2015年4月アーカイブ

引き続き、民俗学者:宮本常一を追いかけている。

 

今、読んでいる本は「宮本常一・・・逸脱の民俗学者」 岩田重則:著  河出書房新社:発行。

 

まだ読み始めたばかりなのだが、いきなり、心に響く記述に出会った。

少し長くなるのだが、忘れないように引用しておこうと思う。

 

 

*********************************

ーーーーーー(省略)

このクロポトキンの受容を語った自伝『民俗学の旅』は、よく知られたしめくくりの文章で終わる。

進歩と退歩の意味について語った一節である。

 

「私は長い間歩きつづけて来た。そして多くの人にあい、多くのものを見て来た。

それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考え続けた一つは、

いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうかということであった。

すべてが進歩しているのであろうか。

停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。

失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。

進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、

時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと

思うことがある」

「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、

今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。

少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は

過去にくらべて著しく劣っているように思う。

物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い

【宮本 一九七八a:二三五 から 二三六頁】。

 

この部分は、岩波文庫版『忘れられた日本人』の網野善彦の「解説」の結論でもあり、

網野に「これはまさしくわれわれ、現代の人間につきつけられた課題そのものといってよい」

【網野 一九八四:三三四頁】

とさえいわしめている。

ーーーーーーーーーーーー(省略)

**********************************

(アンダーラインは、ブログ作者:露草が引く)

 

宮本常一は、引用されたこの自伝を71歳の時に書いている。

そして、彼は1981年に死去した。昭和56年のことである。

 

明治の末に生まれ、大正・昭和と生きぬき、

日本各地の(ごく普通に生きる庶民)の声を聞き歩いた人であった。

 

その宮本が、高度経済成長の日本が失いつつあるものを肌身で感じとって書いた一冊、

それが、自伝『民俗学の旅』となったのだろう。

 

 

学者の学者による学者の為の民俗学とは違う視点が感じられる。

 

地方再生、地方創世と、政府は旗振りしているようだけれど、

そんな今だからこそ、宮本常一の著書から学べることがありそうな気がしている。

 

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久しぶりの横浜・山下公園

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20150426baystars (350x263).jpg  横浜スタジアムに向かう人・人・人・・・・・

 

知人から、フラワーアレンジメントの発表会に誘われて横浜へ。

 

京浜東北線で関内の駅に降り立つと、

「お帰りの切符は、あらかじめお求めになってお出かけください」

「お帰りには大変な混雑が予想されます」

などという構内アナウンスが・・・・

 

これは何か催しがあるのだなという予想通り、本日は横浜ベイスターズの試合日らしい。

駅からゾロゾロと、関内駅すぐ傍のスタジアムに向かう大勢の人々。

ワーッ、帰りはゲーム終了に重ならない時間に帰らなくっちゃ!

 

20150426hikawamaru (350x263).jpg  今日のフラワーアレンジメントの発表会場は「氷川丸」船内

 

20150426arrangehana (350x263).jpg  船内のあちらこちらに豪華なアレンジメントが飾られていた

 

20150426akaikutsu (317x350).jpg  横浜・山下公園と言えば「赤い靴の女の子」

 

20150426hodotile (350x263).jpg  歩道には、お洒落なタイルが

 

楽しい一日だった。

 

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「夢を売る男」読了

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20150422yumewouru (325x350).jpg 「夢を売る男」 百田尚樹:著  太田出版:発行

 

 

新聞の書籍広告にあった「自分の書いたものを本にしたい人必読の書」

といった宣伝文句に興味を覚えて読み始めた一冊。

 

読み応えあり。

 

ブログ人口が増え続ける現代において、

いずれは自分の本を世に出したいという夢を抱く人は年々増加していることと思われる。

 

事実、(あなたの原稿を出版しませんか)という誘いの広告を頻繁に目にするようになった。

 

最近は、デジタル文化が定着してきて、アナログな紙の書籍で読書する人が減少したり、

本そのものをじっくり読む習慣も廃れてきて、出版業界は低迷しているらしい。

 

そんな中、インターネットを利用して無料ブログでの発信者は増加の一途。

ブログは、リアル社会での交流や語らいが減った分、

どこかで誰かに自分のことを知ってもらいたいという現代人の欲求に応えている。

 

そうした社会背景を踏まえたこの作品は、大変興味深い内容を表現していると思った。

 

人に夢を売って、その代償としてお金をせしめる内容が延々と続き、

最期はどういう展開で終わるのだろうと思いながら読み進めたのだが、

最後の最後に救いが用意されていた。

 

