2013年6月アーカイブ

自尊心の相互尊重意識

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千葉県の高校で、授業中に後ろから消しゴムを投げつけられたことに立腹し、

同級生を傷つけ逃走した男子生徒のことが報道された。

 

少しずつ事件の内容が明らかにされていく中で、

この生徒が日ごろから、からかいの対象にされていたと報じられている。

 

誰にも (言われたくないこと)や(受けたくない行為)がある。

始めから犯罪行為と明らかなことは論外にしても、

「これくらい・・・」という軽いノリで行われる言動や行動が、いたく人の心をえぐってしまうことがある。

子どもにはありがちなことだが・・・

 

今回の事件にしても、消しゴムを投げた生徒と投げられた生徒の立場を逆にした場合、

今回被害者となった生徒は、果たして平然としていられただろうか?

 

この事件に接して、

私は、近頃の人々が自他の自尊心を軽視する傾向にあることから発生したもののように思えた。

 

常日頃からからかいの標的にされ、あげくに、授業中に後ろから消しゴムを投げつけられれば、

口惜しくないほうが不思議だし、腹が立って当たり前だ。

 

ただ、だからと言って刃物をもって仕返しをするという短絡思考に走ることはもっての外だが。

 

人には相性というものがある。

日本には「和をもって貴しと為す」を是とする歴史的流れがあり、

幼いころから「みんな仲良くしましょうね」「お友達をたくさんつくりましょうね」と教えられ続けて大人になる。

私は幼いころから(そんなこと無理だ)と思い続けてきた。

誰かと親しくなることはあっても、全ての人と親しく仲良くなんかできる筈がない、と。

 

では、そのような場合に諍(いさか)いを避けるにはどうすれば良いのか?

 

そこに「自尊心の相互尊重意識」が必要となる。

自尊心は幼い子供といえども、立派に持っているものである。

互いの存在をないがしろにしない意識さえしっかり持っていれば、

相性の悪い人間とだって適当な距離を保って共存できるのである。

 

教育の基礎は、知識の詰め込みや高得点の取り方を教えることではなく、

それぞれの胸に自尊心を養い、それは自他ともに犯すべからざる領域であることを教えることだと思う。

 

近年、若い人たちの間では、(リスペクト)などという表現が使われるが、

そんな外国語なんか使わずに、ちゃんと(敬意)という日本語を使えばいい。

そして、それぞれの自尊心に敬意を表して、あえて貶める行為は慎むべきだろう。

 

あまりにも衝動的かつ残忍な行為に及ぶ人間が増えつつあるようで、心配している。

クチナシの話

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今、あちこちから香(かぐわ)しいクチナシの香りが漂っている。

白く肉厚な花びらは上品この上なく、私の好きな花の一つに挙げられる。

 

同音異義語になるが、私が嫌いなクチナシがある。

それは(口無し)。

 

昨日、狭い歩道を歩いていると、後ろから猛突進して来た自転車が、

私が手に提げた荷物を引っかけんばかりに追い越して行った。

歩道の幅は1mちょっとで車道から20cmの段差がある。

追い越された時点で、衝突されそうだったという突然の驚きと、

ぶつかった自転車が車道に転がり落ちていたらという恐怖で身がすくんだ。

 

過ぎ去った自転車の後ろ姿を目で追うと、白いシャツにひだスカートを着た女子高校生。

立ちこぎで猛然と走り去って行く。

「危ないじゃないの!」と辛うじて声に出したが、その声は既に届かない距離に離れていた。

彼女はスピードを緩めることもなく、もちろん振り返りもしなかった。

私の「危ないじゃないの!」を聞いたのは、その直後に私の傍を通り過ぎた別の女子高校生だった。

 

歩行者に声を掛けるなり、自転車から降りてすれ違うなり、一旦車道に下りるなり、

別の通行方法はあったはず。

 

歩行者の私としては、せめて「すみませーん、通してください」と声を掛けてほしかった。

 

 

