2010年10月アーカイブ

国土保守は生活の根幹

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中国人が日本の不動産を買う勢いが増しているとのニュースに不快感を覚え、我が国は国土管理に甘さがあるのではないかと素人ながらひとり危惧していたが、なかなか報道の話題に上らないことが大きな疑問であり心配だった。

 

今朝のフジTVでこの問題を取り上げていた。

 

国土だ領土だと発言すると日本人は嫌悪感をあらわにする人は多い。個人レベルに置き換えてみたら良い。自宅の一部や所有地を誰かに貸せば、その領域は借り手の自由に使われ持ち主の思うようにはならなくなる。家主地主といえども、現在そこに生活を営む事実があると、取り返すには訴訟を伴うようなトラブルに発展することもある。

 

まして、国土となると、国と国との話。そう易々と外国人に土地を買いあさられて良いはずがない。絶対に外国人には不動産を買わせないということはできないが、国土保安上必要とあれば制約制限は決めるべきであろう。そして、しっかりと管理監督しなくてはならない。

 

私たちが安心して命つなぐ営みをしていられるのは、権利を守られた土地があってのこと。獣たちの世界でも、命つなぐ為には縄張りを死守する。ましてさまざまな策を弄する人間のこと、どのような手段で縄張りが侵略されるかわかったものではない。

 

同胞を冷淡に避けて外国人(特に近隣の国々)に対しては理解を示す人もしばしば見かけるが、自分の拠って立つところはどこなのか、今一度考えてみてほしい。無国籍的な国際人など尊敬される対象とはなり得ない。

 

日本では「協調性」が重要視されるのだが、これは集団への溶け込みであり埋没することが求められているように思われる。まずは確固たる個人があって、しかるのち周囲との距離を測りながら付き合っていけることが重要だ。こちらは「社交性」である。集団には「格」は無い。「格」を持てるのは一人一人の人間である。「人格」備えた人々の集まりだからこそ何かを為せるのであり、どんなに大きい集団でも「烏合の衆」では何にもならない。

と、これは今朝のNHK 教育TV「こころの時代・アーカイブス」で 故 森毅さんがおっしゃっていた。

 

個人レベルでは「社交」だが、国家レベルでは「外交」。何とかならないか、この国の社交下手・外交下手は・・・

今年、新聞のテレビ欄に「ハーバード白熱教室」なるタイトルを偶然見つけて視聴したのがきっかけで、ある問題に関して(ああか、こうか)と考えてみることの楽しさに再び出会うことができた。

 

問題を提起してああでもないこうでもないと日常会話で論ずると、だいたいにおいて「どこか違う場所で勝手にやって」と言われたり、場の空気が白けたりする。論ずる相手がいたのは40?50年前の高校時代まで。それも男子が相手のことが多かった。私にとっては、どんな雑談や娯楽よりストレス解消の時間だった。

 

ある問題を論ずることは、敵を作ることではないし恨みを残すわけでもないことが原則。多くの場合、その議論で結論を得ることは望んでいないし、まして、何かことを起こすために議論をするわけでもないから。そうした非生産的な議論によって思考を鍛えてきたような気がする。

 

「ハーバード白熱教室」は、そんな昔の自分を目覚めさせてくれるような番組だった。そして今夜は「ハーバード白熱教室の衝撃」と題して、あのサンデル教授の授業が日本人に与えた影響に関して取り上げていた。私はめったに「若さ」を羨むことはないが、今回ばかりは、若くしてあの教室に居合わせてみたかったと、学生たちを羨ましく思った。

おそらくこの問題は昔むかーしから論じられてきたことでしょう。およそ30?40年前、私が学校で「性善説・性悪説」という言葉を学んだ記憶があるのですから、"説"としてまとめられて教科書に載るまでのことを考えれば、誰かがどこかで、この問題を取り上げて検証してきたのだと思われます。

 

