2013年7月アーカイブ

映画「終戦のエンペラー」

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「終戦のエンペラー」を観た。

 

客席は、予想通り、私と同年輩らしき人々が多い。

 

ここで、表題とは別の話だが、

昨日初めて60歳以上はチケットが1000円になっていることに気付いた。

これまでは職場の斡旋で割引チケットを手に入れていたが、

これからは、その必要もなく1000円鑑賞ができるようだ。

 

今回の「終戦のエンペラー」はハリウッド製。

監督はピーター・ウェーバーという人物で日本人ではないが、

企画立ち上げは奈良橋陽子という日本人プロデューサー。

 

天皇の戦争責任を追及するにあたって、リサーチを任されたフェラーズ准将中心にストーリー展開。

フェラーズには、開戦前から想いを寄せる日本人女性がいた。

そこから、軍内では知日人物として天皇の戦争への関与と処遇のリサーチが任される。

 

これまで、映画やテレビで、太平洋戦争に関するさまざまな日本製の作品を視てきた。

複雑な人物相関図があり、誰の視点であの戦争を考えるかによって表現が異なるのは至極当然。

今回の映画には登場しなかったけれど、戦後処理に際して活躍した日本人は他にも大勢存在する。

 

(戦争放棄する国家創造の実験)としての日本の戦後処理?

 

いま、日本国内では憲法改正に関する論議がある。

終戦直後のGHQ内部の動きを、アメリカ人の描く映画で垣間見ることも意味があるのかも知れない。

 

ただ、あまりにもあの戦争から時間が経ってしまった感は否めない。

それなのに、あの戦争は未だに尾を引いているような昨今。

かの戦争を肌身で知らない世代ばかりになって、

これからの日本はどう展開して行くのか、はたまた、どう展開して行けばよいのか、

模索の時代は悩ましく続きそうだ。

大・中・小 婆さん

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平岩弓枝:著 「老いること 暮らすこと」を読んでいたら、面白い表現に出くわした。

いわく、(中婆さん)。

意味するところは、60歳代くらいの女性か。

 

それを読んでハタと思いついた。

50歳代は(小婆さん)、60歳代は(中婆さん)、70歳代以上は(大婆さん)かな、と。

 

私は、他人から(おばさん)だの(お母さん)だのと呼びかけられることに違和感を感じてきた。

名前を名乗れるものなら名前で呼んでほしいが、

名前を名乗り合うほどの場面でない時には、相手も呼びかけように困るのだろう。

 

と言って、「ほらほらそこの中婆さん・・・して」と言われるのも、なんだかなあ・・・の感はある。

 

まあ、呼びかけに使われるのはお断りしたいところだが、

括りとしては、(大・中・小 婆さん)として区別をつけるのは面白いなと思った。

年寄りの心得は?

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自分でも最近、明らかな自覚となっているのが「鈍化」である。

感受性の鈍化、身体能力の鈍化、社会性の鈍化などなど。

それは、あらゆる面においての老化現象として仕方がないことだろう。

 

ただ、その変化を自覚して、自らを律することができるかどうかに、

これまでの一個人としての生き方やものの考え方の集大成が表出する。

 

再び、山口県周南で発生した事件に関してだが、

彼は故郷に戻った時には40代で地区の最年少、

村の行事の役割や環境整備・雑用などを引き受けていたという。

 

人は誰かの力を借りる時、最初は感謝していても、度重なると当たり前になりがちだ。

そこからさまざま注文や文句が出たりする。

彼も、地域の為に貢献しても「感謝の言葉もなかった」とこぼしていたようだ。

 

 

月に一度、新聞屋さんが届けてくれる薄い冊子がある。

その中に、高知県で医師をされている小笠原望さんという方のエッセイが連載されている。

地域性の関係で、内容は小笠原医師が診療する老人の登場が多い。

 

