2013年9月アーカイブ

もっとシャッキリしようぜ!

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最近、移動にはもっぱら公共交通機関を利用している。

幸いにも、それらの交通機関網が充実した土地に暮らしていることに感謝すべきだと思う。

 

ところが、ここ柏市は中心街の道路整備が遅れている。

おまけに路駐の車が多い。

当然、対向車のすれ違いが阻害される場面が頻発する。

 

今日も、帰りのバスに乗っていると、運転手さんの苛立ちが伝わってきた。

見下ろすと対向車線で何かの工事をしているようでパーテーションで囲われて、道路は半分通行不可の状態。

上り下りの車が危なっかしく行き違っている。

ちょうどその工事現場の場所に駐車場の出口があり、そこから出てくる車の数も多い。

 

警備員は配置されている。

配置されているのはいるけれど、何もしないで突っ立ったまま。

 

それを見かねたのか、バスの運転手が窓から顔を出して

「警備員さん、誘導してよ!!」と、少々語気強めに声を掛けた。

その声に誘われて、私も窓の外に視線をやると、警備員は・・・

意味不明に顔を緩め(苦笑いのように見えた)、誘導棒を背後に両手で握り、パーデーションの陰に後ずさって行った。

つまり、バスの運転手の注意喚起に反応して任務を果たす行動を起こすどころか、任務放棄したのである。

背の高い30代くらいの男性警備員だった。

 

情けなかった・・・

最近こうした傾向の、ものごとに対する人の反応を見かけることが増えている。

 

こんな時代、こんな社会状況に不安や不満は募っているだろうし、

呆然としたまま、生活の為にと、意に沿わぬ仕事をしているのかもしれない。

 

でもね、メリハリなくダラダラと時間潰しで日々を無駄にするのは止めようよ。

「もっとシャッキリしようよ」と、言いたい私。

 

実は・・・この一文を書くには、今日の警備員の一件以外に胸に引っかかっている問題があったからだ。

その対象は、定年過ぎて臨時採用された男性(私の仕事の相方)の言動の理不尽さ。

若い警備員の情けない仕事ぶりに、その親世代の我々年代以上のご同輩たちにも、

「もっとシャッキリしようよ!」と言いたかったから。

中村うさぎの本を読んだ

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このところ近所にある図書館の分館を利用して、ちょこちょこと本を読んでいる。

テーマを決めるでもなく、好きな作者があるわけでもないので、

その場その時に目に触れ・手に触れ・タイトルが気持ちに触れた本をとりあえず借りてくる。

 

今回、中村うさぎの「私という病」 を借りてきた。

以前の私だったら手に取ることさえなかっただろう作家の本。

 

彼女の名前を初めて知ったのは女性週刊誌に連載されていた記事でのこと。

買い物依存症候群の自分の行動や気持ちをドキュメント風にまとめた1ページコラム。

美容院での待ち時間に読んでいた記憶があるくらい。

その時の感想としては「この人はなんで自分のイタ(痛)い性癖をわざわざ発表するのだろう?」くらいのもの。

ハッキリ言ってあまり興味関心がなかった。

むしろ、その痛々しいまでの自己露出的な文章に、読むことさえ作者に悪いような気がした。

ま、正直言って、ブランド品を買いあさるという時点で、私にとっては関心外の人だった。

 

 

今回なぜ、そんな中村うさぎの本を衝動的に借りて来たのかと言うと、

しばらく耳目から遠ざかっていた彼女の名前がテレビのワイドニュースで流れていて、それが記憶に微かにあったことによる。

彼女は、原因不明だけれど突然倒れて心肺停止になり、現在は ICU(集中治療室)の中。

公式ブログによると意識は戻ったようだ。

 

 

そして、読み終えた。中村うさぎの「私という病」。

長年、私にとっては興味のない生活行動に生きる人だと無視し続けてきたことが信じられないくらい、

近年読んだ本の中でも比べる物が無いくらいのスピードで一気(いっき)に読み終えた。

 

わかる、わかるよ、うさぎさん・・・まったくそうそう、そうなんだよねえ・・・の連続。

 

