2010年2月アーカイブ

 「犬も歩けば棒に当たる」とは言うが、当たるのは何も棒ばかりではない。家の中にじっとしていては知りようのない情報も、あちこち出歩けば得られるというもの。今日はそんなことを実感した一日だった。

 野暮用で訪ねた先で「今日は弁天さまの豆まきがある」との情報を得た。他に急ぐ用事があるわけでもなし、このところ運動不足でもあることだし、弁天さまにもご無沙汰しているし、ちょっと参拝がてら豆まきを見物して来るか。ということで弁天さまへ。

 13:30からと15:30からの二回の豆まき。自分は13:30の回に間に合うように出かけた。寺では読経の真っ最中。外ではそれなりに大勢の人々が今か今かと豆がまかれるのを待っていた。今日は冷たい北風が吹きつけるあいにくの天気。この風だと撒かれた豆は吹き飛ばされてこっち方面に来るかと、誰しもそう考えたのであろう、風下に人が多い。撒かれる豆の中には豪華景品の当たる引換券が入ったものも混ぜられているとかで、人々の関心も、もっぱらそちらのようだった。

 撒き人が姿を現した。

 私は、行くまでは豆の一つでも拾えれば良しと思ったが、回廊近くに陣取った人々を見て「こりゃあとても拾えないだろう」と諦めた。人ごみの後ろの方に立って豆まきの賑わいを見物するだけで良しとしようと決めた。

 案の定、撒かれる豆は回廊近くばかりに落ちる。「やっぱりね」と思って見ていると、撒き人の一人(県議員男性)が、後ろの方にまで豆が届かないことに気配りして、ときどき勢いよく投げてくれる。その中の一つが、私の前にいた男性が伸ばした手をかすって私の胸めがけて飛んできた。まさに「受け取れ」と言わんばかりの角度だった。下げた手をパッと持ち上げるだけでストーンと受け止めることができた。

 それは、ひと袋の即席塩ラーメン。ものは何だっていい。これこそ弁天さまから頂いた福に違いないと思えた。嬉しいな嬉しいな。何か良いことがありそうな予感。だって、まさしく「福」が飛び込んできたのだもの。

 それにしても、全体を見渡して豆の届きそうにない所にまで気配りできるあの県議、なかなかの人物。こんど改めて名前を確認しておこう。たかが豆まきとあなどるなかれ、人はどこでどう見られているかわからないもんだ。公の立場にある者は特に、心して動いたほうが良さそう。

映画「おとうと」

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 事前の宣伝番組を見て、多大な期待を抱きながら、封切りの日に映画「おとうと」を観た。
 観客はシニアがほとんどで、この時代にすれば多くの集客なのだろうと思われた。

 職場の同僚に「泣いてくるからね」と前置きして、私はこの映画を観た。しかし、大泣きするまでには至らなかった。それは何故なのか?盛り込まれたエピソードが自分の想定内であったことに起因しているからではないかと私は思う。つくづく、長く生きていることの功罪を考えさせられた。熟年者は、波乱万丈の生を渡り歩くほど、少々のことには感動を覚えないのかもしれない。

 ヒロインの吉永小百合さんは、今ではもう出現することはないであろうと思われるほどの女優さんである。彼女の出演する映画には共通して小百合色のような雰囲気が漂う。そちらに意識が奪われたことも、この映画を社会問題として捉えることができなかった要因のようにも思う。個人的には、吉永小百合さんは大好きなのだが、その偉大さゆえに、出演映画がみな同じような方向性に見えてしまうのは残念だ。

 話は一変して現実社会に及ぶが、ホームレスやネットカフェ難民に若者が増えているという。しかも、女性の数が増加しているという話がある。それを見聞きして、私はいつも「親は何をしているの!」と思わざるを得ない。20代30代で帰る家が無いなんて・・・いったいどういうことなんだ!現役世代に厳しい雇用情勢の中、その親と思われる年齢世代は現行制度の恩恵を受けて生活を成り立たせているのではないのか?ならば、わが子の窮状を救うべく「とりあえず実家に帰って来いよ」とは呼びかけないのか?わが子さえ冷たく放置する世の中で、「きょうだいは他人の始まり」と昔から言われる"きょうだい"が、厄介者を温かく見守ることなんてあり得ない時代ではないだろうか。

 笑福亭鶴瓶さん演ずる"おとうと"は、何度も姉の家を訪問している。しかし、いまの時代に、鉄郎と同じような"落ちこぼれ"が親戚を訪ねたとしても、はたして受け入れてくれる縁者があるだろうか?目の前に突然現れれば、その日は仕方なく対応しても、二度と関わりたくないと連絡を絶たれるような気がする。死に際の看取りなど望むべくも無いだろう。
 "おとうと"は自分の死期を悟った時、初めて、「自分の存在はこの世に無かったもののごとくに消えよう」と思ったのではないだろうか?誰かに存在を確認して欲しいと願い続けた一生の最期に、存在は無かったものとしなければならない存在とは?山田洋次監督は、そこに姉と姪を送り込む。そして、息を引き取る間際に、その存在を肯定する設定を演出した。なんともやりきれない設定ではあるが、現実はこうならずに孤独死として死後発見されるというケースが増えている。

 映画というフィクションじゃないよ、明日はわが身だよ。財や物に囲まれていても、死に際の孤独は人によってしか癒されないことは、生あるうちに考えておいたほうが良いんじゃないかなあ。聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が「どう死にたいかを考えることで、今をどう生きるかが見えてくる」とおっしゃる言葉を、いま一度考えてみたくなる。孤独のうちに死ぬにしても、誰かに看取られて死ぬにしても、自分の死に方への覚悟は決めておかないとなあ・・・と思う。

 家族だからきょうだいだからという絆に安堵が見出せない時代。それはそれなりに覚悟を決めて順応して行くしかないのだろうかと、暗くなりがちな考えに何とか明るい方向性を探るこのごろ。

 ちなみに、死の間際に、姉と弟がリボンで手首を結わえあうエピソード。実は、私の母も、父が亡くなった夜に、苦しかったら起こしてと手首をひもで結わえて寝ました。しかし、父はそのひもを引っ張ることもなく静かに息を引き取っていました。映画のあのエピソードを観て、父の亡くなった夜を思い出しました。

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