映画「ハンナ・アーレント」

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2月22日(土)、TKPシアターにて映画「ハンナ・アーレント」 http://www.cetera.co.jp/h_arendt/  を鑑賞。

上映初日であったせいか、多くの人が館内に。

その殆どはシニア世代。

 

以前、岩波ホールで鑑賞した「ローザ・ルクセンブルク」の衝撃は忘れ難く、

今回の「ハンナ・アーレント」も、女性哲学者としての彼女の生き方に深い関心を抱いての鑑賞。

 

ナチスの一員として多くのユダヤ人を強制収容所に送ったアイヒマンがイスラエルで裁判にかけられた。

その裁判を傍聴して執筆したハンナのコラムが議論を呼ぶ。

 

ナチスの親衛隊一隊員としての任務を忠実に果たしただけと言えるアイヒマンにどのような罪を問うのか?

アイヒマンの供述を聴きながらハンナが抱いた疑問。

ホロコーストの残虐性は否定できない事実でありながら、そのことの根源的な原因をアイヒマンに追及できるのか?

彼は組織の歯車の一枚として命じられた任務を為したに過ぎない。

それも優秀な歯車であったわけだ。

 

ごく普通の人が、組織の方針に従って、疑いもなく命じられた任務を遂行した結果が大きな犠牲を生むことがある。

こうした行為をハンナは「悪の凡庸さ」と名付ける。

 

結果的には人類の汚点となるような残虐な行為に加担するのは必ずしも残虐な人間ではないことをハンナは言いたかった。

これは、ナチスのホロコーストの場合に限ったことではなさそうだ。

あれほどの巨悪ではないにしても、組織に所属した人間は誰でもがそうなる可能性を秘めていると言える。

 

だから、ハンナは何度も訴える「思考し続けるのです」と。

思考し続けることで、何が善で何が悪かを見極めることが求められるのだと。

 

哲学するということは、一見何も生産しないように見えるが、こうした目に見えぬ精神的な価値を創造するということだと思う。

人々が心に哲学という天秤を持ち、一方の皿に『善』を、反対の皿に『悪』を置いて絶えず思考し続けるなら・・・

 

いま、時代は繰り返そうとしているのか?

ハンナなら今の時代をどう考えるだろうか。

 

 

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このページは、tsuyuが2014年2月22日 11:25に書いたブログ記事です。

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