近頃、相手を意識し相手に配慮する、こうした人間関係の潤滑油としての言葉掛けができない人が増えた。

若い人の中には、そういう会話を周囲の大人から教わっていないこともあると思われるが、

いい年齢の大人にも目立つようになっている。

そんな人たちが、場面や相手によっては丁寧語などを使っているところに遭遇すると、

マナーとか思いやりとか良識などとは関係のない、彼ら彼女らの横着さと利己的な品の悪さを感じる。

 

職場でも、自分が管理していないものに手を出す場合には、

ひとこと管理者に声を掛けるのが当然だろうと思っている私には信じられないようなことが多くなった。

目の前に使いたいものがあれば 「あ、ここにあるわ、ラッキー」 ってな感じで持って行ってしまう。

誰のものであろうが遠慮なく使う、原状回復なんてとんでもない、

まして、管理者への事後承諾と無断使用の謝罪などあるわけがない。

せめて、 「これ使って良いですか」 のひと言さえあればと思う。

 

 

例を挙げればキリがない。

たった一言の声掛けが無いばかりに関係がギクシャクしたり、場の雰囲気が荒んだりしているのではないか?

 

言葉を使わない人々が (物静かで穏やか) な人たちなのかというとそうではなく、

場面によっては ワーワーギャーギャー と耳を塞ぎたくなるような声でおしゃべりをしている。

 

しかるべき場面でしかるべき言葉が使えることは、人としての教養と良識の発露であろう。

 

必要な言葉を発しない、適切に配慮ある言葉を使わない、黙っていれば責任を問われないだろうとダンマリを決め込む。

そのような クチナシ(口無し) の花は、美しくない。

繰り返し言う、哲学について

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http://www.taharasoichiro.com/cms/ (田原総一朗ブログ)

↑ 再び田原総一朗氏のブログを読んで。

最新記事に「哲学と宗教」への考察が述べられていた。

 

いま人々は、精神的支柱となり得る不変の価値観を見失った時代と言えそうだ。

 

寄辺を見つけられぬままに彷徨する人間の 心 。

空疎な言葉が交錯するばかり。

言葉に精神の救いを見いだせぬ人間が、手っ取り早くすがるのが物や金。

物や金への欲望は限りがなく、求めて手にすればするほど、精神的充足からは遠ざかる。

 

一方、如何に生きるべきか、何を一生の最重要項目と掲げて日々を暮らすかに思考の大半を注ぎ、

ああでもないこうでもないと自らを内省しつつ歩めば、ずっと先のほうに見えてくる光がある。

その光こそ、人の精神を照らすものであり、その光に手を差し伸べつつ、人は生きていける。

光は、具体的に手に取って五感で確かめられるものではない故に、まさに精神的存在である。

その光こそ、哲学的思考の彼方(到達することはないが)に待ち受ける平安だと思う。

 

何度でも言いたい

「人はなぜ存在し、何を為そうとするものなのか?」

と、自らに問うてほしいと。

 

世界の初めに 神ありき でも まして 人ありき でもなく、

ただただそれは無条件に受け入れるしかない存在という事実である。

 

いまここに在ること、そのことにはどんな疑問も差し挟む余地はない。

その実存を自らの内奥に手ごたえある実感に昇華する為の手段は、思考を繰り返す精神活動しかない。

その精神活動こそ、先人が実存の理解に悩み苦しんだ果てに編み出した 哲学 という分野だったのだと思う。

その先人の遺してくれた、この不可解な人間という存在にとって本当は一番必要であろう 哲学 を、

近代人は疎かに扱い、いまや捨て去ったも同然の状態にしているのではないだろうか?