昨日は、92歳にしてなお

「私にできることがありましたら、なんなりと言ってくださいませ。遠慮なさらずに。本当に皆様におせわになります」

と繰り返し口にする老婦人の話。

彼女は、苦しい息の下でありながら「私にできることが・・・」と付け加えるのを忘れなかったという。

 

この「私にできることがありましたら、なんなりと言ってください」の気持ち、これが重要なのだと思う。

 

間違っても

「これまでこれだけやって来たのだから、それ相応にやってもらうのは当たり前」

だの

「年下の者が動いて、自分に楽をさせるのは当たり前」

だの

「お金を払っているのだから、どんな無理もきけ」

などと

老いを理由に、相手の感情や状況への配慮もなく厚顔を決め込むのは如何なものか。

 

 

老化にともなってできなくなることは多くなるが、せめて、感情の柔軟性くらいは保つようにしたいと思う。

若い者も年寄りも、

同じ社会で同じ空気を吸いながら生活している生きものだということを忘れるほど鈍化したくないものだ。

私も、「私にできることがありましたら、何なりと言ってください」の気持ちを忘れないようにしようと思う。

そして、

何か手を貸してもらうことがあったら、素直に「ありがとうございます」と言えるように心がけつつ年老いて行こう。

ムラ(村)

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山口県周南で5人の殺害と放火をして行方不明になっている63歳の男性容疑者の件。

 

メディアによって次々に明らかにされる情報を視ていて思うことがある。

 

彼は15歳で故郷を出て、関東地方で長年働いていたという。

親の介護をすることと、故郷に骨を埋めたいという想いもあって帰郷した。

 

ところが、長年暮らした都会で、彼の何かが故郷の空気にそぐわないものになっていたのだろう。

彼は土地の人たちから避けられる存在で孤立していたようだ。

地方の村で孤立することは、都会で孤立するより、もっとずっと悲しく辛いだろうことが、

田舎育ちの私には想像できる。

 

長年その土地に住み続ける人たちで形成される(村)に受け入れられることは、

Uターン・Iターンを希望する人たちが考えるほどた易くはないということだろう。

 

最近は、業界や学問の世界でも、利害を一にする集団を(ムラ)と呼んだりしている。

 

どのようなムラ(村)であろうと、一旦結束した集団に、

異なる価値観を身につけた者が混じろうとしても難しいと思った方が良さそうだ。

 

たとえその人が、かつてはそのムラ(村)の一員であった過去があろうとも、

長い年月遠ざかっていたのなら、その人はもはやムラ(村)の仲間ではなくなっていると思った方が良い。

 

ムラ(村)とは、その中にどっぷり浸かって、暗黙のルールを破らずにいる限りは居心地の良い場所。

そのため、改善や発展とは遠くなりがちであろうことは否めない。

 

かつて、詩人 室生犀星はこう詠った、

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

[小景異情ーその二] より

 

ムラ(村)を出た(出ざるを得なかった)者の悲哀と覚悟だ。

 

私も、故郷を離れて早や40年近く。

もはや故郷は、私の思い出の中に「懐かしい状景」として存在するのみ。

 


 

想像力の欠如

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広島県呉市の16歳少年少女の起こした殺人事件に関して、次第に事件の内容が明らかになっていく。

 

直近の情報では、自首した少女は遺体の損傷のひどさを目の当たりにして自首を決めたそうだ。

 

そのことから、

おそらく犯行に加担した少年少女は「人の死」に立ち会った経験が無かったのではと思われる。

 

最近では、身近な人の自然死にさえ立ち会う機会が減っている。

60-70代になって、親が亡くなることで初めて葬儀の喪主を経験する人も稀ではなくなった。

 

これまで体温があり呼吸もしていた人間が、パタリと息を止め、次第に体は冷たく硬くなって行く。

亡くなる人に愛着があればあるほど、その死に立ち会うことの衝撃は大きく、

その後の人生に何らかの影響を受けずにはいられない。

 

こうした経験がある人と無い人とでは、人の痛みに対する想像力にも大きな差があるだろう。

 

少年少女は、車の中に被害者を転がし、殴る蹴る踏みつけるを繰り返したという。

 

その時、そうした暴力を受けているのが「もしも自分だったら・・・」という想像力は、

誰の脳裏にも浮かばなかったのか?

