2016年3月アーカイブ

咲いてます

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今、咲いています。

ベランダで鑑賞できる花です。

ようやく暖かくなってきました。



桜は、毎年同じアングルで撮影しています。

パンジーは、虹色パンジー。


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今、人工知能に小説を書かせようという試みが進行形だと報じられていた。

そのリンクは こちら 。


SF作家の星新一さんの作品全てを人工知能に覚えさせて、そこから物語をつむがせるという試み。

なんでも、人工知能が書き上げたショートショートが、コンクール上位にランクインしているそうな。


へぇ、人工知能は、もうそこまでできるのか・・・と驚く。

まあ、あり得ないことではないだろう。

2020年の東京オリンピックまでには、人工知能が通訳するという道具を間に合わせようというニュースもあったことだし。



こんな時代がドンドン進んでいくと、人間の知的な能力なんて、いずれ必要なくなるのではなかろうか?


そんな時代に、人間が人間にしかできないことって何だろう?

ひょっとしたら、昨今メディアを賑わせている話題(不倫や金銭のごまかしや悪質交通事故など)のような、

薄汚い欲から生じる愚かで犯罪的な行為こそ人間しかできないこと・・・ということになりそうな気がする。



人工知能が自発的に悪事を画策したり、突発的に悪事をするようになったら、人類は終わるな・・・

それこそ、星新一のSF小説の現実化ではないか!





ここで、再び人工知能に小説を書かせるという話に戻ると、

もしかしたら、人工知能には書けない文芸部門としてエッセイが挙げられるかもしれない。


エッセイは、人間個々人の二度と繰り返せない日々の経験の中からつむぎだされる文章であり、

それぞれの生活環境や健康状態などに触発される感情があってこそ成り立つ文章だからである。


いやいや、近年数多くのブログがネット上に存在することを思えば、

それらの情報を人工知能が収集して、架空の人物のエッセイも書けてしまうようになるのか?