 

富士山が世界遺産に

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自然遺産としての登録はできなかったが、昨日、富士山が文化遺産として世界遺産に登録された。

 

大喜びする関係者の映像を視ながら、私の胸中は複雑。

富士山を大々的に宣伝して多くの観光客を集めるのは是か非か。

 

今から10数年前、初めて富士登山をした時のこと。

五合目から頂上まで、まるで蟻の行列さながらに連なる人の数に驚いた。

登山道は、都会のラッシュも顔負けの混雑ぶり、前に進もうにも進めないほどの渋滞だった。

 

登山の心得のない人でも富士山に登れるのは7・8月の二ヶ月間。

山の状態に恵まれるのは7月下旬から8月上旬のわずか二週間くらいである。

当然、観光会社はその時期に集中的に観光客を送り込むと思われる。

山頂までの蟻の行列は、今後ますます、ひどくなるのだろう。

 

富士山の裾野で、お商売を生業とする人々にとっては、

世界遺産に登録されたことで見込まれる観光客の増加は慶事であるに違いない。

 

願わくば、富士山およびその周辺が、遠慮会釈なく踏み荒らされることの無きように。

 

やはり出てきた問題

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復興庁幹部がツイッターでつぶやいた。

 

「国会議員から質問4発被弾した。面倒くせー」

「(議会の)アレ(荒れ)方には笑っちゃう」

 

(使われた文言は逐一同じではなく、こんなニュアンス)

今朝の「みのもんた の朝ズバッ」で取り上げていた。

 

"つぶやき"なんて、周囲の人に聞こえるか聞こえないかで、

こらえきれずに思わずボソッと出てくる言葉であり、

公に広く知られる場所に堂々と晒すものではない。

 

が、それでもあえて人目につくと知っていて呟いたとしたら、

それが本音ということで、呟いた人物の品性と意識を判断されても仕方がない。

 

ツイッターが氾濫することは危うい。

逆説的に言えば、ツイッターで呟いてくれたおかげで、

一人の有害上級公務員の本性が公になったという けがの功名 と言えるかもしれない。

 

夜のニュースでは、上記の復興庁幹部が実際の会議で発言している映像が出てきた。

会議参加者の質問に 尊大 な態度で応じている姿は正視するに堪えない。

こうした人物があの地位に付けたこと自体、大きな間違いだと思われる。

 

こうして全公務員の社会評価が貶められていく。

地道に真面目に仕事に取り組む公務員は浮かばれない。

 

 

 

また、「歩きながらのスマホ」で事故が増加というニュースもある。

 

あれだけ多くの人がスマホの画面を見つめながら歩いていれば、

事故が起きないほうがおかしいくらいだ。

 

よく言われることだが

「それほど常時チェックしなければならない情報があるのか?」

「四六時中連絡取り合わないと支障が生じる相手がいるのか?」

 

これだけ音や情報が氾濫している中にあって、

あえて、

静寂の中に身を置くことを良しとするのも乙なものですよ、

と言いたい。

言葉を失うほどの残酷さ

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NHKスペシャル「未解決事件」第3弾 尼崎殺人死体遺棄事件 21:00~22:30 を視た。

 

関係者への取材から再現ドラマが製作されて放送されていた。

テレビ放送では生々しい表現は避けられていたが、

実際に行われたことは想像を絶する地獄であったことだろう。

 

本来なら、かばい合い助け合って生きて行くはずの家族や肉親。

そこに存在する僅かな亀裂につけ込んで、人間関係をズタズタにした角田美代子という女。

自らが手を下すことなく、心理を操って肉親同士で殺し合うように仕向けたその手口には、

心臓が凍りつくようなおぞましさを感じる。

 

人間はなぜ、ああまで冷酷残酷になれるのだろうか?

そうならない為には、いま、何が必要なのだろうか?

 

番組のまとめでも言われていたが、

私たちが今生きている社会では、同じような事件がた易く起こり得る状況にあるのだ。

 

人間の慈愛や慈悲の感情とは、生まれながらに備わっているものではなく、

成長の過程で学び育まなければ会得できないものだと思う。

そうした性情が欠けている人間が増加しているように感じるのは、

私だけだろうか?

 

これを簡単に【世紀末】だとか【末法の世】だと言って傍観していて良いものだろうか。

それとも、この事件で、角田元被告が複数の家族を崩壊させたように、

人類きょうだい全てが、滅亡に至るまで、相責め合い殺し合うことは避けられない時代になっているのか。

 

具体的な欲望ばかりを膨張させるのではなく、

抽象的で飯のタネにはならないけれど、

今こそ私たちに必要なのは 哲学 だと思う。

 

 

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