2016年6月アーカイブ

英国の国民投票でEU離脱が僅差で残留を上回ったことは、驚きだった。

おそらく、全世界の常識人から見れば「残留」が妥当な決断であろうとの観測だったはずだ。



なぜ多数のイギリスの国民が「離脱」に投票したのか?


イギリスに行ったことも無ければ住んだことも無い私が、

英国のEU離脱問題に一言申すのはおこがましいことと知りつつ一言言うとしたら、

かつての大英帝国時代の【プライド】が未だに、一部の英国人の中に存在していることを感じないわけにはいかない。

また、一部の過激な扇動者の発言に、半ば面白半分で乗ってしまう現代風潮というものもあったようだ。



そして驚いたことには、離脱が決まって一番驚き慌てているのは離脱に投票した英国国民自身らしいということ。


今回、英国のEU離脱問題で学べるのは、

*過去の栄光を忘れられず過剰なプライドを抱き続けると現状への判断を誤る

*物事の決断に際しては、その内容に関して自ら理解しようとする真摯な姿勢が必要である

ということか。



高度な国際外交も個人的な人間関係も元を辿れば同じ人間の発想から生じる事柄だと思っているので、

今回の英国国民投票に関するニュースは色々と参考になる問題点を提起していると受け止めている。



いずれにせよ、

「後悔先に立たず」であり「覆水盆に返らず」なのである。

物事の本質を短い言葉で伝えようとした先人の教えは、

なかなか後世の人間に生かされず、過ちは繰り返されていくものだなあと思わざるを得ない。



ま、今回のEU離脱が  "吉" となるか "凶" となるかは、これから次第ではあるが・・・

傍から見ると、背負わなくても済んだはずの重い荷物を英国は背負いこんだのだとしか思えない。

国単位であろうと個人単位であろうと、決定したことへの責任は自らが負うしかない。



さあてっと、これからの世界はどう動いて行くのだろう?



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親譲りの外反母趾です。

若い頃から次第に変形が進行してきました。

最近は、加齢に伴う体全体の筋力の衰えを痛感していますが、

外反母趾の右足も歩行時に痛みを生じるようになりました。



親指が内側に曲がることで膝にも痛みが生じていますし、

小指も曲がってしまって、長時間靴を履いていると痛くて歩行が辛くなります。



幾つか外反母趾の靴下型装具を試してみましたが納得いくものがありません。


ということで、

この度、スポーツ選手がよく使っているテーピングを試してみることにしました。



自己流で巻いて一日過ごしてみましたが、歩行が楽なように感じました。

しばらく続けてみようと思います。

ただ、難点は、テープの糊がべたついて靴下に貼り付くことです。

でも、痛みが抑えられるなら、それくらいは仕方がないかな。

それに、これ以上外反母趾が悪化して、膝の変形や腰にまで影響が出るのは予防したいところですから。



何十年も酷使してきた体ですから、あちらにもこちらにもガタが出るのは避けられないのですね。

加齢との付き合いは、華麗な話にはならないようです(トホホ)。


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職場に若い人が増え、ある程度年齢の高い人でも未婚の人が増えると、

過去には当然であった基本事項も滞るようになりました。

それらの多くは、実生活を多々体験し振り返りを積み重ねていれば自ずと気が付けるような事柄です。


「しょうがないなあ・・・」ということで、私のような年寄りが黙って手助けして片付けておくと、

彼らにとっては「私の仕事はうまくいっている。だいじょぶだぁ(志村けん風に)」で過ぎて行きます。



現在の仕事に就いた30年前には、若い者であっても、

誰かに自分の仕事をそっと助けてもらったことに気づき、

「ありがとうございました」の言葉が返って来たし、次は自分でやろうともしていました。

それは、昔の若者が、自分は未熟でものを知らないことを自覚していたからだと思います。

もちろん、昔の人間が、そんな殊勝な人物ばかりだったとは言いませんが、

そういう認識を持つ人は多かったと思います。



「昔は・・・」と言い始めたら私も終わりだと、極力言わないように気をつけてきましたが、最近はちょっとひど過ぎます。



最近、「ゆとりですが何か?」とかいうタイトルのテレビ・ドラマがあるようですが(私は視たことはありません)、

そのように開き直る人間が現実に多くてやり難くて仕方ありません。



「・・・ですが、それが何か不都合ありますか?」なんて開き直ったら、人間の成長はそこでストップします。



人間は誰しも、【完成】【完璧】は死ぬまであり得ません。

80歳でも90歳でも、知らない事やできない事は山ほどあります。

それを自覚できるかできないかが、他者に寛容になれるか否かの分かれ目であり、

自己の成長の可能性を持続できるかどうかにつながって行くのだと思います。



まさに「無知の知」です。


このごろは、黙って気を利かせたり、そっと手助けしたりするのを止めようかと思うことが度々です。

私も開き直りたい気持ちになります。(というか、もう開き直っているのかも)