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大人の社会施設見学:最終日

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今日は、大人の社会施設見学の最終日。

都道府県会館 ⇒ 自民党本部 ⇒ 衆議院本会議傍聴 ⇒ 衆議院第二議員会館 ⇒ 憲政会館

行ってまいりました。

 

20150423chushoku (350x263).jpgまずは、都市センターホテルにて昼食

 

 

 

 

 

20150423tankokazari (350x263).jpg時節柄、ロビーには武者飾り

 

 

 

 

 

 

20150423gakumatsu (350x175).jpg  20150423gakutake (350x183).jpg  20150423gakuume (350x255).jpg

 

外国人日本画家の作品が、ホテルの壁に。三作品で「松・竹・梅」

 

20150423todoufuken (350x263).jpg  20150423kaikanboad (350x263).jpg  

 

都道府県会館の建物内で見上げた吹き抜け。

この建物に入居していない自治体は三県(広島・高知・大分だったかな?)

 

20150423jiminhonbugaku (350x239).jpg  20150423jiminhall (350x263).jpg    20150423sosaiisu (350x263).jpg

 

自民党本部の大会議場には、歴代総理の肖像画が壁にグルリと飾られていました。

現在、外遊中の総理の椅子。

 

この後、幸運なことに(普通は傍聴申込みに時間がかかる)、急きょ、

東京都練馬区選出のすがわら一秀議員のはからいで衆議院本会議を15分だけ傍聴できました。

 

その後、すがわら議員の議員会館内事務所を拝見させていただきました。

(お世話になったので、一応お名前を書かせていただきます)

 

 

20150423giinkaikankokkai (350x263).jpg  衆議院第二議員会館からは真正面に国会議事堂が見えました。

 

今回見学した自民党本部も国会議事堂も、建物内部は相当年季の入ったものでした。

国会のエレベーターは、レトロ感あふれる年代物です。

 

 

これで、一連の「永田町界隈  大人の社会施設見学と街歩き」は終了しました。

大変興味深いツアーに参加できて満足しています。

長年の念願だった、国会及び国会周辺の施設見学は有意義なものでした。

 

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「忘れられた日本人」読了

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20150421wasurerareta (350x272).jpg

 

久しぶりに一冊の本を最後まで読んだ。

 

名も無き古老の話を、日本各地に訪ね歩いて聞き書きした宮本常一の本。

 

 

識字率が低い時代には、生活全般の知恵や知識は口伝で記憶するしかなかった。

その当時の年寄りは、実に多くの物語が頭の中にしまい込まれていたようだ。

 

文字を書くことが一般的でなかった時代から教育の普及で誰もが読み書きできる時代へ、

そしてキーボードで打ち込めば、さまざまな知的活動が可能になった現在。

今や我々は、経験者から直に聞いて何かを知ったり覚えたりする必要がなくなった。

 

知らないことは即検索で何でも知ることができる。

でも、簡単に得た知識は、簡単に忘れ去ってしまうような気がする。

 また、ネット検索で情報を読んだだけで満足してしまっているような気もする。

 

何事も、自分でやってみなければ身に付く深度は浅くなる。

 

今や、かつての日本を語ることのできる年寄りは、社会からどんどん姿を消しつつある。

あるいは老齢による死であり、認知症その他の病であったり。

 

歴史に名を残すような特別な人物の話ではなく、

市井の名も無き一般日本人の話を、もっと聞いておいた方が良いのではないか?

そんなことを考えさせる一冊であった。

 

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金属製の栞

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2015419shiori (350x265).jpg

 

 

数年前

飛行機を待つ間に

羽田空港の売店(文房具店)で買い求めた

金属製の栞

レトロなステンドグラス様のデザイン

 

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ネットで情報発信して批判されるのが怖い?・・・ネットは誰が敵か味方を見分ける踏絵になる

 

かさこさんのブログには、共感を覚える記事が多い。

 

今日の記事は、過去、私がネットで経験して学んだことを、

そのまま歯に衣着せず代弁してくれたような内容だと、

深く共感した。

 

こんな人がネット上に存在していてくれることを心強く感じる。

 

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日本の精神科医療について

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昨日の朝日新聞「天声人語」で、精神科医療について取り上げられていた。

 

川崎市の聖マリアンナ医大病院の医師が、

自らは診察したことがない患者の症例リポートを提出していたという事件に触れてのことだ。

 

私も過去に、必要があってメンタルクリニックや精神科を利用した経験がある。

 

その経験を踏まえて言うと、

「天声人語」にあるような(パソコン画面を見つめたまま患者の話を聞く医師)は、いる。

自分の得にならない患者(またはその家族)の話には真剣に耳を傾けない医師も、いる。

また、

さまざまなメンタルサポートを掲げるNPO法人などは、

その組織や代表者の名声を高めることや儲けにつながらない相談者には冷淡であることも多かった。

 