自分たちと同じ16年の人生を生きている体を踏みつけていることに、

何の抵抗もためらいも無かったのか?

 

人の死に立ち会う経験だけではなく、最近は、生活全般における経験が乏しくなっている。

生活するということは、あらゆる分野の知恵を使わなければならず、行ったことは経験として積み重なる。

経験が積み重なれば、想像する力も養われてくるはず。

 

自分の体や知恵を駆使して真剣に生きなくっちゃあ。

知性の崩壊

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先日読み終えた「パラドックス13(サーティーン)」のキーワードは、

数学的に整合性のある物質と数学的に説明のつかない人間の "知性" との矛盾が引き起こした空想的事象。

 

考えてみれば、無機質の物体や植物などには(とりあえず人間の知る範囲で)知性と呼ばれる情動は無い。

動物には、人間が「おそらくそうではないか」と読み取れる情動があるように見える。

ただ、人間と違うのは、その情動が複雑で高度な知性と呼べるような発展を遂げていないことか。

 

 

おぞましい事件、それも若年者による事件が相次ぐ。

 

ラインとやらの文字による交流で、つながったつもりになる若年者。

生身の接触も無しに、互いを信用したかのように出会い、そして事件を起こす。

 

「小人閑居して不善をなす」

 

世界は知らないが、こと日本に関しては "知性" の崩壊が進んでいるのではないか。

まるで動物のような、というより、むごい行為を平然と行える事実は動物以下かもしれないではないか。

 

誰もが額に汗して労働に勤しめる環境が整う日を待っている。

折しも明日は参議院選挙。

誰が本気でこの国を担おうとしてくれているのか。

大きい期待が持てないままに、誰かを選ばなければならない国民の不幸。

 

またぞろ・・・ため息

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名古屋市の中学2年生男子生徒が自殺した事件で、教師の "発言" の有無が問題視されている。

「度胸もないくせに」

「人間はそう簡単にそんなことできるもんじゃないから」

という言葉を、学級の多くの生徒たちが耳にしたと証言している。

 

にもかかわらず、

担任教師は、記者会見で「言っていない」と言い、

「私がこの場でどのようなことを言っても、それを聞いた人の理解の仕方はそれぞれだから」

当日の帰りの会での自分の言葉を聞いた生徒が、

悪意の理解で事後のインタビューに答えているかもしれないと言わんばかりの釈明をしているという。

 

ちょっと待ってください先生、

メディアのインタビューに答えている子供たちも、あなたの担任の生徒たちですよ。

その子たちの尊厳を損なうような、自己保身に徹した発言はよろしくないでしょう。

インタビューで証言した生徒が間違った受け止め方をしていたとしても、

まずは、そう思わせてしまった自分の指導を反省するのが先でしょう。

あれではまるで、自分の学級の生徒たちが皆、嘘つきだと言っているようなものですよ。

 

常識的に考えると、

普段から、あなたへの生徒の信頼が厚ければ、

生徒があのようなことをメディアの質問に対して言わなかっただろうと思いますよ。

 

「死ね」「きもい」「うざい」は、ひごろから生徒の間で挨拶のように交わされていた言葉だった、ですか?

その言葉がすでに通常の日本語の会話になったような意識でいらっしゃいましたか?

だとしたら、

今日のような品のない社会になったのは、学校教育の緩みから始まっていると言われても仕方ありませんよ。

なぜならば、

社会を構成しているのは一人ひとりの人間個人だし、

その個人とは(少なくとも日本においては)、幼児期から思春期までに

家庭の教育と義務教育の場で人格形成と基礎知識の習得を受けて社会に出る人間性を養っているのですから。

 

名古屋市の中学校、帰りの会で「〇〇君は、今日自殺するそうです」と言った生徒に対して、

血相変えて語気を強めて  「そんなことは口が裂けても言うものではありません!」 と、

どうして担任は言わなかったのだろう。

そして、その後の精神的なフォローをできなかったのだろう。

 

教育現場にある人たちの感受性の鈍化を悲しむ。

これは今に始まったことではなく、

私自身が幼いころから経験してきたことが、未だに続いていると思うからである。

このしつこさは、何なんだ!