「ウザいババアですが、なにか?」なぁんて、ね(うふふ)。」



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昨日、外出の帰り道で、同じマンションに住む高齢女性お二人と時間差ですれ違いました。


まず一人目は、

5-6m先にその姿を認めたので、私はご挨拶する心準備をしながら歩いて行きました。

すると、彼女は、私の目の前1-2mのところで私を避け、

頭を上げて真っ直ぐ前を向き、素知らぬ顔ですれ違って行きました。

避けたということは、対面で人が歩いて来ることには気づいていたということは確かです。

そして、それが同じマンション住民の顔見知りであることにも、気付いていたでしょう。

が、彼女は、あたかも気づいていないかのように振る舞ったのです。



もうお一人は、

2-3m先から私と目線が合うと微笑みながら近づいて来られたので、ご挨拶と短い会話を交わしてお別れしました。

こちらの女性は、お会いするといつも二言三言の言葉のキャッチボールがあります。




ま、この例のみならず、最近はいい年した高齢者でもすれ違いの挨拶をしない(できない)人が多く見られるようになりました。



向こうに人影を認識した時、「あ、嫌な奴が来た」と思うことはあります。

できれば会いたくない人物とも遭遇したりすれ違ったりすることは、生活していれば避けられないことです。

声に出して挨拶するのも厭だ、まして、簡単な会話を交わすのは真っ平ご免だと思っても、

せめて、会釈か目礼くらいできませんか?

それくらいは人間関係の行き違いを防ぐ最低限の礼儀だとは思いませんか?



一時期、【江戸しぐさ】というものがテレビで紹介され、専門家の解説が為されていたことがあります。

例えば、狭い道を傘差した者同士がすれ違う時には互いに反対側に少しだけ傘を傾けてすれ違う・・・とか。

それは、感情的な衝突を避ける為に日本人が身に付けた所作であり心遣いであったのでしょう。

そういう意味では、

なるべく他人と濃密な人間関係を持ちたくない現代人こそ、【会釈と目礼】は身に付けたい所作ではないでしょうか。



多くの言葉を弄するよりも、沈黙の所作が人の品格を示すことがあるものです。



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昨夜のNHKスペシャル「炎上が相次ぐニッポン 社会が "不寛容" に!? 不謹慎狩り・過剰配慮 いま何が起きている?」を視た。


相次ぐ不倫報道や疑惑追及報道、ネットをめぐるトラブルなどを取り上げてのスタジオ討論会。


番組後半で発言された「人間は基本的に不寛容なものです」という中野信子さんの言葉は示唆に富む。



私自身、15年前にインターネットを使うようになって、

交流の幅を広げるべく幾つかのネット交流サイトに登録していた時期があった。

オフ会とやらに参加もしたし、ネット上の掲示板への書き込みも頻繁にしていた。

見知らぬ人を対象の発信だということを意識しながら慎重に言葉を選びながら書き込みしていたつもりだった。

それでも、ネット上での攻撃を受けるという経験をした。

その経験から、いじめは現実社会ならずとも起きるものであることを知った。

ネット上で品の無いいやがらせをしてきた人たちは、オフ会で会ってみると、ごく普通の人たちである。

私の何を知っているわけでもないのに、ネットの掲示板上での攻撃は辛辣で自分勝手で下品なものだった。



「話せばわかる」・・・そんな言葉は美しすぎる。

話しても分らないのが人間。

許容・寛容があって初めて人間関係は表立った諍いなしに成り立って行く。



日常の利害関係が存在したり、頻繁に顔を合わせる間柄であれば控えめに振る舞える人でも、

顔が見えない体温を感じることもない画面上の交流の場では、

何とまあ辛辣で下品で無遠慮になれることか!!


