一粒としての個人が構成する世界

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「みんなちがってみんないい――「集団」になれても「団体」になれない私達」

http://blogos.com/article/70346/

 

↑ こんなブログ記事を読んだ。

 

この発言者は、金子みすずの詩「みんなちがって みんないい」の言葉を引用しているが、

これが金子みすずの詩の一節であることや彼女の生涯についての知識や理解はないようにみえる。

だから、「みんなちがって みんないい」の言葉を、

このブログの意見内容と結びつけるには少々の抵抗を感じないでもない。

 

そのことを最初にのべておいて、

さはさりながら、上記のブロガーの言いたいことに理解と共感は抱けることを記したい。

 

そもそも、社会という集団においては、人間はそれぞれ粒であることは否めない。

それも小さな粒である。

それが融合して大きな粒になる為には、柔軟で接着力を持った粒であることが必要条件だ。

 

このブロガー(シロクマさん)の主張する粒のイメージを、私なりに表現すると小粒の鉄球になる。

鉄球(ベアリングの球のような)は、一つの箱に集合させることはできても、くっつけることはできない。

その箱を揺すればガチャガチャと騒々しい音を発する。

これがシロクマさんの言う「ネタに集まって騒ぐ」という現象を想像させる。

しかし、いったん箱をひっくり返せばバラバラに転がって拡散し、

その後は互いに関係のない場所に勝手に存在する粒々に戻る。

鉄球ゆえに内外が硬く、別の粒の影響を受けて変化するのは容易ではない。

 

では、こうした硬い鉄球のような粒になってしまった人間どうしが、

互いにつながり合い思いやることのできる粒になるにはどうすれば良いのか?

 

粒にはいろいろあるけれど、素材によってその性質が違ってくる。

粒の素材が粘土や煉った餅粉のようなものであればどうだろう。

ぶつかればくっついて形が柔軟に変わるし、色つきであれば互いの色移りもあり得る。

 

では、自己保身と疑心暗鬼でガチガチの鉄球のようになっている人間が、

柔らかく味わいのある団子のような個球になるにはどうすれば良いのか?

 

そこに必要なものが教養であり文化を大切に思う感性ではないだろうか?

目に見える金銭や物品を最優先する価値観ではなく、

目には見えないけれど、喜怒哀楽に鈍感ではいられない感受性の豊かさを身につけようとする姿勢。

 

ぶつかれば互いに凹み合いくっつき合い、美しい色は色移りをする。

そんな粘土球や団子球のような粒々が集まった人間社会であればどうだろう。

それが、作家で数学者の藤原正彦さんが著書の中で重要性を訴えられるところの「惻隠の情」であり、

美輪明宏さんの「世界を変えられるのは文化です」という提言につながって行くことのように思う。

このブログ記事について

このページは、tsuyuが2013年9月22日 00:09に書いたブログ記事です。

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