ああか、こうか、はたまた、そうかと思いめぐらすことは楽しい。


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Saleの景品欲しさに服を買う

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昔は、興味も関心も無かったデパートのセール案内。

会場に行くだけで(コレ)を、〇千円以上お買い上げで(コレ)を進呈という内容が魅力的に感じられるようになった。

日用品以外の買い物は、たまにするならストレス発散とプチ満足には有効な行動。

そこにおまけが付いて来るならと、出不精な高齢者も足を運んでみようかという気にもなろうというもの。



うまく高齢消費者心理を読んでいるなあ・・・


で、私もしっかり、その手にのってしまっている昨今。



今回のセール、会場に行くだけで貰った物は(園芸ばさみ)。

〇千円購入すれば貰える物は(マルチ収納職人)という小物入れ。

園芸ばさみは既に持っているので、どうでも良かったけれど、マルチ収納職人は手に入れたいと思ったわけ。

〇千円の自腹を切れば気に入った小物入れはどこでも買えるし、

デパートで不要な商品を衝動買いすることもないだろうに、

そこは「貰える」ことに弱い人間の心理をよーく読んだデパートの商売上手。



というわけで、

買ってしまいました、

カットソー3枚。



こうしてタンスの服が増えていき、またまた「断捨離」「断捨離」と悩む羽目になるわけなんだけど・・・


今のような季節の変わり目に、衣服の入れ替えを行いながら「この服、あと何度手を通せるだろう」と考えるようになっている。



その昔、私が子供の頃には、(よそ行き)と(普段着)を分けていて、(よそ行き)の出番は少なかった。


でも、もうそんな区別をつける必要はないだろう。

好きな服を好きな時に着れば良い、やっとそう思えるようになった。


残念なのは、子供の頃からファッションセンス皆無の私なので、

傍から見るとチグハグな装いかもしれないが、ま、自己満足で良しとしよう。


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私が現在の職業に就いて、かれこれ30年になります。

昔は「職業に貴賤なし」などという耳触りの良い言葉があり、

まっとうな人間なら、職業で人を差別するのは良くないと、少なくとも知識としては知っていた筈です。

でも、現実は・・・職業で人の扱いを変える人は多いようです。



この仕事に就くまでは、そうした差別的扱いを受けることはなく、適度な礼儀をもって人に対応されていましたが、

この仕事に就いて以後は、私の職名を聞いた途端に、私に対する態度が変わるという経験を重ねてきました。



趣味の場所で知り合った人でも、なぜか皆「お仕事何していらっしゃるの?」と訊いてきます。

自分の職業を正直に言うと相手の態度が一変するのが予測されるので、私は一瞬返答をためらいます。

でも、バカが付くと言われるほどの生真面目さが(嘘をつくのは良くない)と私を戒めてしまうので、

つい正直に答えてしまい、予想通りの結果を招いています。



いつの間にか、私は、職業を詮索されるような雑談をしなくてはならないような集まりには参加しない、

または、参加しても深入りした付き合いを避けるようになっています。



職場では、当然のごとく、昨日今日来た年若い新人でも、私を見下すような扱いをしてきます。

30年の長きにわたってそうなのですから、いい加減腹をくくって慣れれば良いものを、

未だに割り切れないでいるんです。

ま、それなりに受け流す時もありますが、年度が替わって顔ぶれが新しくなる度に嫌な思いをしています。



社会的な立場や貧富の差や見た目の良し悪しなどで態度を一変させる付き合い方には、常々疑問を感じています。


江戸時代に日本に来た外国人の記述に

「人々の暮らしは決して豊かとは言えないのに、道行く人々が活気に溢れ、それぞれが幸せそうに暮らしていることに驚く」

といった内容があると聞きました。


あの時代を想像してみるのに、

庶民は、その日の暮らしに追われながらも、助け合い庇い合い赦し合い、

武士や学者などの上層階の人々は、自らを律するルールを確立し遵守することで、

自分の仕事や暮らしぶりを自慢したり卑下したりせずに、

ひたすら生きることに専念できたのかもしれないと羨ましく思います。



今朝、老人ホームでお年寄りの話し相手になっているロボットの話をテレビで取り上げていました。

私も、これからの対話の相手としては、

人を見かけで値踏みしないロボットと会話する方が、よほど気持ちが良いかも知れないと思ってしまいました。



真面目とか、誠心誠意とか、弱者への優しい眼差しとかに価値を認めない人たち、

というか、そんなことに関心持たない人たちが増えているような気がして、寒々とした気持ちになることがあります。


ま、これも、このブログタイトル通り「ひとりしずか」に自分が勝手に考えている内容に過ぎませんが・・・



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モンスター人間

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モンスター・ペアレントという言葉があります。

我が子の通う学校に、何かにつけて文句を並べてねじ込んで来る保護者を表現しています。

