2015年11月アーカイブ

小春日和の一日

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宅配の品を届けてくれた配達の人が、

「今日は暖かくていいね。昨日と大違いだよ」

と喜色満面で言葉を残して行った。


外回りの仕事では、天候の良し悪しが業務意欲に微妙な影響を及ぼすのだろう。

まあ、品物を届けてもらうこちら側としても、笑顔で受け渡しが完了できるのは好ましいことだ。


先日やって来た別の会社の宅配人の仏頂面には、

まるで嫌な気分まで配達されたように感じたばかりだから。


昨日は少々風が吹き、気温の低さもあって、冬の到来を意識せざるを得なかった。



一夜明け、朝の室内は冷え冷えしていたものの、風はなく陽射しも高くなってきた午後には、

ガラス越しの陽だまりで読み物をしているとウツラウツラしてしまうほどの暖かさの今日。



【これをしなくてはいけない】という差し迫った用件が身の回りに無い一日。

幸せとは、こんな一日のことかもしれない。


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27日付朝日新聞「天声人語」で、

9月に亡くなっていた女優の原節子さんのことをとり上げていた。

その文章の冒頭に紹介されていた彼女の言葉が・・・


************** ここから引用

男性に対する辛辣な言葉を残している。

「男性は女を見るときには愛玩物ではないけれど、可愛いタイプの人が好きなんですね」。

自分は大柄だし、優しい目つきをしているつもりでも相手には怒られているように思われてしまう、と

▼言葉の主は9月に亡くなっていた女優の原節子さんである。

1957年に高名な学者と雑誌で対談した折の発言だ。当時37歳。


************** 引用おわり


社会という人間集団の中で、

自分の意見や人格を意識しつつ生きようとする女性は、

往々にして、こうした男性の視点や判断に悩まされる。


あの美しさと演技で名女優の地位を得た原節子さんにしてこの言葉。


女性が、一人の人間として全人格を尊重されながら生きることの困難の一端を表現している。


人間を組成するどの部分の作用が「男は上、女は下」という意識を生み出すのか?

それは長い歴史に培われた社会制度で擦り込まれた意識なのか?

それとも、何らかの脳内神経もしくはホルモンの作用によるものなのか?

科学的に考えようとすれば興味深いことと言えるが、

実生活ではしばしば厄介な男女の思考のずれではある。


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ひまつぶし手芸(座布団)

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手持ちの毛糸で座布団。


【左】 表

【中】 同じ編み図で編んだポットホルダーと大きさの比較

【右】 裏


サイズは少し小さめ。


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最近の風潮に関して漠然と感じている"嫌な感じ"は何だろうと考えてみる。

暗に周囲の配慮を要求するようなやり方には反発を覚える。

そこに「私は特別なのだ」という無自覚な押し付けを感じてしまうから。



「私が一番不幸だ」

「私は大切にされて当然だ」

「私は尊敬される価値がある」などなど。

全て「私」中心の世界に生きる人の発想。



この世界は、あなたを中心に動いているのではないのですよ。



存在するものは全て、どれ一つとってみても『特別』なんてありゃしない。

一つ一つの生命が、それぞれ置かれた場所と条件の中で必死に命をつないでいるだけ。

自分の為に他者の犠牲を強いることなど、当然な行為であるわけがない。

もしも、やむを得ず他者を犠牲にしなければならないのであるなら、

そこに(赦しを請う謙虚な心)と(感謝の念)が存在しなければ、

その存在のあり方は傲慢としか言えないだろう。


「思い」「思われ」てこその社会の平安か、と。


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↓ 前回の記事を書いた時は、本の返却日が迫っていて慌ててアップしたもの。

