日本独自の哲学の必要性

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私は長年、言語による意思の表現に関心を抱いてきた。言語による意思というからには、まずは母語である日本語への関心が先にあった。その上で、では外国語で表現された意思との発想の違いは?ということに発展しての英語習得願望につながって行った。


それから(中学生時代以来)、付かず離れず英語文化の周辺をウロウロして過ごしてきた。残念ながら、「流暢に」という域には達しなかったわけだけれど、外国語に全く関心を持たない人よりは欧米文化と日本文化を対比して考察する機会は多かったと思う。

そんな私だったが、最近、欧米文化への関心度が急速に減退してきた。日本人としての自分の発想と何かが違う。「私」という人間を「私」たらしめている発想の原点は如何なるものであろう?そんな疑問が生じて、これまでやってきたような日本語と英語の内容の単純交換では理解できない壁があるように感じることが多くなった。



昨日の朝日新聞「異論のススメーーー西洋と異なる思想 今こそ : 佐伯啓思(京都大学名誉教授)」を読んで、感ずるところがあった。そこには、「日本で唯一の哲学者」といわれる西田幾多郎の哲学について書かれていた。


・・・「哲学は人生の深い悲哀に始まる」と彼(西田幾多郎)はいう。・・・と佐伯氏の文中にある。"人生の深い悲哀"とは、言葉以前の思考や感情であり、そこに人間の「真」がある。・・・「真」なるものは、言葉で把握できるものではなく、言葉以前のところにある。(太字は佐伯氏の文章引用)



私は、自分のブログに展開するような内容を日常会話の中で頻繁に発言して、周囲から敬遠されてきた。その結果、私に関しては(うざい・理屈っぽい・変人)などの人物像が描かれているように感じる。私としては、単に自分が感じている「人生の深い悲哀」をできる限り普遍的な言葉で表現し、理解を共有または深めたいと思っているに過ぎないのだが、それが周囲には(うざい・理屈っぽい)として遠ざけられるようだ。(だから、私にとってはこのブログを書くことが自分自身の救いになっている)



日本は、先の大戦以降アメリカ流のエンターテイメント的な生き方や思考を好む風潮が広がっている。がしかし、これはこの国の風土が育んだ脳内DNAに定着するには無理があるように思う。


佐伯啓思氏が西田幾多郎の哲学に触れ、今こそ日本独自の哲学を・・・と呼びかける一文を寄せられたことを大いに注目したい。そして、若い日本の哲学者が現われて日本独自の哲学を構築することを期待したい。


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このページは、tsuyuが2016年6月 4日 09:40に書いたブログ記事です。

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