りを積み重ねていれば自ずと気が付けるような事柄です。


「しょうがないなあ・・・」ということで、私のような年寄りが黙って手助けして片付けておくと、

彼らにとっては「私の仕事はうまくいっている。だいじょぶだぁ(志村けん風に)」で過ぎて行きます。



現在の仕事に就いた30年前には、若い者であっても、

誰かに自分の仕事をそっと助けてもらったことに気づき、

「ありがとうございました」の言葉が返って来たし、次は自分でやろうともしていました。

それは、昔の若者が、自分は未熟でものを知らないことを自覚していたからだと思います。

もちろん、昔の人間が、そんな殊勝な人物ばかりだったとは言いませんが、

そういう認識を持つ人は多かったと思います。



「昔は・・・」と言い始めたら私も終わりだと、極力言わないように気をつけてきましたが、最近はちょっとひど過ぎます。



最近、「ゆとりですが何か?」とかいうタイトルのテレビ・ドラマがあるようですが(私は視たことはありません)、

そのように開き直る人間が現実に多くてやり難くて仕方ありません。



「・・・ですが、それが何か不都合ありますか?」なんて開き直ったら、人間の成長はそこでストップします。



人間は誰しも、【完成】【完璧】は死ぬまであり得ません。

80歳でも90歳でも、知らない事やできない事は山ほどあります。

それを自覚できるかできないかが、他者に寛容になれるか否かの分かれ目であり、

自己の成長の可能性を持続できるかどうかにつながって行くのだと思います。



まさに「無知の知」です。


このごろは、黙って気を利かせたり、そっと手助けしたりするのを止めようかと思うことが度々です。

私も開き直りたい気持ちになります。(というか、もう開き直っているのかも)

「ウザいババアですが、なにか?」なぁんて、ね(うふふ)。」



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このページは、tsuyuが2016年6月16日 09:38に書いたブログ記事です。

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