クチナシの話

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今、あちこちから香(かぐわ)しいクチナシの香りが漂っている。

白く肉厚な花びらは上品この上なく、私の好きな花の一つに挙げられる。

 

同音異義語になるが、私が嫌いなクチナシがある。

それは(口無し)。

 

昨日、狭い歩道を歩いていると、後ろから猛突進して来た自転車が、

私が手に提げた荷物を引っかけんばかりに追い越して行った。

歩道の幅は1mちょっとで車道から20cmの段差がある。

追い越された時点で、衝突されそうだったという突然の驚きと、

ぶつかった自転車が車道に転がり落ちていたらという恐怖で身がすくんだ。

 

過ぎ去った自転車の後ろ姿を目で追うと、白いシャツにひだスカートを着た女子高校生。

立ちこぎで猛然と走り去って行く。

「危ないじゃないの!」と辛うじて声に出したが、その声は既に届かない距離に離れていた。

彼女はスピードを緩めることもなく、もちろん振り返りもしなかった。

私の「危ないじゃないの!」を聞いたのは、その直後に私の傍を通り過ぎた別の女子高校生だった。

 

歩行者に声を掛けるなり、自転車から降りてすれ違うなり、一旦車道に下りるなり、

別の通行方法はあったはず。

 

歩行者の私としては、せめて「すみませーん、通してください」と声を掛けてほしかった。

 

 

近頃、相手を意識し相手に配慮する、こうした人間関係の潤滑油としての言葉掛けができない人が増えた。

若い人の中には、そういう会話を周囲の大人から教わっていないこともあると思われるが、

いい年齢の大人にも目立つようになっている。

そんな人たちが、場面や相手によっては丁寧語などを使っているところに遭遇すると、

マナーとか思いやりとか良識などとは関係のない、彼ら彼女らの横着さと利己的な品の悪さを感じる。

 

職場でも、自分が管理していないものに手を出す場合には、

ひとこと管理者に声を掛けるのが当然だろうと思っている私には信じられないようなことが多くなった。

目の前に使いたいものがあれば 「あ、ここにあるわ、ラッキー」 ってな感じで持って行ってしまう。

誰のものであろうが遠慮なく使う、原状回復なんてとんでもない、

まして、管理者への事後承諾と無断使用の謝罪などあるわけがない。

せめて、 「これ使って良いですか」 のひと言さえあればと思う。

 

 

例を挙げればキリがない。

たった一言の声掛けが無いばかりに関係がギクシャクしたり、場の雰囲気が荒んだりしているのではないか?

 

言葉を使わない人々が (物静かで穏やか) な人たちなのかというとそうではなく、

場面によっては ワーワーギャーギャー と耳を塞ぎたくなるような声でおしゃべりをしている。

 

しかるべき場面でしかるべき言葉が使えることは、人としての教養と良識の発露であろう。

 

必要な言葉を発しない、適切に配慮ある言葉を使わない、黙っていれば責任を問われないだろうとダンマリを決め込む。

そのような クチナシ(口無し) の花は、美しくない。

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このページは、tsuyuが2013年6月29日 09:17に書いたブログ記事です。

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