しかし、これほどの赤裸々かつ本音を活字にするには、

作者はズタズタボロボロに心身を消耗し、社会的にもダメージを受けかねない作家活動だろうと思われる。

私もかつては、彼女の作品を読むこともなく、女性週刊誌記事から受けたイメージで彼女を決めつけ遠ざけていたのだもの。

 

 

彼女の書いている内容は、同じ女性であっても理解の度合いや共感の度合いは人それぞれ濃淡あるだろう。

それはまあ、十人十色だから、自分が女であることを意識する人しない人色々だし、ね。

 

一方、男性には理解できないだろうなあ・・・そもそも、こんな女性の心理に関心も無いだろうなあ・・・と思う。

過去折に触れ耳にした話なのだけれど、

男性は女性から、「私だって人間です。人間として扱ってください」と言われると困るらしい。

ここのところなんだよなあ・・・この本の核心も。

 

 

頭の中だけで並べたきれいごとではないだけに、訴える力が強まっているような気がする。

とかく複雑に入り組んで取り留めもなくて、でも強い想いで、他人に理解できるように説明し難い女性の気持ち、

それを、文章にまとめ上げた彼女の力は、やはりすごいと思う。

「みんなちがってみんないい――「集団」になれても「団体」になれない私達」

http://blogos.com/article/70346/

 

↑ こんなブログ記事を読んだ。

 

この発言者は、金子みすずの詩「みんなちがって みんないい」の言葉を引用しているが、

これが金子みすずの詩の一節であることや彼女の生涯についての知識や理解はないようにみえる。

だから、「みんなちがって みんないい」の言葉を、

このブログの意見内容と結びつけるには少々の抵抗を感じないでもない。

 

そのことを最初にのべておいて、

さはさりながら、上記のブロガーの言いたいことに理解と共感は抱けることを記したい。

 

そもそも、社会という集団においては、人間はそれぞれ粒であることは否めない。

それも小さな粒である。

それが融合して大きな粒になる為には、柔軟で接着力を持った粒であることが必要条件だ。

 

このブロガー(シロクマさん)の主張する粒のイメージを、私なりに表現すると小粒の鉄球になる。

鉄球(ベアリングの球のような)は、一つの箱に集合させることはできても、くっつけることはできない。

その箱を揺すればガチャガチャと騒々しい音を発する。

これがシロクマさんの言う「ネタに集まって騒ぐ」という現象を想像させる。

しかし、いったん箱をひっくり返せばバラバラに転がって拡散し、

その後は互いに関係のない場所に勝手に存在する粒々に戻る。

鉄球ゆえに内外が硬く、別の粒の影響を受けて変化するのは容易ではない。

 

では、こうした硬い鉄球のような粒になってしまった人間どうしが、

互いにつながり合い思いやることのできる粒になるにはどうすれば良いのか?

 

粒にはいろいろあるけれど、素材によってその性質が違ってくる。

粒の素材が粘土や煉った餅粉のようなものであればどうだろう。

ぶつかればくっついて形が柔軟に変わるし、色つきであれば互いの色移りもあり得る。

 

では、自己保身と疑心暗鬼でガチガチの鉄球のようになっている人間が、

柔らかく味わいのある団子のような個球になるにはどうすれば良いのか?

 

そこに必要なものが教養であり文化を大切に思う感性ではないだろうか?

目に見える金銭や物品を最優先する価値観ではなく、

目には見えないけれど、喜怒哀楽に鈍感ではいられない感受性の豊かさを身につけようとする姿勢。

 

ぶつかれば互いに凹み合いくっつき合い、美しい色は色移りをする。

そんな粘土球や団子球のような粒々が集まった人間社会であればどうだろう。

それが、作家で数学者の藤原正彦さんが著書の中で重要性を訴えられるところの「惻隠の情」であり、

美輪明宏さんの「世界を変えられるのは文化です」という提言につながって行くことのように思う。

TVドラマ「いねむり先生」

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夏目雅子を喪って呆然自失の伊集院静が、色川武大(阿佐田哲也)との交流で立ち直って行く物語。