人間は、放っておけばどんなことを考え行動するのでしょうか?そもそも生まれたまま放置されて成長できる人間がいるのかということが真っ先に浮かぶ疑問です。自然の中の動植物であれば、親の手助けなしに成長する種もありそうですが、人間はそうはいきません。何らかの衣食住を保障されなければ命をつなげないでしょう。だから、放っておけばという前提は成立しません。

 

やはり、野生の動物も人間も、基本的な生きる術は、ある年齢までに親(またはそれに代わる存在)から学ぶのでしょう。それにプラスして社会から学ぶ。その積み重ねで「今」がある。

 

この問題は大き過ぎて、単細胞の私の頭で考えるには持て余してしまいます。

 

しかし、なぜこのようなことを書き始めたかというと、インターネット世界には付き物の悪質行為への疑問からです。ホームページとブログを継続していて、この不快な行為には悩まされます。削除の手間は惜しみませんが、削除する前には否応なくその行為が目に入ります。その都度、このようなことをしている人の生育過程で育まれた価値観や与えられた(または与えられなかった)行動規範について考えてしまいます。

 

インターネット上のことは、おそらく、無作為に面白半分でやっていることなのでしょう。そこには受け取る側の感情への慮りは欠如していると想像します。あるとすれば、どこかで誰かを困らせることができる自分への満足感でしょうか。幼稚としか言いようがありません。こうした子供じみた(本当の子供に失礼かな?)人が、他に対して大きな影響力のある道具を操ることには危険が伴います。かといって、人を選別して使用制限できるわけでもなし・・・

 

"善"も"悪"も、他者との関わりで成り立つ社会という場があってこその考え方のような気がします。ということは、何が"善"で何は"悪"かも複雑ですよねえ?

 

ま、簡単に言えば「私が嫌がっているんだから、やめてぇ?!」という訴えなのですが、こうした声を上げることが悪質行為者の快楽であり満足でしょうから、この問題の救いはなさそうですね。

 

大きく出て小さく終わった。本日の話題展開は、まさに「竜頭蛇尾」でした。

日本国憲法について

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なかなか落ち着いて読書するのも困難な昨今ではあるが、いま読みかけの本は「白洲次郎 占領を背負った男 上」 (北 康利:著、講談社文庫)。ちょうど、日本国憲法成立のくだりを読んでいる。

 

現行の日本国憲法については、改正すべきとの意見と擁護派とに分かれることは知っている。しかし、それ以上の深い見識は持ち合わせていないので、うかつに意見を述べることはできない。ただ、先の大戦終戦時にGHQの関与で制定されたことに対しては、いささかの残念を感じる私ではある。

 

「白洲次郎 占領を背負った男」で、その憲法が如何にして作られたのかを詳しく知ると、なおさらに今一度日本国民の手で憲法を見直してみたい欲求に駆られる。たとえその結果が現行憲法を肯定するとしても、私たちが積極的に検討した末の「是」として受け入れたい。

 

同じ敗戦国でもドイツでは、終戦時の制定はあくまで暫定であり、後日改正可能との条文が付け足されていたと知ると、なおのこと、我が国の尊厳を国民として自覚する為にも憲法について議論が沸き起こってほしいと思う。

 

それにしても、日本人は、プライドをかけてあくまで闘うということを昔も今もしない民族かもしれないと思う。意見の対立が生じたり、力の強い側が横車を押したりしても、駆け引きも取引も交渉もしないでサッサとひいてしまうのが"大人"だとする風潮は、たしかにありそうだ。よく言えば「柔軟性・順応力」が高い、悪く言えば「事なかれ主義」。なるべく面倒な事は起きないでほしい、発生したらしたで関わりたくない、知らぬうちにうやむやで消えてくれればそれでよし。しかし、事に当たっては、どのような結末を迎えようとも、一度は自分の思慮信念をかけて体当たりで行動した末でないと、後日に悔いが残ることになる。その悔いが自分ひとりのものであれば自業自得とも言えようが、後の世代に大きなツケを遺すのであれば問題だろう。