正当な申し入れなら真摯に対処しなければなりませんが、

そうしたモンスター・ペアレントの言い分には首を傾げざるを得ないような身勝手で理不尽な内容が多いそうです。



私は、定年後に再雇用で働いている職場での4年間、ある女性に悩まされ続けています。

その顛末については、こちらのブログや個人ホームページの日記に縷々書き綴ってきました。

あまりにも狡猾なやり口に対して、正面切って「止めてほしい」旨を伝えたりしましたが、

私が抗議すればするほど彼女の仕打ちはエスカレートするばかりでした。

まるで、私が不利な状況に追い込まれることを楽しむかのような彼女の行動には吐き気をもよおすほどです。



とうとう私はこの女性と必要以外は極力接触しないことにしました。

すると、彼女は、自分を被害者(無視される)だとして悪意の吹聴をますます拡散するようになっています。



私は、定年までの20数年、いわれのない差別的いじめを経験し続けてきましたが、

性根の捻じ曲がり方は、今回の女性が一番ひどいように思います。



こうした人間ってどうなの?と考え続けながらも、

ひょっとしたら私が悪いの?という自問自答を繰り返してきました。



今回 こんなブログ記事 に出会いました。

過去に、私の頭痛の種になった、こうした人間を説明するには、

このブログ記事をお借りするのが一番分かりやすいように思いましたのでリンクを貼らせていただきます。



私をターゲットにして楽しんでいた件の女性は、今年度の人事異動で出て行くことになりました。

彼女の頭の中では、自分はいじめられて出て行くという話が作り上げられているはずです。

異動した先では、周囲の同情をかい、自分の印象を良くするために、

自分を被害者に見立て誇張した作り話を声高に語ることでしょう。

過去30年間、異動する先々で私を待ち受け悩ませた私という人物像の悪印象は、

思うようにいじめられてくれなかった 私への腹いせとして、このようなモンスター人間によって拡散されていったのです。



最近は、本を読む人が減ったと言われていますが、読書することの意味は、

自分の体験できないような事象から学び、自身の信念や行動規範を確立する為に役立つという面があります。

無自覚なうちにモンスター化してしまわないように、自らのうちに「自分を映す鏡」を持ちたいものだと思います。


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「君子」の話

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「君子」・・・残念ながらこの文章は、(きみこ)という女性の艶っぽい話ではありません。

(高い官職にある人、徳行のそなわった人、品位の高い人)のことをいう(くんし)の話。




今朝のテレ朝「グッド!モーニング」で、

「いつやるか、今でしょ!」の林修先生が言葉解説のコーナーで「君子は豹変す」の言葉を解説していました。

「君子豹変す、小人は面を革(あらたむ)」 ←意味は、ここに解説してあります。



自分の間違いを自覚したら、即、過ちを改め行いをただすのが君子。

一方小人は、屁理屈こねて自分を正当化しようとしたり、表面上間違いを認めた風を装い、内心に逆恨みを抱いたりします。



★★★ ここから引用開始

「君子の過ちは日月の食の如し」

君子だって過ちは犯すことがあるが、すぐに軌道修正してもとの徳性にたちかえる。

「君子の三畏」

君子は天命と大人と聖人の言とをおそれること。


「君子の三楽」

君子のもつ三つの楽しみ。父母兄弟の無事なこと、天地に恥じるところのないこと、天下の英才を教育すること。


「君子の交わりは淡きこと水の如し」

君子が人に交わるのは淡泊で、交際が永続するにいう。


「君子は危うきに近寄らず」

君子は身を慎み守って危険を冒さずにこれを避ける。


「君子は器(き)ならず」

器物は各自一つの用に適するだけだが君子は一技一芸にすぐれるばかりでなく、どんな用にも融通が利く。


「君子は三端を避く」

君子は他との争いを好まないから、文士の筆端(文筆)と武士の鋒端(武器)と弁士の舌端(弁舌)とを避ける。


「君子は人の美を成す」

君子は他人に善事があるのを見れば、誘いすすめてこれを成就させる。


「君子は独(ひとり)を慎む」

君子は人の見ぬ所でもその行いを慎む。


「君子は豹変す」

君子のあやまちを改めて善にうつることのきわだっていちじるしいことにいう。

俗に、態度が急に悪く変わることに使われる。


「君子は交わり絶ゆとも悪声を出さず」

君子は交際が断絶しても決して相手の欠点を言いふらさない。

★★★ ここまで「新村出:編  広辞苑 第二版補訂版」 より引用 


君子に関しては、中国の古典に何度も記述が為されています。

もともと古来より日本の教養人が学んだのが中国古典だったので、日本人にもなじみの言葉が多くあります。


「辞書は必要に応じて引くものではなくて、あれは読み物ですよ」と言う人がいますが、

今更ながらその言葉に「なるほどなあ・・・」と気づかされます。



それにしても、このような素晴らしい先人たちを数多く輩出しながら、

現在のかの国のやっていることは・・・



ま、いろいろありますね。


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カズオ・イシグロ 原作の「私を離さないで」、テレビドラマが最終回だった。