そして今や、液晶画面上において文字のみでやり取りする世界が精神生活の大半を占めるという人たちが増加の一途。

現実の会話は成り立ちにくくなっている。


液晶画面上のやり取りは、自分に都合の良いように解釈したり、都合の悪いことに関しては平気で無視できる。

それは、どんなに自分のブログ読者やSNSの交流相手が多数でも、

真の意味で他人と関わっていることにはならないことを意味する。



自分一人の価値観や世界観に閉じこもり、その世界を壊される脅威を感じると、

即ネット上への書き込みで誹謗中傷で反撃するという短絡思考かつ短絡行為。

挙句の果ては、相手を害する現実行為としての犯罪に発展して悲劇を生む。


「お互いさま」「お陰さま」という許容や寛容は、ネット世界には存在し難いのかもしれない。


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映画3本、観た

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一昨日、「海よりもまだ深く」。

昨日、「団地」と「ロクヨン:後編」。



どの作品も、印象に強く焼き付くほどの内容が伝わって来なかった。


「ロクヨン:後編」は、前編を観ていたので、その流れで後編も観ることになった。


「海よりもまだ深く」「団地」は、高度経済成長の時代に多く建設された団地に住む高齢者が主人公。



どれも映画でなければというスケール感はなく、

昔なら、テレビドラマでもこれくらいの作品はあったかな・・・という感じ。




それより、

深夜のEテレで視た「戦後サブカルチャー史 III  北野映画の衝撃」が面白かった。

北野監督作品は、事前広告で目にする暴力的なシーンが怖くて観る気がしない。

しかし、作品の中の(拳銃を構える描写)を素材に、あれだけ現代文化や精神構造が語れることには驚いた。

講師は、脚本家:宮沢彰夫(みやざわ あきお)。

先週の同タイトル番組ではコトバを取り上げていて面白かったので、今週も視た次第。

「戦後サブカルチャー史 III」は、来週が最終回。来週も視たい。


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先日、歩道に面した店舗のドア前にしゃがみ込んで、何やらイタズラしている小1か小2くらいの男児に、

「何してるの?イタズラしてはダメよ」と話しかけました。

すると、男児は、持っていた石ころをポイッと歩道に投げ捨てました。

その後、歩道に埋められた公共栓の蓋(10cm×20cmくらい)を開けようとしました。

「あー、まだやってるの?そんなことしちゃダメだよ。早く行きなさい。」と再度声を掛けました。

反応が無いので「お返事は?」というと、

横に立っていた女児(小3くらい)が私の顔をじっと見ながら、

「〇〇(名前)、行くよ」と男児に声をかけました。

「あら、お返事はないの?」と畳み掛けると、

「知らない人と話しちゃいけないから、〇〇、早く!行くよ!」と二人で駆け出しました。


二人の反応に対して(ヤレヤレ、またか)とガッカリした私はダメ押しで、

「知らない人でも、君たちがダメなことをやっている時には声を掛けるんだからね」と、

あまり距離が離れないうちに言ったのです。



お節介ですよねぇ・・・

さぞ、ウザイおばさん(おばあさん?)だと思ったことでしょう。




進行方向が同じだったので、二人とも私の方を振り返りながら先を走って行きます。

しばらく行った所で二人は右に折れ、私は直進でした。

その分かれ目の地点で、二人が走り去った方向を見ると、建物の陰からじっと私の様子を窺っていました。


二人は、私が声を掛けた時点からニヤニヤするだけで言葉の反応は無し。

塾の行きか帰りか、それらしい鞄を背負った二人は、普段から親に言い含められているのでしょう。

「知らない人に声を掛けられても相手にしないように」と。



寂しい時代になりました。



知らない人には警戒するということを幼い頃から教えることが必須の時代とはいえ、

これでは社会が子育てを応援することは無理だな、と思うのです。



今後は、子供が何をしていようと、知らない子供には声を掛けない方が私自身の精神衛生の為でしょうか。

いえいえきっと、返ってくる反応が無反応か反抗的だと分かっていても声を掛けてしまうでしょうね、私は。


わたし、ウザイんです。


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最近のニュースに接していると、次第に暗澹たる心持ちになってきます。