行政機関の相談は、仕事だからやっている感があり、相談の甲斐が無いと思った。

 

 

メンタルの不調は表面的には見えづらく、理解されることは少ない。

理解してもらおうと説明すれば、思わぬ誤解を受けてしまう負の面が大きい。

 

つくづく、この国の精神医療は遅れているのだなあ・・・と思わされる出来事ばかりだった。

 

最近は、何でも「〇〇症」とか「〇〇障害」と名前をつけて病気にしてしまうけれど、

実際には、適切なカウンセリングを受けることで快方に向かう事例があるのではないかと思う。

 

または、単なる性格の偏り(それは悪いことではない)が誤解を受けて、

当事者の社会生活に困難をきたしている場合もあり得る。

それらを全て、受診したからといって薬治療にしてしまうのは如何なものか?

 

むかし見たアメリカ映画に出てくるような、

街中のビルの一室に設けられたごく普通のリビングルームのような部屋で、

ソファにくつろぎながら、まるで友人と語らうようにセラピストと語らえる場所があればいいな、と思う。

 

最初から構えて精神科を受診するのではなく、その前段階が欲しいと思う。

そこで、専門知識を持ったセラピストと話すことで、

今後の方向性(悩み解決法または医療機関受診の必要性)などを助言してもらえれば、

もしかしたら精神医療の範囲外かもしれなかった事例が救われるかもしれない。

 

日本人は本来情緒豊かな民族だと思うが、

その情緒が豊か過ぎるあまり、殺伐とした現代社会になじめずに悩みを抱える人もまた多いように感じる。

病的な精神の不調か、はたまた、過度な情緒不安定か、

それを見極めてくれる精神科医師がどれほどいるのだろうか?

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観ました。

 

第一印象を裏切らない第二話で、最後まで目が離せませんでした。

 

昔、TBSは(ドラマのTBS)と言われて、名作のドラマが多く制作されたと聞きますが、

今回の「アルジャーノンに花束を」も、なかなか良いドラマのような気がします。

 

****************

主人公のサクが友達と思っていた職場の同僚から、

「友達ってのはなあ、対等でなきゃいけないんだよ」という言葉を投げつけられて、

その言葉に傷つく。

 

この場合の「対等」は知的な理解度ということを暗に意味していると思うのですが、

徐々に話の核心に入って行くようですね。

 

そもそも人間どうしが相対する時、「対等」であるとはどういうことなのか?

何を判断の素材として人は相手を対等な人物と認定するのか?

人が個別に「対等」と判断したことが、普遍の「対等」に合致するのか?

 

この話の主題が、今回、提起されたと思います。

 

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今、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいます。

 

宮本常一は、各地の古老を訪ね歩き、聞き取り調査に徹したわけですが、

読み進むうちに、現代においては、宮本がとった手法の「聞き取り調査」に替わるものとして、

ブログは、後々の民俗学に有用な資料になり得るのではないか、という感じを抱き始めました。

 

これは、私が14年前からボツボツと更新しているHPの日記を読み返して感じたことが、

「忘れられた日本人」の内容と重なってみえたことから、そう思うわけです。

 

現時点で、インターネットには数多くのブログが存在するわけですが、

それぞれの個人的な日常が、即時性をもって綴られているものが多く、

これらを10年後20年後50年後100年後に読み返すと、

平成時代の一般市民生活から時代の様相が浮き彫りになるはずです。

 

その観点からすると、

この「にほんブログ村」のように、カテゴリー別に分類されているブログの集合サイトは、

とても重要な資料になるでしょうね。

 

歴史に名を残すような偉人や有名人に関しては、

誰かしらがその一代記や偉業を掘り起こして記述するでしょう。

 

しかし、そのように【特別な人物】ではない、

名も無き庶民の暮らしは誰も調べてはみないだろうし、

ましてや、記録に留めて後世に伝えるわけでもないでしょう。

 

でも、社会というのは、やはり庶民のものだと思います。

名も無き一人一人の庶民が、懸命に生きる日常の積み重ねが、

その国を形作って行くのだと思います。

 

そうか、ブロガーはある意味において「語り部」なんだ!

 

うーん、やはり民俗学は面白い。

 

そして、ブログの行く末も、ますます楽しみになってきました。

 

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最近、固定電話の呼び出し音が一度だけ鳴るということが度々あります。

 

今日は、2度鳴った所で受話器を取りました。

 

直後に「プープー」です。

相手が切ってしまったのです。

 

ネット検索したら、そういう事例がいくつか出てきました。

 

どこかで手に入れたか、ランダムに組み合わせた番号か知りませんが、

その番号が生きているか使われていないか確かめているのでしょうか?

