2014年2月アーカイブ

まず、本を破るという行為は、読書を楽しみにしている者としては赦しがたいことである。

 

私は、幼少期に「新聞や本を踏みつけるものではない」と教えられた。

今あえてその教えに理屈をつけるとすれば、

(多くの人々の経験や研究や取材などの労力の賜物)としての印刷物は、

単なる紙類ではなく、人間の知的精神的成長の一助となり得る貴重な存在として敬意を抱け、

ということだと言える。

その敬意は、本を著した人やその内容に取り上げられた人へ向けられるものだと思う。

無形のことやものであっても万物に魂宿ると考えるこの国の美しい文化の顕れ。

 

現在ニュースで報じられているアンネ・フランク関連本などの被害に関しては、

器物損壊という物理的犯罪以外の思想的な意思が反映されていそうなことが重要な捜査対象になる所以。

 

何冊の本を損壊しようと、アンネ・フランクという無辜の少女が犯罪的思想の犠牲になった事実は消せない。

もしその事実の解釈に異論があるなら、自ら書を著すなりインターネット発信して自らの思想を世に問うなりすれば良い。

ただしその場合は、匿名ではなく、実名や顔を世に公表して堂々と行うべきである。

卑怯な行いは許されない。

 

何とも腹立たしく赦しがたい犯行は未だ解決されない。

一日も早く犯人が捕まって、その実態が解明されますように。

 

書籍「嫌われる勇気」

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今、私が一番気になっている本は「嫌われる勇気」 岸見一郎・古賀史健:著、ダイヤモンド社:発行

 

出版社とは、なんとタイトルネーミングが上手いのだろう。

まあ、専門家の集まりだからねえ。

そう思いつつも、実は私はこのタイトルにすっかり心を鷲づかみされてしまった。

 

扱っている内容は、岸見一郎氏が長年研究しているアドラーの心理学だという。

 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38501

↑ ここに著者の話が対談形式で載っている。

 

一冊¥1,575のハードカバー本を買うべきか買わざるべきか、それが問題だ・・・と悩んでいたが、

考えあぐねた末に図書館に予約した。

まだ蔵書数が少ないらしくて、私の前に13名の予約者が。

手に取って読めるまでには時間がかかりそうだ。

それまで、インターネットで周辺情報の拾い読みをしておこう。

「一億総ヤンキー化」

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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37682

↑ この記事を読んだ。

私が最近しばしば感じる違和感や嫌悪感を説明してくれているように思った。

 

そう、昔から「一億総〇〇」という言われ方を耳にしてきた。

集団になびきやすい日本人の特性が「一億総〇〇」という表現を容易にする。

私が初めてこの表現に触れたのは、ジャーナリストの大宅壮一さんの「一億総白痴化」。

テレビ文化への批判警鐘としての言葉。

 

時が少し下ってからは「一億総中流」。

右肩上がりの経済成長で、国民の殆どがそれなりに豊かに暮らせていた時代。

 

そしてこの度私が出会った「一億総ヤンキー化」。

 

先の大戦以降、なるべくしてなった社会変化と言うべきか。

弛(たゆ)み無い思考の習慣を放棄しても食べて遊べる時代を謳歌したツケなのかもしれない。

 

さあて・・・時の流れと多勢(たぜい)の勢いはとどめようなく過ぎ行き広がるけれど、

その中で生きるにはどのような心構えが求められるのか?

中高年の観客が多いという「ハンナ・アーレント」の解釈について、

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37699

↑ ここに分かりやすく詳しい分析の文章がありました。

 

(思考を停止してマニュアル通りに動くだけの "平凡な人間" )について、

解り易く述べてあります。

そして、多くの中高年を集客する理由ではないかという根拠への言及も。

 

「人間は考える葦である」という有名なパスカルの言葉もあります。

単なる動物として考えた場合の人間は物理的な力は弱い存在であるけれど、

そこに思考(考える)能力が備わったことで地球生命体の中でも際立った位置についた。

それは人間が常に意識し続けなくてはならない能力である。

思考する内容以前に、自分が思考する動物であることの自覚を放棄してしまうなら、

もはやその人は人間の域から逸脱しかけているということ。

 

そんな問題点を心の内奥から引っ張り出してくれる作品、それが「ハンナ・アーレント」なのです。

 

 

↑ のサイトで知りましたが、この作品は昨年暮れに岩波ホールで上映されたのですね。

昨年、柏市のTKPシアターに「岩波ホールで上映される映画をこちらでも上映してください」とお願いしました。

その時には「映画の配信にはいろいろな経路がありますので、でも、考えておきましょう」との返事でした。

これで今後は、東京まで出かけなくても岩波ホールと同じ映画が観られると喜んでいます。

感動の共有とは?