 風邪ひきあがりの明日は出勤なのだから、今夜は、早め早めに片づけて就寝しなければならないところを、タイトルと予告に興味を覚えてTBSドラマ「塀の中の中学校」を最後まで観てしまった。明日の朝が心配だけれど、最近、朝はきっちり時間どおりに目が覚める。年とった証拠。

 

 「塀の中の中学校」とは、長野県松本市に存在する少年刑務所内に実在する公立中学校分校をモデルに作られたドラマ。さまざまな事情で義務教育を終えることができなかった受刑者が、労働を免除されて一年間を中学生として学び、中学卒業の証書を授与される。

 

 受刑者を演じた5人の男優さんの演技は見ごたえがあった。最近多い、浮ついて騒々しい番組とは違う。女優さんは出てこない。良い作品だった。

「今夜も生でさだまさし」

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 不定期(?)だけれど、土曜深夜0:00からNHK総合で放送される「今夜も生でさだまさし」という番組を楽しみにしている。各地方の施設内に設けられた簡易な会場で、番組あてに送られてきたハガキを、さだまさしさんが延々読んでコメントトークをするという企画。生番組でテロップも手書きという、なんとも手作り感あふれる番組。今夜は熊本から。最後まで視聴すると、時刻は午前2時近くになっている。

 

 たまにさださんのコメントが、中立公平を旨とするNHKの方針から脱線しそうになると「意見には個人差があります」という手書きの紙が出される。けれども、発言を止めたり言い直したりしないところが私は好きだ。意見には個人差があって当たり前だし、それを発言してはいけないとなると窮屈だから。

 

 読み上げられるハガキの内容がまた面白い。身近な話題をつづってあるのだけれど、「なるほどなあ」と思えることや「ウフフ」とほのぼの笑えるエピソードなどなど。デジタルばやりの昨今にあって、ハガキと生放送とおしゃべりで構成されているこの番組の楽しさ面白さは、めっきりスローになった私の頭の回転に無理なく納まる。

 

 途中でさださんの歌も聴けるのだが、今夜は「静夜思(せいやし)」という曲だった。十三夜の月に照らされて過ぎし日々を回想する情景が穏やかに静かに歌われた。歌詞がハッキリ聴き取れなかったので、あとで調べてみたい。

 

 騒々しいばかりのテレビ番組が多くなり、見たいと思えるものが少なくなった一方で、たまにこうした番組にも出会える幸せ。次回は10月30日高知から。忘れていなければ、また見よう。

暗中模索のままに

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 ここ数カ月、職場に、英国から来た若者が週一回仕事に来ている。彼のルーツは日本。遺伝子としては純粋日本人。けれども彼は英語を母国語とし、教育は英国で受けた。

 日本の社会ではいまだに、言葉が通じない相手とは距離を置く傾向がある。そんな雰囲気になじめないまま、中途で仕事を辞めていった外国籍の人を幾人も見てきた。

 今回の若者には、そんな中途挫折をさせたくないと、呆けかかった頭にむち打ち、ほとんど忘れてしまった英語を無理やり引っ張りだしながら彼のサポートをしている。明朗な本人の性格もあって、幸いにも、今のところ順調に事が運んでいる。

 おぼつかなくなった英語と日本語を交えながら彼と話して知ったのだが、彼は卒論テーマにアイヌを取り上げたのだという。そこには民族的な"差別"の問題も含まれていたようだ。どうやら彼は日本という国に来ることで自身のアイデンテティを追求したいという来日目的を持っているらしい。おそらく、外見はすっかりアジア人でありながら、イギリス社会で育つ過程で生じた何かに問題意識を抱いたのだろうと思われる。近年の日本の若者にはなかなか感じられない手ごたえを、イギリスからやって来た見た目すっかり日本人のこの青年に感じている。

 残念ながら、この青年に、彼のルーツが日本であることに誇りを持たせられるような状況にはないというのがこの国の現状だと思う。それでも、何とか彼の助けになりたいと微力をつくしている。暗中模索ながら。

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