 

私は日中、仕事で不在が多いので、固定電話を受けるということはありません。

 

でも、たまーに、「どこでこの番号を手に入れたの?」というような電話がかかってきます。

 

プライバシー、プライバシーと、最近やたらに言われていますが、

どこで個人情報が売られているか分かったもんじゃあありませんね。

 

クワバラ、クワバラ・・・

 

電話ひとつで儲けようなんて、そんな楽な金儲けしてんじゃねえよ!

 

と、一発怒鳴ってやりたいワ・タ・ク・シ、でしたのよ、オホホ。

 

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「忘れられた日本人」読書中

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宮本常一:著の「忘れられた日本人」を読み始めたばかりです。

仕事や家事など、諸々の日常生活の合間に読むので、遅々として進みません。

 

ただ、読み始めていきなり、懐かしい昔の農村の有様が、私の脳裏によみがえってきました。

(私は、農村生まれですので)

 

(昭和26年調査・・・)などの記述があるところをみると、

どうやら、私が生まれ育ったころに、宮本常一は聞き取り調査に歩いていたようです。

 

 

冒頭、対馬の調査で、村の寄り合いの話が出てくるのですが、

わずか数時間の会議で白黒結論を出すのではなく、何日もかけて、

立場の上下を超えて、村民が言いたいことを述べ合う。

その間には全く別の話も挟まれたり、途中でひと眠りする者あり、一旦帰宅して来る者ありで、

「あーでもない、こーでもない。そう言えばあの話はどうなった」など、

互いの経験話や持論展開などで行ったり来たりしつつの最終決定に至るという、

言うならば【直接民主主義】に近いような話が出てきます。

 

また、村の年寄り(宮本の表現によると60歳以上が年寄りとなっている)が、

村の揉め事や、困窮者の救済や、村民の悩みごと相談などに対して、

如何に大きな役割を果たしていたかについても述べられています。

 

 

まだ、読み始めたばかりの段階で、既に、「忘れられた日本人」という表題で、

宮本常一が、どのような日本を書き残そうとしたか、を予測することができるような気がします。

 

いま私は「日本人って、こうだったよなあ・・・」という記憶を呼び戻してくれそうな本を読んでいます。

 

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「アルジャーノンに花束を」について記事を作成しようとして、

そう言えば、HP内の「にっき」に関連した記事を載せたことがあるような気がして、

過去ログを遡ってみました。

 

私は、2001年にホームページ・ビルダーを使って個人HPを開設しました。

インターネットを利用し始めた当初には予想もしていなかった冒険でした。

 

個人HPを大勢の人に読んでもらうには、他人(ひと)の気を惹くコンテンツが必要条件と、

HP作成参考書やネット情報に書いてありましたが、

残念ながら、私にはそのような才能の持ち合わせが無く、

素材は、それまでにノートに書き溜めた詩や雑文などしかありませんでした。

 

現実生活においては、あまり人的交流をすることのない私は、

若いころから、想いの丈を文章に綴ります。

 

HPには、その時その時の想いを新しく綴る為に「にっき」を設けました。

 

さまざまな心の動きに合わせて、中断したり再開したりしながら14年の年月が過ぎました。

 

今回、アルジャーノン関連記事を探すために、久しぶりに過去の「にっき」を振り返ってみると、

個人とはいえ、それなりに社会の動きを反映した内容の一つ一つが懐かしくもあり、

今ではもう書けない内容かもしれないと思える文章もありで、感慨深いものがあります。

 

(十年ひと昔)と言います。

私がHPをネットに上げてからの14年というのは、それなりに、ひとつの歴史になったようです。

 

途中で止めてしまおうと、ネットから退いたこともありますが、

思い直して継続してきて良かったと、今では思っています。

 

多趣味と言おうか、飽きっぽいと言おうか、

あれこれ脈絡なく習い事や関心ごとに手を出してきた私ですが、

それらのいずれもが無駄ではなかったような気がします。

 

数多くのことに手を染めた(たとえ中断したにしても)ことは、

私の場合、結局、文章を綴ることに集約されているのだと気付いた次第です。

 

「継続は力なり」という言葉の本質を実感するということは、それなりの時間経過が必要であり、

個人の人生において、そう何度も経験できることではないでしょう。

私はその「継続は力なり」の意味を、14年続けてきた個人HPによって実感することができました。

 

 

世の中にインターネットが出始めた頃には、その役割に懐疑的であった私も、

今やインターネットは欠かせない生活をしています。

 

 

これから先、どれくらいの日々、ネットにアクセスすることができるでしょう?