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以前、確かに登録はした。

それは、ある個人ウエブサイトのメールマガジン配信だった。

その管理者が使っていたメルマガ配信元から、商業的なメルマガが届くようになった。

長らくそのままに(受信→削除)の作業をしてきたのだが、

最近、思い立って配信解除の手続きをメール送信してみた。

 

なのに、わずかな文言の付け替えをして、相変わらず頼みもしないメルマガが配信されてくる。

 

いまのところ二社からの(しつこいメルマガ)が配信され続けている。

どちらにも配信の解除を、しかるべきアドレスから送信したはずなのに。

 

インターネットで調べてみた。

このしつこいメルマガ配信への怒りの書き込みが、多く出てきた。

 

だれもが、断っても断っても、タイトル文言をちょっといじっては送信されてくるメルマガに手を焼いている。

 

一度こちらのメールアドレスを拾われたが最後、延々と強制的に送られてくるシステムらしい。

解除要請で打ち込んだアドレスさえ、次の送信の餌食になっているかのようだ。

 

顔が見えないインターネットの世界では(相手の都合などお構いなし)が平気で出来るということか。

再び、自尊心について

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またまた子供がらみの事件報道に寄せて、私の思うことを。

 

公園で遊んでいた(男2人、女1人)の小学生が、40代くらいの男性に乱暴を受けたという話。

 

最初は、刃物を押し付けられたという話から始まって、

いや、刃物ではなく、どうやら木切れだったようだ、になり、

最後は、子供たちがベンチで寝ていた男性を勝手に携帯カメラで撮影しようとしていたところ、

その男性に見つかり、一旦はその場を離れた子供たちが、再び様子を見に引き返して来たら、

その男性から「さっきの子どもたちだろう」ということで木切れで打たれたということらしい。

 

子どもたちは、打たれた後に自分たちが通う小学校に駆け込んだとのこと。

近頃、子供を標的にした事件が頻発しているので、学校も「すわ!!」と身構えたことであろう。

その時、(なぜそうなったのか)という 事の成り行きを子供たちから落ち着いて聞き出せていただろうか?

 

ひと昔であれば、無断で面白半分に大人をからかうようなことをした子供に非を説いて聞かせ、

教師引率のもと公園まで謝罪に行かせるという教育指導もあったかもしれない。

が、今や "物騒" な出来事が多すぎて、なかなか人の良識や寛容を期待できないので、

わざわざ公園に出向き、その男性を見つけて謝罪という行動は適切ではないかもしれない。

 

まあ、何が言いたいかというと、

近頃は街中で、何かと言うとスマホや携帯で画像を拾う人が多いし、

それを、無配慮にネットのブログに掲載しているようだけれど、

画像の収集にも倫理のケジメはあろうというもの。

 

そんな小難しいことには無頓着な子どもでさえ、携帯片手に街中闊歩する時代、

無断で他人にカメラを向けてはいけないことなど、はなから意識の中に無いのだろうなあ。

 

いくらデジタルカメラが楽に多数回シャッターが押せて、画像の保存容量が大きいからといって、

何でも目についた事象にレンズを向けて画像収集をしてもよいというものではない。

対象が人間である場合は、ことさらに注意が必要である。

 

人間には、自他ともに犯してはならない(犯されたくない)領域がある。

その自尊心は、礼儀として常識として尊重しなければならないことを、

幼いころから教えたほうが良いのではないだろうか。

 

今回、携帯のカメラをベンチの男性に向けたという子供たちが、

反対に見知らぬ人にカメラを向けられてシャッターを押し逃げされたとしたら、

彼らはどう感じるかを訊ねてみたい。

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