このところ毎日ニュースに取り上げられている舛添都知事のお金の問題に関しては、

彼に期待して票を投じた都民ならずとも腹立たしい限りです。

国会議員当時の政治資金の使い方については違法ではないような解説をされていますが、

違法でなければ何をしても良いのかという疑問と不愉快を感じる人は多いはずです。

そもそも、彼が政治資金を手に入れることができたのは、

我々の生活がより良い方向に向かうような政治を期待して票を投じた人々のお蔭で国会議員になれたからでしょう。


公用車を使えるのも、ファーストクラスの飛行機やホテルを利用できるのも、

暮らしの改善を期待して票を投じた都民のお蔭で都知事当選を果たしたからです。


ならば、彼には託された仕事があり、その任を遂行すべく日夜心を砕き、積極的に現場を視察しなければ、

現実的な政治的判断や政策の立案・実行は不可能なはずです。



まあ、このところ連日の報道を視る限りでは、

棚からぼた餅で手に入れた国会議員と都知事の座にあぐらをかいて、

ずい分安上がりに高級な趣味やレジャーを楽しみ、おまけに蓄財にも励まれていたようで・・・


桝添さんは確かに頭が切れる人なのでしょう。

でも、その明晰な頭脳の使い方は間違っていますよね。

少なくとも、大勢の人々の暮らしに関わる政治を託せる人物でないことだけはハッキリしました。



今の時代、そんなセコいことをする役職者は、世の中に名前を知られた人ばかりではありません。

私の身近なところでも、人の上に立つ地位にありながら、いい加減な仕事ぶりの人間は掃いて捨てるほどいます。

本当に、そんな輩は、文字通り「掃いて捨て」ることができたらどんなに良いだろうと思います。

多額の報酬を受け取る資格の無い人物が、能力に見合わない地位を手に入れているのを見ると腹が立ちます。

怒りを覚えますが、任命権や地位剥奪権を持たない人間としてはどうすることもできず、歯噛みするばかりです。


こんなことだから、社会が荒んでいくのは当然の帰結でしょう。

なんだか、人としてより良き方向めざして懸命に生きているのが空しいと思ってしまうこの頃です。


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日本独自の哲学の必要性

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私は長年、言語による意思の表現に関心を抱いてきた。言語による意思というからには、まずは母語である日本語への関心が先にあった。その上で、では外国語で表現された意思との発想の違いは?ということに発展しての英語習得願望につながって行った。


それから(中学生時代以来)、付かず離れず英語文化の周辺をウロウロして過ごしてきた。残念ながら、「流暢に」という域には達しなかったわけだけれど、外国語に全く関心を持たない人よりは欧米文化と日本文化を対比して考察する機会は多かったと思う。

そんな私だったが、最近、欧米文化への関心度が急速に減退してきた。日本人としての自分の発想と何かが違う。「私」という人間を「私」たらしめている発想の原点は如何なるものであろう?そんな疑問が生じて、これまでやってきたような日本語と英語の内容の単純交換では理解できない壁があるように感じることが多くなった。



昨日の朝日新聞「異論のススメーーー西洋と異なる思想 今こそ : 佐伯啓思(京都大学名誉教授)」を読んで、感ずるところがあった。そこには、「日本で唯一の哲学者」といわれる西田幾多郎の哲学について書かれていた。


・・・「哲学は人生の深い悲哀に始まる」と彼(西田幾多郎)はいう。・・・と佐伯氏の文中にある。"人生の深い悲哀"とは、言葉以前の思考や感情であり、そこに人間の「真」がある。・・・「真」なるものは、言葉で把握できるものではなく、言葉以前のところにある。(太字は佐伯氏の文章引用)



私は、自分のブログに展開するような内容を日常会話の中で頻繁に発言して、周囲から敬遠されてきた。その結果、私に関しては(うざい・理屈っぽい・変人)などの人物像が描かれているように感じる。私としては、単に自分が感じている「人生の深い悲哀」をできる限り普遍的な言葉で表現し、理解を共有または深めたいと思っているに過ぎないのだが、それが周囲には(うざい・理屈っぽい)として遠ざけられるようだ。(だから、私にとってはこのブログを書くことが自分自身の救いになっている)



日本は、先の大戦以降アメリカ流のエンターテイメント的な生き方や思考を好む風潮が広がっている。がしかし、これはこの国の風土が育んだ脳内DNAに定着するには無理があるように思う。


佐伯啓思氏が西田幾多郎の哲学に触れ、今こそ日本独自の哲学を・・・と呼びかける一文を寄せられたことを大いに注目したい。そして、若い日本の哲学者が現われて日本独自の哲学を構築することを期待したい。


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