今やそんな年齢になりました。

 

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スタートしてしばらくは、この頃お決まりのトレンディな話になりそうかと思いきや、

終わってみれば、次回を期待させる内容に仕上がっていた。

 

持たざる者が、ある日突然持ってしまったら、人生はどう展開して行くのか?

 

設定を現代の日本に置き換えて、原作の内包するテーマをどのように描いて行くのか、

これからが楽しみなテレビ・ドラマになりそう。

 

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「アルジャーノンに花束を」

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今夜10:00からTBSテレビで、

ダニエル・キイス原作の小説「アルジャーノンに花束を」がドラマとして放映されるようです。

 

私は20年近く前にこの本を読み、日本で舞台演劇されたものを鑑賞もしました。

 

とても印象深い作品です。

 

知的障害で日々周囲から邪魔者扱いや差別的処遇を受けながら、

邪な恨みつらみの感情を抱くことのない純粋無垢な一人の青年が、

先進的医療科学技術の実験的被験者になって、驚異的な頭脳を持つことになる。

 

その結果、青年が手に入れたのは・・・幸か不幸か。

 

そして、物語の結末は・・・

 

私は本を読んでいるので、結末は知っているわけですが、

さあ、日本のテレビドラマがこの作品をどのように仕上げるのか、

楽しみに視てみようと思います。

 

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宮本常一を知ろうと思う

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宮本常一(みやもとつねいち)は、分類から言うと民俗学者です。

ただ、彼は学問としての机上の民俗学ではなく、各地を訪ね歩いて、

自らの目で土地の状況を確かめ、地元民から聞き取りするという手法を貫きました。

 

【逸脱の民俗学者】と呼ばれる所以です。

 

彼は、私の郷里に近い周防大島の出身です。

 

数年前、親族の葬儀に参列するために帰省した折、

姉が「宮本常一記念館」に連れて行ってくれました。

 

その時、私は宮本常一が民俗学者であることは知っていましたが、

(NHKテレビで取り上げていた番組を視たから)

それ以上の知識は持ち合わせていませんでした。

 

あれから数年を経て、

つい最近の新聞書評欄で「忘れられた日本人」という本の紹介文に出会いました。

宮本常一の本です。

 

いつか読もう、いつか調べてみようと先延ばしにしてきたのですが、

この際、宮本常一に関する本を読んでみようと思い立ちました。

 

純粋学問としての民俗学ではなく、

生身(なまみ)の人間が如何に自然と折り合いをつけ社会を形成しつつ生きたのか、

それを、自ら全国飛び回りながら資料収集にあたり書籍にまとめた宮本常一の業績と足跡に興味があります。

 

彼の本を読むことは、

失われつつあるかに思われる、本来の日本を思い起こすきっかけになるかもしれません。

 

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続・親の賠償責任について

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今朝も、最高裁判所の判決に関してテレビの情報番組が取り上げている。

 

サッカーボールを蹴った少年(当時)にも、生涯にわたる衝撃だし、

亡くなった高齢者の家族にとっても、

あの一件が無ければもう少し長生きできたかもという感情が拭えないだろうし、

どちらの立場にも同情してしまう。

 

このニュースを耳にして感じたことが、もう一つある。

それは、高齢者がバイクに乗っていたことに関して。

 

私の義父はずい分高齢になるまでバイクに乗っていた。

 

娘や息子が「もうそろそろバイクに乗るのは止めにした方が良い」と忠告したにも拘わらずである。

義父は、山の上に住み、日常の外出には細い坂道を1時間近くかけて下らなければならなかった。

若いころから、歩くより、動力のついた乗り物で移動することを選択する傾向にあった義父は、

私が知る頃には既に歩行が怪しいくらいに足元が不如意であった。

 

そこで、尚更バイクでの移動に固執して、娘や息子の忠告には耳を貸さず、

「歩くよりもバイクのほうが楽なんじゃ」と抵抗していた。

 

でも、考えてみると、通常の歩行も覚束ない高齢者が、

重いバイク(ホンダカブ)に乗車中、予測できない状況に遭遇した時、

反射的な行動を素早くとれるだろうかと、私は内心疑問に思い危険にも感じていた。

(嫁の立場では口出しはできなかったが)

 

近年、高齢者の自動車免許返上問題がボチボチ話題に取り上げられている。

 

事実、路上で???な運転をする車の運転席を見ると高齢者という場面に遭遇することが増えた。

 

今回知った、(サッカーボールが高齢者のバイクにあたり・・・)という一件は、

私に、そんな過去の記憶も呼び起こした。

 