 

女優・夏目雅子が白血病で亡くなったころ、ちょうど私の夫も白血病闘病中だったので、

その後の夏目雅子に関する記事やニュースにはなぜか敏感に目を通してきたように思う。

その夫であった伊集院静氏に関しても、

同じように白血病の若い伴侶を看取った者という仲間意識?のようなものを感じる。(一人勝手にではあるが)

 

 

このドラマを視ようと思ったのは、タイトルの「いねむり先生」が色川武大(阿佐田哲也)であることを知ったから。

 

以前、このブログの記事に「色川武大(阿佐田哲也)」のことを書いたっけなあ・・・と振り返ってみたら、

2008年6月7日の日付で書いていた。

その時の内容は、各界著名人への昔のインタビューを再放送しているテレビ番組の感想だった。

読み直してみると、色川武大の発言に、私が心打たれたことが分かる。

 

 

今回の「いねむり先生」というドラマで描かれている色川武大という人物像が、

2008年6月7日にブログに綴った色川武大像に重なる。

 

ナルコレプシーという難病を抱えていたからなのか、生来のものなのか、

色川武大という人は人間の弱さや辛さに寄り添う心を持ち合わせた優しい人だったようだ。

 

ギャンブルの神様との異名ゆえに、私は長らく色川武大に偏見をもっていたと思う。

でも実は、周囲の人を愛し、また周囲からも愛される人物だったらしいことが、このドラマでよく分かった。

映画「アタル」

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昨日(15日)は、久しぶりにいつものシネコンに行き、

「Ataru the first love & the last kill」 を観てきた。

 

「アタル」は、テレビで見てから好きになった。

スマップの中居正広くんのアタルの演技が好き。

 

どうしてアタルなの? どうしてチョコザイなの? と思っていたら、

どうやら本名(猪口在・・・いのくちあたる)でアタルとチョコザイらしいことがわかった。

好きに理由は無く、細かいところはどうでもよくって、ただただ楽しんで観る。

 

サヴァン症候群でコミュニケーション能力に欠けるアタルが、

その為に犯罪者扱いされたり暴力を受けたりする場面は、

現実社会には溢れている現象だと思うので、観ていて胸が痛んだ。

 

アタルは、新しい情報を獲得すると「アップデートしました」というのだが、

カップカレーうどんのつゆをカレースープとアップデートしたいきさつは面白い。

このいきさつは、過去の作品に出てくるのだが、

アタルにとってのカレースープは、今回の作品でもカップカレーうどんのつゆのまま。

 

考えてみると、人間の知識なんて教えられたように覚えて使っているだけで、

「これがそうだよ」と最初に教えられたことを応用活用しながら暮らしているのだから、

たまにはアップデートしたほうが現実に即する知識もあるかもしれない・・・なーんて、

それほど真剣になって観る映画でもないけれど。

 

 

映画館混んでたなあ・・・三連休ということもあるけれど、

ここ数週間で、かつての街の活気が少し戻ってきたような・・・気のせいだろうか。

オリンピック効果だろうか、政策が少しずつ成果を結びつつあるのか。

昨日(9月12日)鑑賞の映画は デンマーク映画「未来を生きる君たちへ  http://www.mirai-ikiru.jp/

 

世界中のどこかで、誰かが誰かの暴力の犠牲になっている。

それは、大人社会のみならず、複雑な社会の利害とは未だ遠い世界に生きる子供たちの間にも。

 

子どもが遭遇する心身への暴力の多くは、親からの虐待や教育環境におけるイジメであったりする。

この映画においては学校でのイジメに遭う少年二人とその両親たちを軸に、

受けた理不尽な暴力的仕打ちにどのように対処して行くのかが描かれている。

 

いじめられる辛さや悔しさを晴らすには「目には目を」の暴力しかないのか?