借り出し延長して最後まで読み終えて、

下記の記事よりもっと深いところまで理解が進んだので、改めて記事を書いておこう。


古来、日本人の名前には難読のものが多々あったのだが、

明治時代以前の難読名とキラキラネームの難読さとの決定的な違い、

それは、命名に使われた漢字が含有する意味への理解と知識の差。



この本の著者が抱いたキラキラネームへの違和感を解明して行くと、

明治以降何度も繰り返された「当用漢字」「常用漢字」などの国語施策に行きつく。

本来、中国伝来の(漢字)と(やまとことば)の融合で成り立つ日本語は、

世界に類を見ないハイブリッド言語であり、その言葉の森は奥深い。



詳しく説明するには、私の言葉が追い付かないので、

この文章を読んで興味を持たれた方があれば、ぜひともご一読を。




私自身の感想としては、

たかがキラキラネーム、されどキラキラネームということで、

このまま日本語を疎かに扱う風潮が続けば、

いずれ日本人の教養度は地に落ちて行くかもしれないという想いを強くした。

ほんとうに、「幼児から英語のシャワーを!」なんて言っている場合ではないのである。

英語を話せるようになる前に、日本語の森に深く分け入り学ぶのが先だろう。


国際的に通用する人間とは、自らのアイデンティティが確立されてこそ。

アイデンティティは言葉と共に育つものである。

外国の歴史の中で発展した外国語より、

まずは、自分が生まれた日本の言葉の奥深さを理解するのが先でしょう、

と強く共感した一冊であった。

この本、本当は、

これから子供に命名する機会のある若い人たちに読んでほしいと切に思う。


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主張することをためらわなくなった近年の風潮。

それはそれで「ご同慶の至り」なのだが、

何か違うような気もするこの頃。



そこに欠けていることは何か・・・と考えてみる。



早い話が「思いやり」であろう。


相手には相手の立場や、置かれた環境や状況があり、

主張する人の思うようにはなれないこともあるということ。



主張や要求が多くなった現代の風潮に足りないもの、

それは「我慢」か、はたまた「譲り合い」か?

その両方でしょうね。


自分の主張を通そうとすれば、

問題点に関する的確な判断と見通しを考えねばならないけれど、

そのあたりが不足しているように思う。


機械に思考を任せることができるようになって、

人間の思考は退化してしまっていはしないだろうか?


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20151115kiranemu (276x350).jpg 「キラキラネームの大研究」  伊東ひとみ:著  新潮社:発行


大した期待を抱かずに図書館にリクエストして読み始めた一冊。

いま流行の、奇妙な漢字をあてはめた名前を収集して面白がるくらいの内容かと思いきや、

意外や意外、これが日本語の成り立ちにまで話が及び、

途中からは、

これまで批判的に見てきたキラキラネームへの見方が変わりそうになっている。

気に入った表意の漢字を好きな音(おと)で読ませるという命名の仕方は、

何も現代に始まったことではなく、

古来の日本語が(大和言葉と中国伝来の漢字)を融合させた時から始まっているとの解説。


その例として、作者は歴史上の人物の名前を次々に例に引いている。


そう言えばそうだなあ、と今更ながら納得の解説。

歴史という時間の経過があったり、これはこう読むのだと世間一般に知られている名前は、

読み手の好きも嫌いも入り込む余地なく丸暗記するしかなかったのだもの。


キラキラネームという、

ともすれば現代の若者の軽はずみな行動として批判するだけに終わりそうな事象を、

日本語の歴史的な観点から掘り下げて学術的な理解に深めて行く論理展開の鮮やかさ。

これは、私のように固定観念に縛られた古臭い人間の頭を改造してくれる好書だった。


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20151106boketakant (314x350).jpg 「呆けたカントに『理性』はあるか」 大井 玄:著、 新潮社:発行


そもそもこの本は、認知症の患者に胃ろうの選択を問うた時、

果たして有効な答えが期待できるのか?という問いかけから話が始まる。


認知症を発症している患者は、責任あるまともな判断が難しいと思われている。

しかし、本当にそう決めつけて良いものだろうか?



胃ろうを施すということは、

口から食べるという楽しみを奪うことであり、

胃ろうを施してまで命長らえることを本人が望んでいるか否かの選択の問題でもある。

その判断を下すのは本人であるのが一番だけれど、

認知症患者の場合は、往々にして家族の判断にゆだねられ、家族は悩むことになる。



最初は、胃ろうという医学的な話に終始するのかと思いきや、

読み進むうちに「理性と情動」という、人間の思考や判断の話へと深まってきた。

デカルトやカントは、人は理性的な動物であると位置づけ、

他の動物とは一線を画する存在であり、他の動物には理性は無いとする。

しかし、作者は、デカルトやカントの定義に異を唱える世界中の学者の見解を引きながら、

人間を含む生物の「生きるための判断の根源」を解説している。



最近、ちょっと込み入った論理が展開される文章を読むのが苦手になっている私なので、

何度も前文に立ち返りながら読み進めているところ。



生存や快不快、好き嫌いなどを判断する能力を情動とし、

概念的な理屈・理論を考える能力を理性とした場合、

理性が先か情動が先かとなると、情動により理性もコントロールされるという。

したがって、

カントやデカルトが人間よりも下位に位置づけた動植物も、

生存に好ましい環境や自然状況を選んで命をつないでいることを見れば、

彼らにも情動によってコントロールされる「意志」が存在している。



などなど・・・・・・

この本を読むと、高学歴で高い地位や世間の評価を手中にしながら、

人はなぜ悪事や愚行を行うのかが見えてくるような気がする。



国内にとどまらず世界的にも混乱の極みと言える現代にあって、

人間の探究には、さまざまな意味で興味深い本だと思う。


そうそう、肝心の胃ろうの話、

認知症で、日常のコミュニケーションが難しい患者であっても、

「胃に穴を開けて栄養を入れても良いですか?」と問えば、

ほとんどの患者が顔をしかめて首を横に振るのだそうだ。


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