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11年前、小学校6年生の男児が蹴ったサッカーボールが道路に飛び出し、

ちょうどバイクで通りかかった80余歳の男性がそのボールを避ける為に転倒し、

その後入院、そして1年半後に肺炎で亡くなったという事例に、

最高裁の判決が出た。

 

少年は、ゴールに向かってシュートするという通常の動作をしたのであり、

バイクの男性に向かって、何らの悪意を含む故意はなかったと察せられる。

 

バイクで通りかかって転倒した高齢男性の不運には同情の意を禁じ得ないが、

これはあくまで偶然の事故と考えるのが妥当だと思える。

 

 

それを踏まえたうえで、

サッカーとは、ゴールポストに向かってボールを思い切り蹴ることが了解のゲームであり、

道路に面した校庭の端にその目標地点を置くことは、

的を外したボールが道路に飛び出すのは予測できるのだから、

道路に背を向けたゴールポストではなく、道路に平行に置く場所を選択できなかったのだろうか?

または、この事故を受けて、ゴールポストの背後にネットなどを張る措置はとられたのだろうか?

 

そんなことが気になった。

 

 

でありながら、やはり、これは不運な偶然の事故であり、

その男児や親に賠償の責任を要求するという行為には違和感を覚える。

 

 

一審・二審では、親の賠償責任を認めたようだが、

今回、最高裁はそれを覆して、親の賠償責任を問えないと判決したようだ。

 

 

アメリカは賠償社会だと耳にするようになってからこちら、日本でも、

何があってもこちらから先に謝罪はしないとか、

他者が関わる事故が発生すると多くの場合、

賠償問題に発展するという風潮が広まったように感じる。

 

 

難しい、法的な解釈や判断は私にはできないが、

最近の賠償問題に関わるニュースに接する時、

「こんな事例も高額賠償の対象事例になるのか・・・」と驚くことが多くなった。

 

世の中変わったなあ・・・・・・と、つくづく思う。

 

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英語を喋りたいと思う前に

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一時期ほどではないにしても、相変わらず語学学習への関心は高いと思う。

 

教育現場でも、今や日本全国どこの小中学校にも ALT が派遣されるようになった。

果たして、 ALT 配置の成果はあがっているのか?疑問だ。

にもかかわらず、それなりの報酬を払って、

日本に来ている英語をしゃべる外国人を雇っている。

彼らの教育技術はどれほどのものか知りたいものだ。

 

「わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?」

↑ こういうブログを見つけた。

 

このブログを読むちょっと前に見つけた別のブログでは、

「日本人が英語をしゃべれないのは、英語の文章を組み立てられないからでも

発音が悪いからでもなく、話す内容を持たないからである」

とあった。

 

私は特別英語が堪能なわけではない。

だから、専門的な英語論を展開できる能力は持っていない。

ただ、日本人の英語に関する片思いのような感情に大きな違和感を感じるのである。

 

上記の「わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?」のブログにも名前が挙げられている

中津燎子さんの著書は、私も二十数年前に読んで「そうだ、そうだ」と思ったことがある。

 

ここで英語論を展開するほどの力は持ち合わせていない私だけれど、

あえて言わせてもらうなら、

どうしても外国人に話したいことや語れる内容を持つことの方が先決のように思う。

 

言語は、あくまで コミュニケーション の道具であり、

この道具を使うには、

その中に詰め込む素材(想い・知識・教養)が必要であることを忘れてはならない。

 

この場合の(想い・知識・教養)は、インターネットの検索で即時に手に入るものとは違う。

 

お手軽な英会話の学習に時間を費やすより、

さまざまな分野へ好奇心のアンテナを張り巡らして、

コミュニケーションの素材をどんどん蓄積することのほうが有益ではなかろうか?

 

そうすれば、外国人との会話も、たどたどしい英語でも弾むだろうし、

そんな機会が無くても、まずは日本人同士での会話も豊かになろうものを。

 

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こんなブログ記事を読んだ。

「高齢者にテレビを観てもらう必要がない理由」

 

なーるほど、そうだったのか。

 

最近、民放のテレビ番組がちっとも面白くないと思ったら、

高齢者対象ではお金にならないから・・・そういうことだろ♪ジャン♪

 

このごろ、私が関心を持ち、穏やかに視聴できる番組の大半がNHK。

 

昔、父がNHKばかり観ていて、あんな退屈な番組をよく観るよとバカにしていたけれど、

今ではすっかり私もNHKの視聴者。それもEテレが好き。

 

スポンサーの商品への利益誘導をしなくても良いから、

視聴者を選ばない内容の番組制作ができるNHK。

 