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ソチ・オリンピックも終盤。

メダル獲得の有り無しにかかわらず、一流選手の競技にはさまざまな感動エピソードがあったようだ。

毎日、どのメディアでも、同じようなエピソードに少しだけ演出や構成を変えながら流している。

 

近頃は、メディアの報道をそのまま鵜呑みにしては判断を誤ることがあることが知られてきた。

ドキュメンタリーと銘打ちながらも、そこには演出があることも、視聴者の知るところとなっている。

 

メディアの演出の問題はさておき、感動的な場面に遭遇して心を動かされる条件とは?

やはり、その場面を受け止めるこちら側の個人個人の経験と思考の積み重ねが大きい。

辛いことを乗り越えたことがある。

口惜しいことに耐えた日がある。

耐えて過ごした 日々の末に笑える日が訪れたことがある。

などなど・・・

 

喜怒哀楽、艱難辛苦、すべてを真正面から受け止めて立ち向かい心を育てた人たちの間にこそ響くもの、

それが「感動」なのだとすると、これから成長する子どもたちには多くの経験を積み重ねてほしいと願わずにはいられない。

 

温かい共感の輪が深く広く伝わるような世の中でありますように。

映画「ハンナ・アーレント」

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2月22日(土)、TKPシアターにて映画「ハンナ・アーレント」 http://www.cetera.co.jp/h_arendt/  を鑑賞。

上映初日であったせいか、多くの人が館内に。

その殆どはシニア世代。

 

以前、岩波ホールで鑑賞した「ローザ・ルクセンブルク」の衝撃は忘れ難く、

今回の「ハンナ・アーレント」も、女性哲学者としての彼女の生き方に深い関心を抱いての鑑賞。

 

ナチスの一員として多くのユダヤ人を強制収容所に送ったアイヒマンがイスラエルで裁判にかけられた。

その裁判を傍聴して執筆したハンナのコラムが議論を呼ぶ。

 

ナチスの親衛隊一隊員としての任務を忠実に果たしただけと言えるアイヒマンにどのような罪を問うのか?

アイヒマンの供述を聴きながらハンナが抱いた疑問。

ホロコーストの残虐性は否定できない事実でありながら、そのことの根源的な原因をアイヒマンに追及できるのか?

彼は組織の歯車の一枚として命じられた任務を為したに過ぎない。

それも優秀な歯車であったわけだ。

 

ごく普通の人が、組織の方針に従って、疑いもなく命じられた任務を遂行した結果が大きな犠牲を生むことがある。

こうした行為をハンナは「悪の凡庸さ」と名付ける。

 

結果的には人類の汚点となるような残虐な行為に加担するのは必ずしも残虐な人間ではないことをハンナは言いたかった。

これは、ナチスのホロコーストの場合に限ったことではなさそうだ。

あれほどの巨悪ではないにしても、組織に所属した人間は誰でもがそうなる可能性を秘めていると言える。

 

だから、ハンナは何度も訴える「思考し続けるのです」と。

思考し続けることで、何が善で何が悪かを見極めることが求められるのだと。

 

哲学するということは、一見何も生産しないように見えるが、こうした目に見えぬ精神的な価値を創造するということだと思う。

人々が心に哲学という天秤を持ち、一方の皿に『善』を、反対の皿に『悪』を置いて絶えず思考し続けるなら・・・

 

いま、時代は繰り返そうとしているのか?

ハンナなら今の時代をどう考えるだろうか。

 

 

再び、センター試験について

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朝日新聞「天声人語」で、センター試験の国語に関して触れていた。

同日の解説欄では、塾講師の解説も掲載されていた。

 

その中で、今年の国語の問題として源氏物語が出題されていたことが低い平均点の一因であろうとあった。

以前は、小林秀雄の難解な評論文からの出題で成績が悪かったこともあった、とも。

この点に関して、出題内容について丸谷才一氏が異論を唱えていたことも書いてあった。

 

なるほど、なるほど、これは入試問題を作った人たちの方に問題がありそうだ。

また、解答時間の短さも平均点を下げる要因だと、塾の講師の解説にあった。

 

 

大学入試の平均点数だけが日本人の言語能力を測る物差しになるとは思っていないが、

義務教育で培われた成果を推測する材料の一つではあろう。

 