主人公たちが子供時代を過ごした学苑の校長だった老女性と主人公の女性が海辺で再会する最終場面、

この物語のテーマの全てはそこに集約されている。

人は、何のために生まれ、どのように生きて終焉を迎えるのか。



まるで部品のように体を切り取られて他人に提供するためにだけ存在させられるという究極の生を生きる人間を設定して、

作者は「生きる」という意味を読者(ドラマ視聴者)に問いかける。



★★★

折しも、テレビニュースでは、日本の自殺者の統計数字が発表された。


「私を離さないで」・・・自殺した人たちは、寸前まで、心のどこかでそう叫んでいたに違いない。


死を目前に意識する状況に立たされた時、

人は誰しも「私を離さないで」と、誰に向けるともない言葉を思い浮かべそうな気がする。


しかし、人間は100%の確率で、いつかは肉体の終わりをむかえる。

しかも、その旅立ちは、必ず独り。

自分が死ぬ瞬間に、自分の心に寄り添うのは自分しかいない。



次第に社会から距離が離れる老齢になってみると、死は常時頭の片隅に住みついて離れない。

何をしていても、気が付くと自身の人生を振り返り、総括している。

「これで良かったのだろうか?」と疑問を抱く時期も過ぎ、もはや猶予のない時間帯に差し掛かっていることを意識せざるを得ない。


その一方で、自分の死など思い煩っても仕方のないこと、という想いも強くなってきた。

その時が来るまでは生きるしかないのだと、改めて自分に言い聞かせる。


広過ぎず狭過ぎず、大き過ぎもせず小さ過ぎもせず、あるがままに、

身の丈をわきまえてヒッソリと生き、その日を迎えたい。

★★★



原作のしっかりしたドラマは見応えがあり、さまざまなことを考えさせてくれるものだ。

自らの死生観を確立しておくことは、生と真剣に向き合うために必要なことだと思う。




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「あぶない一神教」読書中

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20160313abunai (299x350).jpg 「あぶない一神教」  橋爪大三郎 × 佐藤優  (小学館新書)



八百万の神に親しみ、何事もほどほどで白黒つけないままに事を進め、融通無碍(ゆうづうむげ)に暮らす、

そんな日本人は、時に、外国人から誤解される。

その反対に、日本人による外国文化や習慣への無知から生じる誤解もある。



そんな日本人に、解りやすく一神教の何たるかを解説してくれる一冊。



世界が、礼節と思いやりで動いている間は表面化しなかった違いが、

昨今の様に混沌として来ると、途端に、収拾のつかない危険なぶつかり合いへと発展する。



そして、おそらく、日本人はその中に於いて、最も呑気な国民だと言われても仕方がない。

それは、人々が暮らす国土が国境を持たない、故に他国との人的交流や衝突の機会が少ないことも大きな理由。


一神教の信仰者は、現在の世界人口の多数を占める。

彼らの思考や行動が何に依拠しているかを知らなくては、国際情勢の読み解きは難しい。



多神教というより、信心を意識せずに「八百万信仰」の伝統の中に暮らす日本人に、

一神教とは何かを解説してくれるこの書を、興味深く読書中。


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私は、こちらの記事 「怒りの矛先は保育園を増やさない行政なのか?」 に共感する。



時代は変わるし、生活様式も昔とは違うことは百も承知の上で、

それでもなお、せめて3歳前後までの子供は親に見守られて育つのが自然だと思うし、

親になった者は、自分が我が子を養育することが第一の前提で考えてほしい。



ゆとりある家計の為とかキャリアの中断が惜しいとか、

そういう親の事情や都合を優先して、肉親の見守りと養育が一番必要な乳幼児を第三者に預けるのは如何なものかと思う。

また、子育て経験者として、後で振り返ってみると、

乳幼児期というのは人間の一生で一番愛らしい時期であり、親の愛情と世話が一番必要な時期でもあるということを痛感している。

せっかく親になったのに、そんな子供の一番愛らしい時期を共に過ごす時間を削るのは、それこそ実にもったいない。



なんか違うと思うんですよ、最近の保育所問題の論点。



「3歳児までは自らの手で育てたい、だから、その間の生活が行き詰まらないような支援をしてください」と、

そうした発想は無いのだろうか?