妙に納得してしまった。

 

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国会の議場に花はいらない

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このところ立て続けに女性国会議員の不祥事が報じられている。

 

やり玉に上がった女性議員はいずれも、バッチリメイクに巻髪で、色美しいスーツ姿。

議員がお洒落をしてはいけないとは言わない。

ただ、個人的な感想を勝手に述べさせてもらうなら、

服装にも表情にも、知性・教養・議員という職業の自覚などのピリッとするような印象が見られない。

この服装や化粧は誰の目を意識しているの?と訊きたくなることが多い。

 

昔、女性社員が「職場の花」だと言われた時期があった。

男性優位の職場にあって、優しく甲斐甲斐しく男性社員のフォローをしてくれる女性、

そんな位置づけとして女性が配置されていることが多かった時代の言葉。

 

そんな中で、どんな女性が「花」と呼ばれるかは、男性(特にオジサマ年齢)次第。

まさに、男尊女卑社会の発想。

 

 

近年、政府は「女性の活躍できる社会の実現」と煽っているが、その真意はいずこに?

 

そもそも、あえて「女性の・・・」と謳わなければならない社会なんて、

女性が一人の人格を有する人間として尊重されていない社会である、とはよく言われることだ。

 

 

よく聞く話だが、

喧嘩するカップルや夫婦の間で、女性が、

「私も、自分の考えを持つ一人の人間なの!わかってる?」と言うと、

男性は、

「当たり前じゃないか!犬とも猿とも思ってないヨ、君は人間だヨ」と答えるという、

男女間にあるあるの会話。

 

それだけ男女間には発想のズレが大きいということの象徴かもしれない。

 

 

さて、女性国会議員の話に戻って。

 

近年、男女問わず、選挙立候補者の中に選びたい対象がいなくて困る選挙が増えた。

 

かつては、

長年、政治家としての活動に実績がある人物なら、その人を、

長年、地道に筋を通して政治活動を続けている政党で、自分の考えと近いのであればその政党に、

それぞれ判断の手がかりはあったような気がする。

 

しかし、近年は、

人数合わせの為に立候補者を公募する政党が多くなり、

それまで政治など関心外であった人物であっても、まんまと当選してしまう事態が増えている。

 

もちろん、お金なくして選挙を戦うことは無理なので、政党による公募応募者の人選が行われ、

そこに上手くアピールして滑り込んだ新人が立候補のチャンスを掴むのだろう。

 

問題はそこ!その人選をする政党の重鎮か何か知らないけれど、選ぶ権利を行使する人たち。

もし、それがオジサン目線での人選であったなら、

まあ、多くの常識人が予想する通りの人物が選ばれるでしょうね。

 

若い男なら【元気よく・威勢よく演説打てる人】

女性なら【見た目重視、有権者に対して可愛げや素直そうな元気をアピールできる】

要するに、有権者の目をくらまして、大量得票できればそれでいいという人選。

(あとは野となれ山となれ)的な人選としか思えない、その人物たちの当選後のアレコレ。

 

ところで、最近「きれいすぎる〇〇」って言うけれど、

大抵の場合、〇〇に入る職業に容姿端麗は関係ないことがほとんどで、

「きれい過ぎるからって、それがナニ!」「第一、言われるほど綺麗じゃないし」

と、思わず突っ込みたくなるが、バカバカしいので無視。

 

国会議員に若者が増えたら、

同年輩の異性議員に求めることの中に「きれい・可愛い・美男子」が大きな位置を占めるだろうか?

 

最近の女性議員の浅はかな言動や身なりを見ていると、

「自分ってなーんにも知らないし、やる気もないし、でも国会議員は美味しいから辞めたくないし、

おじさん議員に目の保養させて、可愛がって庇ってもらうためにも、

ちょっと若づくりに洒落倒した女でいたほうがイインジャネ?」的な、品の無い軽い人柄しか伝わってこない。

 

 

大した働きをしなくてもガッポリ議員報酬は手に入るし、

重要な委員会も遅刻や欠席して平気なほどの面の皮の厚さもある。

塗りたくる化粧品は、さぞお高い物でしょう。

塗りたくるお時間も化粧品の量も、さぞやタップリお使いになるのでしょう。

 

それだけのバッチリ・メイクをする時間を惜しんで、お勉強しなさい、お勉強を!

 

要らぬ情報ですが、今や世界のロイヤル・ファッションは、

いかに庶民的なファスト・ファッションを品よく着こなすかの傾向にあるようですよ。

 

どこかのブランド・スーツにうつつを抜かすより、

被災地山形の繊維業者の糸で作ったカーディガンを着用したり、、

国内産の野菜や果物などを、自ら料理して食してみての感想を発信したりと、

議員に選んでくれた有権者の為にできることは多々あるでしょうに。

 

 

国会の議場の椅子に座るだけの「あだ花」は要りません!!