思考は言語なしには成立し得ない。

だから、どのような言語をどのように使うかは人格形成に大きく影響すると思う。

それだけに、言葉を大切にすることは大事なのだ。

 

私のような浅学な人間が偉そうに語ることの許される話題ではないと知りつつも、

最近あちらこちらで経験する「同じ日本人なのに話が通じない」経験を重ねてみると、

こんなことも言ってみたくなるのだ。

つい先ごろ、 ↓ に「今でしょ!」の林修先生の言葉を引き合いに出して意見をアップした。

数日前、新聞に(大学入試センター試験の平均点)の記事があったので、

再びそのことに関して私の感想を載せてみたい。

 

教科(配点)

国  語  (200点)     国 語        98.67

 

 

外国語筆記(200点)     英 語       118.87

                  ドイツ語      155.36

                  フランス語     155.71

                  中国語       148.09

                  韓国語       144.82

 

同じ200点配点で、外国語の取得平均点の方が高い。

本来なら、国語も同等の点数もしくは外国語より高い平均点数が取れてしかるべきではないだろうか。

日常使用している母国語で出題された問題の方が易しく理解されるのが当然ではないか。

私はそう思うのだけれど、現実はそうではないらしいのだ。

 

入試のあり方か、基礎教育のあり方か、何かがおかしいのだと思う。

 

生産を手放した国は衰退する

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もうずーーっと昔(20年くらい前)読んだ本に「生産を手放した国は衰退する」と書いてあった。

社会・経済に関する問題を扱った内容の本だった。

残念ながら著者や本のタイトルは失念してしまったのだけれど、この言葉だけは頭に残っている。

 

当時は、韓国製の衣類が多く店頭に並び、白物家電の市場が韓国に脅かされ始めた頃だった。

その後は、人件費が安いからと、日本企業は(猫も杓子)も中国に生産部門を移し始めた。

結果、今では、何でもかんでも中国製になってしまっている。

そして直近では、商品タグに東南アジアや他の新興の国名が増えている。

 

日本製を探すのは、ひと苦労だ。

 

このごろは、買い物をする際に、店の棚で商品タグの製造地を確認することが習慣になった。

商品の購入時は、少し高くても日本製を買うようにしている(それも本当はどこまで国産か怪しいが)。

あれば良いかな・・・ほどの品物だったら、日本製が無い場合は買い控えるようになった。

 

一時期、中国産のネギが店頭に並んでいたのには驚いて、大いに警戒して手を出すことはしなかった。

私はネギの産地で暮らしているのでネギの良し悪しにはうるさい。

生鮮品のネギが遠隔地から運ばれて来ること自体に無理があると、素人ながら疑ったものだ。

 

国内で生産される物が次々に姿を消していく状況を寂しく思いながら、

やむを得ず店にある物を買わざるを得ない暮らしをしている。

 

「生産を手放した国は衰退する」

このごろ頻繁にこの言葉が私の頭に浮かんで来る。

 

何とか生産を国内に取り戻せないものだろうか。

 

 

 

映画「日本の悲劇」

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http://www.u-picc.com/nippon-no-higeki/index.html  ←「日本の悲劇」公式ページ

 

タイトルをサッと見たときには鑑賞する予定は無かった。

勝手な先入観で戦争の話のようなイメージがしたから。

昨日、作品紹介の短文を読んで(観なくては・・・)という気になった。

 

 

娯楽作品とは言い難い、いわゆる社会派の作品。

 

 

 

年間自殺者が3万人。

生活困窮の果てに餓死。

高齢者の孤独死。

少子化で産めよ増やせよと言われる一方で両親から虐待を受けて幼い命を落とす幼児。

 

上記のような事件が報道される時、

しばしば、「こうなる前に相談してほしかった・・・」というインタビューコメントを耳にする。

本当だろうか?相談されたら親身になって考えたり手助けしたりしただろうか、あの人たちは?

 

事件当事者たちは、遠慮がちではあるが何度か公的機関の窓口を訪れていたことも報道で知った。

そして、彼らは一様に公的窓口担当者から 「もう少し頑張るように」とか、

すぐに底をつきそうな貯蓄でも「それだけ貯金があれば救済の対象外です」と言われたりしている。

 

人が生きようとするためには何が必要なのか?

恵まれた待遇で福祉業務に携わる公務員が真剣に考えたことはあるだろうか?

私は、そこに大きな疑問を抱いている。

 

 

いつからかこの国の価値観は大きく変化して、

善意をもってつつましく生きようとする貧者には生き辛い空気が充満しつつある。

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