↑ でリンクを貼った記事内容にもあるが、

まずは、男女どちらも外で働くこと前提の子育て論議が気になる。

過去、専業主婦の家事労働は労働ではないのか?という議論があった。

家事労働はけっこう大変だ。

しかも、いくら働いても、家事労働そのものへの評価や定まった報酬は無い。

「働く」とは外に出て給料を得る事、そこで評価されることこそ目指すべき大人の姿で、

家事労働は誰にでもできる取るに足りない仕事だと、女性たちが思い込んでしまったのではなかろうか?


そうでもないよ。

家事も育児も、時間の制限や評価基準の定めのない、けっこうきつい仕事だ。

しかし、その働きによって得られるのは、家族と自分の幸せという報酬であろう。

(その報酬は、目に見える形として手に取って確認することはできないが)



乳幼児期から我が子を他人の手に預けて、

家族と共に居る時間を削ってまで会社に勤務して得る報酬が幸せの基準なのか、

少ない家計をやりくりしながらでも、我が子の乳幼児期、密接に肌触れ合いながら、

親子共に人間として成長して行けることが幸せの基準なのか、


その辺りのことに関して、最近の保育園論議にはモヤモヤしていたが、

上記のブログ記事を読んで共感を覚えたので、私もここに意見を述べてみた。

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今朝のNHK TV 総合「サキ どり」では人工知能の話題を扱っていた。

研究はずい分進んでいるようで、約20年後には、約半数の仕事が人工知能に代替できるらしい。

人工知能の仕事には感情が介在しない分、仕事の進捗が標準化できそうだ。


人間が仕事に携わる場合、

怠ける人がいれば、その負担は周囲に被さってくるという不公平が生じ、

負担が大きくなった者の不満の拡大や仕事の進捗の遅れなどにつながる。

また、

人間には相性の良し悪しや自分有利にと考える損得勘定が働くことがあり、

悪化した人間関係の解きほぐしには、仕事以外のエネルギーを要する。


そのような、人間ならではのトラブルは、人工知能を使うことで避けられそうだ。



現在、自分が職場で困っているのがこの「人間の悪感情」ということもあり、

人工知能相手なら、余計な感情の介在無しに規定の仕事をこなせるのに・・・と考えてしまった。

人間は、さまざまな悪感情から周囲の足を引っ張ることもするからなあ・・・非生産的だ。



では、人工知能が、人間生活の半分以上を担ってくれるような時代が実現したら、

人間はいったい何を為し、どのように人間としての存在を保つのか?


先日の「にっぽんのジレンマ」という番組では、若い論客たちがこの問題にも触れていた。

これまで人間が担ってきた分野の殆どを人工知能に任せられるようになった暁には、

人間の存在意義・価値ってどうなるんでしょうね?ということに、誰もまだ確かな予測はできていない。



考えてみると、知識や技術や道具などの発達はめざましいものがあるけれど、

原始より変わらないのが人間の感情だと思われる。

とはいえ、この感情さえも、脳科学の研究が進んでいる最近では次第に解明されているようだが・・・

当面言えることは、道具に振り回されずに心身を充実させる術をどれだけ持ち合わせているかが、

人間としての存在感を喪失しないでいられる鍵になるような気がする。



それにしても、ゴールの無い人間社会の営みにおいて、

たかだか100年に満たない人生を生きる我々に何が最重要事項なのか、それが問題だ。

(って、これは既にシェークスピアの疑問でもあったわけだが)


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30数年の職場人生、ずっと理不尽な噂やいじめと闘いつづけて来た。

それは、最初に配置された職場で出会った(困った人物)との軋轢(あつれき)に端を発している。

間が悪いことに、その(困った人物)とは、管理職になり立ての女性上司だった。

非常に我がままで怠け者、自己中心的な思考で、傍の人間の感情には一切興味なし。


成長過程で、ずい分甘やかされて育ったのだろうと推察した。

彼女の生き方は、とにかく甘え上手。特に男性に対しての取り入り方は上手い。

その女性上司に目をつけられて流布された噂に尾ひれがついて現在に至っている。



なぜ私が、そうした状況にもかかわらず30数年耐えて仕事を続けられたのか?