 

総国産の建築資材で、誇りをもって重厚に建築された議場には、

自らの立場をわきまえて、任務に専念する使命感溢れる地道な人間が一番必要なのです。

 

男も女も、最近、議員と名のつく職についた人で「この人は!」と思わせてくれる人、見たことないわ。

 

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もう散ってしまうのか・・・

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今日は強い南風

ハラハラと桜の花びらが風に流される

 

もう散ってしまうのか・・・

微かに湧き上がる惜別の情

 

去年今年 変わらぬ花の様なれど 散りゆく今日の侘しさぞ今  (露草)

 

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映画「滝を見にいく」を観た。

 

秘境の滝を見るツアーに参加した40代―70代のおばちゃん7人の話。

 

最初のシーンは、見知らぬ同士がたまたま同じツアーに参加した時に見られるツアー仲間の雰囲気。

それが、道に迷って一夜をサバイバルする過程で、より親密な間柄に変化していく。

 

山の中で道に迷ったのだから、

これが現実であれば深刻な状況なのだけれど、

そこは映画、一行の行動はなんともほのぼのと話が進展して行く。

 

でも、映画を観ながら思った、本来女性って、こうよね・・・と。

どんなにつらい厳しい状況にあっても、冗談言い合ってケラケラと笑ったり、

自然素材を見つけるとリースを作って気を紛らわしたり、

小さなことに喜びを見つけられる才能って、女性の良いところかも。

 

40代から60代の女性たちが、大縄で縄跳びするシーンが良かった。

 

7人の女性が、それぞれの個性を発揮しながらも、和気藹々と助け合う。

年齢をおばちゃん世代にしていることで、

人生のアレコレが役者さん一人一人の動きや表情に醸しだされて、

あたかも、私もそのツアーに参加しているかのような気持ちを味わった。

(これは、私がかつて山登りツアーにちょくちょく参加していたから、かも知れないが)

 

すごーく、ゆったりとした時間を持てた。

 

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役員決めの困難(PTA)

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今朝、羽鳥慎一さん司会の朝の情報番組(モーニング・バード)でPTA役員決め問題を扱っていました。

 

私にとっては、既に遥か昔々のことになってしまいましたが、

いまだに、と言うより、昔よりももっと「引き受け手の無い」問題が深刻化しているという感想でした。

 

我が子が学齢期のころも、やはり、PTA役員の選出は難しい問題でした。

 

入学式が終わったら、そのまま保護者を引き留めて役員の選出という方法がとられるようになったのは、

我が子が学齢途中のころだったような・・・

 

聞くところによると、入学式はほとんどの保護者が学校に姿を見せるけれど、

その後の参観日などでは出席する保護者の数がグッと減るので、

役員選出に関して様々なトラブルがある為の苦肉の策だとか。

 

 

私は、あのダンマリの時間が耐えられなくて、

「じゃあ、私が手を挙げてしまいましょう」と、毎年何らかの役員を引き受けてきました。

 

振り返ってみると、

学校のPTA役員を積極的に引き受けたお蔭で身に付けたことが多くありました

 

何事にも積極的になれたこと。

常に問題意識を持ち、社会への関心を深められたこと。

人をまとめることの難しさを知ることで、社会集団の中での振る舞い方を学んだこと。

などなど・・・・・・

 

毎年役員を引き受けていると、

「あの人ね、目立つことが好きなのよ」とか「偉そうに・・・」とか、

必ずそうした類の見方や陰口をする人たちが出てきます。

 

じゃあ、そうした噂を立てる人たちが積極的に役員協力するかというと、

そんな人たちに限って非協力的で、何かの折にイチャモンだけはしっかり付けて決定の妨げをしがちです。

 

 

まあ、どちらの人間が良いか悪いか、私には分かりませんが、

大人になると、兎角忘れがちな「学習」と「成長」を経験できて、

尚且つ、子供の学校を身近に感じられる機会を自ら放棄してしまうのは、

本当にもったいないことだと、私は思います。

 

 

怠惰や責任逃れが理由で多くの人が避けようとすることを、

敢えて引き受けることで見えてくる世界というのは、

通常の誰でもがやりたがるアレコレには無い貴重なことを含んでいることが多いです。

 

とにかく、「やってみなくちゃ分からない」世界なので、

(人を束ねる)とか(人の為に自らの力を提供する)という行動に対して後ろ向きにならないで欲しいなあ、

そんなことを考えました。

 

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