公園の樹木

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← ヒマラヤ杉

 

    ヒマラヤ杉の切り株→

 

 

 

 

 

 

* この地に越してきた30年前から、ときどき利用している小さな町内公園。小さい割には堂々としたヒマラヤ杉が数本植わっている。

しっかりと根を張った巨樹だったが、そのうちの何本かが間引きされて切られ、切り株だけは残されていた。やむを得ない理由で切り倒されたのだろうが、なんとなく痛ましい。

 

 

 

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 同じ公園で毎年、春になるとみごとに咲き誇ってきた桜も、ずいぶん年老いてきた。

「光陰矢のごとし」

 

 日曜日の夜10時から、NHK教育で「日本人は何を考えてきたのか」http://www.nhk.or.jp/nihonjin/ という番組を1月8日から視聴している。昨日は、田中正造と南方熊楠が取り上げられていた。

 

前回の放送、福島における民権運動の話には、改めて考えさせられることが多かったが、今回の話にも、いちいち頷きながら食い入るように視聴した。

 

久しぶりに、テレビで語る中沢新一さんを視た。大学で(野生の科学研究)をされているのだとの紹介。やはり、そちらの方向に行かれましたか。「野生」?文明の進歩で人間が失ってしまった自然生物としての感性、能力、自然智。いまやこのことに関して語ろうとしても、この「野生」を理屈ではなく内面感覚として自覚できる人は少なくなってしまった。

 

南方熊楠も観察対象にしていた粘菌という生物。この生き物は原始の単純生物でありながら、実に賢い。この賢いという言葉が、最近は妙に薄っぺらくなっているが、この粘菌の賢さこそ現代人が失ってしまった、本当は失ってはならない賢さではなかろうか。

 

以前、テレビの教養バラエティで、東京都の地図の上に粘菌を置いてその動きを現在の鉄道網に重ねてみると、ほぼ同じ線になるということをやっていた。人工とか人の手になるとか言って自然天然と区別するけれど、実は、人間のやることなんて「そうなるところに落ち着く」ということなのかもしれない。

 

驕るべからず、卑屈になるべからず、すべてはあるがままに進行している。

「今日の憂いは今日にて足れり」とは聖書だったか。

昔も今も、人は考えすぎる生きものらしい。

粘菌になって生きてみたい。

 

 

 

 

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このページは、tsuyuが2012年1月23日 18:03に書いたブログ記事です。

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