それは、子供の頃から独りで思考し行動することに慣れていたからであり、

最大の要因は、二人の幼い子供たちの存在であったと言える。

(この子供たちを守るのは私しかいない)との強い意志が支えになった。


この仕事に就く直前に夫の病死があり、親も親戚も頼れぬ土地に永住の意思を固めたこともあり、

いわば、背水の陣でスタートした36歳からの再就職先であった。

そうした背景が無ければ、私はとっくに転職していたか、精神を病んで自ら命を捨てていたかもしれない。

まさに「母は強し」だったのである。


世の中には、過酷という試練と縁遠く人生を過ごす人がいる。

特に、高度経済成長期にそれなりの財を蓄えた両親の下で育った世代の脳天気さには、しばしば閉口させられる。

その年代が、現在、ちょうど社会の中心で重い責任を果たすべき管理職相当になっている。

今、経済的にも社会問題的にも外交的にも厳しい状況にある日本にあって、

学歴もそこそこ、職もあり給料もそこそこ手にしている彼らの「自分さえ良ければ」の思考・行動は、大いに議論されて良いと思う。



上記に指摘した年代からは大いに反発を受けそうだけれど、皆が皆そうでないことは勿論承知している。

では、一人一人の差異はどこから生じたのか?

それはやはり、両親の背中、家庭の在り方の影響が大きかったのだと思う。



日本は、先の大戦で多くの人材を失った。

国の将来を担うべき優秀かつ徳も備えた多くの人物が、戦場に散ってしまった。

その結果、縄文時代から脈々と培われ受け継がれてきた日本人社会特有の伝統文化の断裂が生じることになった。

戦後は、欧米の価値観が最良最優先となり、日本社会のモラルや精神は崩壊していったのだと思う。



現在放映されているある金融会社のテレビCMで、

「メールで告白、メールでプロポーズ、親御さんへの挨拶もメールで・・・」

「あかん気がする・・・」「ボクにはボクのやり方!」

という作品があり、これを目にする度に気になっている。


こんなことが普通に行われているのかも知れない、これからはもっとそうなるんだろう、と考えると脱力感を覚える。



何が良くて何が醜悪であるか、意識に登ることすら無い人間からの攻撃をかわすのは難しい。

理を尽くして話をしようとしても、受け入れない、または、理解の基になる共通理念が無いからだ。

まさに『理不尽』なのである。

一介の庶民である私には、こうした状況に暗澹たる想いを抱いても、どうすることもできない。

ささやかに、自分の身近な経験事項に関してだけは、誠実に対処することしかできない。


ただ、この年齢(64歳)になった私が確信できることは、

何があっても自分と自分の大切な人々の命と平穏は守る覚悟で生きることが肝要、ということである。

常にその覚悟を反芻しながら事に対処すれば、自ずと、最優先事項が見えてくるように思う。




『理不尽な行為』に固執する相手に理屈で立ち向かおうとしても駄目なのである。

その場合は、一旦、『理』を捨て去って、ひたすらその場から『逃げる』に限る。

『逃げる』とは、必ずしも物理的な環境を意味するものではなく、精神的・思考的な『逃げ』もある。



私の場合は、

職場では可能な限り、問題の女性に近付かないし、彼女を見ないように努めている。

そして、こうしてブログを書きながら、ああでもないこうでもないと振り返りをすることが、

やり切れない気持ちの逃げ場になっている



そうして距離も時間も置くうちに、何らかの状況変化のチャンスは必ずある。

だから、今が辛いからと言って、全てを投げ出すことはしなくて良いのである。


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