少年二人(主導は直前に母が病死した方の少年)の報復は過激な手段になって行く。

 

 

自分が理不尽な仕打ちを受けた時、仕返ししようと考えるかどうか。

仕返ししたいとしたら手段は何を選ぶのか。

到底許しがたい相手ではありながら、何も仕返しはせずに距離を置くことを選ぶのか。

究極のところ「赦し」はあり得るのか。

 

「赦し」はなかなか難しいと思う。

記憶に焼き付いた、恐怖を伴う辛く寂しく情けない感情の払しょくは、そう簡単ではない。

 

普通の人間がとり得る手っ取り早い方法は、結局、いじめる相手から遠ざかることしかないかもなあ・・・

でも、イヤーな記憶はついて回るし、折に触れ蘇るものなんだよなあ・・・

 

暴力からは何も生まれない。

そう思う。

 

 

先日から立て続けに見ているヨーロッパ映画のいずれも、

現代の問題点を描きながら結論を提示してはいないのが共通。

鑑賞した人それぞれで考えてくださいと言われているような終わり方。

私にとっては、それが好ましく思える。

 

映画「家族の庭」

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今日もまた映画鑑賞しました。

 

「家族の庭」 (原題:Another year) http://coco.to/movie/15601

 

イギリス映画 2010年作品

 

題名から想像するようなほのぼの感はありません。

公式サイトが見つからなかったので、参考までに ↑ のURLを貼っておきます。

 

この映画の内容は、最近立て続けに鑑賞した数本の映画の中で一番印象深いものとなりました。

 

登場人物の誰に感情移入するかは、人それぞれでしょうね。

↑のサイトに多数の感想が寄せられています。

 

充たされた者が、ある場面で見せる冷やかな態度。

充たされぬ者の、救いようのない生活への嘆きと愚痴、そして自ら招いたような孤独感。

どこの社会にもありそうな人間模様の展開ですが、身につまされる話でした。

映画「偽りなき者」

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考えあぐねた末、TKPシアターの6ヶ月フリーパスを買った。

期間中は、新作・準新作以外の映画は見放題。

 

ということで、早速、昨日に引き続き今日も映画鑑賞。

デンマーク映画偽りなき者 http://itsuwarinaki-movie.com/index.html

 

幼稚園女児がついた嘘で一人の男の人生が壊されていくストーリーは、

誰かによる実態とかけ離れた記述で誰かの実生活が壊されていく

ネット社会のいまが直面している現象に通底するものがあるように思った。

 

子どもは無邪気で嘘をつかないと、それこそ "無邪気" に決め込み信じ込む大人社会。

ところが、ところが・・・

他人を陥れようという積極的な悪意はなくとも、幼い子供もそれなりの嘘をつく。

幼いから純真無垢だとか、大人だから賢明で冷静な判断対処ができるとか、一概に決めてはならない。

 

狭い範囲の地域社会において、一度壊された人生が完全に修復復活することは難しい。

人の心は千差万別。

やがて大方の人々の表面的な差別阻害は取り除かれたとしても、何もなかった昔に帰ることはできない。

 

さまざま考えさせられた映画だった。

eigataosan (266x350).jpg

 

 

 

 

TKPシアターで映画「桃(タオ)さんのしあわせ」を観た。

 

 

 

 

 

 13歳から60年間、ひとつの家で住み込み家政婦をしてきたタオさんの老後を描いた作品。

実話をもとに制作された映画という。

 

親兄弟が皆アメリカに移住して、香港に一人残った映画プロデューサーである長男のロジャーは、

独身のまま50代になり、生まれた時から身の回りの世話をしてくれるタオさんと暮らしている。

ロジャーが生まれる前から梁家に住み込んでいるタオさんとは、

彼が多くを語らずとも静かに淡々と日常が過ごせる。

 

そんなある日、タオさんが脳卒中で倒れる。

そして、彼女の希望で老人ホームへの入所。

そこから、血縁ではないにもかかわらずロジャーの献身的な介護が始まる。

 

誰にでも訪れる人生の終焉。

どのような境遇で一生を暮らそうと、人は老いて、やがて死を迎える。

 

↑のチラシ右肩に記された

「笑い合える人がいれば、ささやかでも、人生はきっとバラ色」

の文言が穏やかに心に沁みてきた。

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