2009年8月アーカイブ

選べと言われても

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 国の行方を左右する分岐点になるであろう国政選挙が近づいている。熱を帯びているのは(選んで欲しい人たち)であって、決して(選ぶ人たち)ではない。いやいや、(選んで欲しい人たち)でさえ、いまや疲弊しきっているように見える。実は誰も、難しい舵取りを迫られる現況を引き受けたくはないのではないかとさえ思える。後援会の手前とか権力・肩書き・待遇などの特別扱いの魅力に引き寄せられて名乗りを上げている人たちはいないだろうか?時の波に乗れそうだという計算づくの人はいないだろうか?

 本当は誰にも一票を投じたくない。信じられるのは自分だけという社会にしたのは誰だ!財と肩書きにひれ伏す社会にしたのは誰だ!底辺のそのまた底辺に生きる者が、もはや方策無しという絶望を道連れにトボトボ生きなくてはならない社会にしたのは誰だ!そう糾弾しながら、そういう無責任極まりない船頭たちを選んだのは私たちだった。だからもう、変わりばえのしない顔ぶれの誰にも票を投じたくはない。

 その国の政治のレベルは国民全体の意識レベルの反映というのが当たっているなら、現在の状況は、あまりにも悲惨だ。そして、そのことを否定できないでいる。

 誰かを選べと言われても選択できるほどの差異を見出せないまま、投票日が近づく。このくそ暑いさ中に薄ら寒い投票行動が強いられる。

見上げれば、秋

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こどものころからそうだった

ひとりでねころんで

そらをみあげているのが

すきだった

 

わたがしのような春のくも

かがやいてわきあがる夏のくも

さざなみのような秋のくも

ゆきをふらせる冬のくも

 

もうなんじゅうねん

そらをみあげているのだろう

 

きがつけば

ことしも

すでに秋

 

 

 

私のツユクサ

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 ここ数年、初夏になるとベランダにツユクサを植えて、毎朝の花を楽しんでいます。散歩の途中で道端のツユクサの苗を一株持ち帰り鉢に植えておけば、長い間次から次へと開花が楽しめます。安上がりで手がかからない丈夫さと、爽やかなブルー、可愛い花姿が好きで好きで大好きです。

 

 私はいろいろなことを考え過ぎる傾向があります。どんなに考えたって、発想の基になるのは私自身の狭い経験と乏しい知識の他は無いのだから、普遍の真実に近い思考結果が得られるはずもありません。それなのに考えてしまう。

 考えること自体は悪いことではないでしょう。ただ、いつまで経っても結論に至らないのであれば、その思考は一旦停止して関心を他に集中すべきなのに、その転換が下手なのです。わかっちゃいるけど、なんですね。

 

 あれにもこれにも引っかかり、躓(つまづ)いて、クヨクヨイライラしてしまう自分を慰め励まし勇気付けてくれる花がツユクサです。さ、嫌なことは全て忘れて、日々新たなりで生きることにしましょう。日々新たに咲き続けるツユクサのように、ね。

網戸にセミが

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 大好きなエンヤの曲を流しながら、久しぶりの晴天に勇気付けられて部屋の片づけをしていました。すると、いきなり「ジージージリージーッ!!!!」という大音量の雑音が!網戸にくっついたセミが鳴いていました。ビックリしたなあ、もお?っ。

 このごろ頻繁に、樹木の下を歩いている時にセミのおしっこをかけられます。はあ・・・私に何か恨みでもあるの?(笑)もちろんそんなことはないでしょう。だって、私はセミに何もイタズラしてないもん。ま、何年も地中で過ごして、短期間の地上生活に気ぜわしいセミのことだから許してあげましょう。

こんなの初めて

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 郵便受けに投入されていた北欧の家具やさんのカタログです。他の業者のチラシ類なら毎日のことですが、こんな立派なカタログが無料配布されるなんて初めてです。通販のカタログだって要求しなければ貰えないし、たとえ無料でも各戸配布ではなく書店や駅などに置いてあるものだと思っていましたから、この会社は「なんて太っ腹?」と感心することしきり。

 で、ブログのネタに取り上げてみました。

 

 ちなみにここいら近辺では、この家具やさんの店舗は船橋にあるようです。テレビで数回取り上げていたのを見たことがありますが、ひろーい倉庫のような店内ですね。

 

 が、カタログを無料で貰ったことを私が喜んでいるわけではありません。(は?、またまた古い雑誌として束ねて階下の資源ごみ置き場へ運ぶ物が増えちゃったよ)というのが正直なところです。こういうカタログって、意外に重いんですよね。

 ずしりと重いものを受け止めた三日間の視聴でした。

 先の戦争は何故始まり、どのように遂行され、如何なる方向で終結されたのか。全体を見通せるのは、時の司令に所属していた人物でしか語り得ない事柄です。軍部が国の中枢を支配する社会では、一市民は言うまでもなく、下部組織の人間ですら反発も抵抗もできなかったことでしょう。考えるだけでも恐ろしい社会です。

 全ての人間が同等の暮らしぶりができれば、また違った社会もあるのでしょうが、残念ながら現代で知る限りどこの国にも上下関係や格差はあるようです。そうなると支配する者とされる者が分かれるのですが、権力とは魔物で、それを握った人間に優越感情と特権意識を生じさせるのでしょう。「自分は特別に選ばれた優良なる存在である」との。

 組織の中での上下や学識教養など、作業をこなしていく上での便宜的な役割技術といった位置づけにしか過ぎず、その人間の人格や存在意義とは関係ないものだと思うのです。

 事を始めるなら必ず、事前の計画と進捗状況の見直し検討、そして事後は反省が為されなければ次につながらないと思います。その意味において、この400時間に及ぶ先の戦争に関する反省会テープが今後に生かされることを願わずには居られません。

 改めて、全ての戦争犠牲者に哀悼の意を表したいと思います。

沈黙は誰も救わない

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 昨夜からNHK総合TVで放送されている「NHKスペシャル:海軍400時間の証言」(22:00?23:00)を視聴している。太平洋戦争で主要な地位にあった元海軍将校たちの戦後30数年を経ての反省会の録音テープをもとに構成されている番組である。先の戦争に関しては、さまざまな評価や解説が識者によって為されてきたが、その当時実際に関わっていた人たちの言葉は生々しい事実を知らしめてくれる。参加者の平均年齢が70?80歳ということから、当事者自らによる振り返りが記録として残されるのはこれが最初で最後なのかもしれないと思いながら視ている。

 今夜は「悲劇の神風・人間魚雷 明かされた特攻の真実 なぜ若者たちは死地へ 将校の告白」がテーマ。
 決死の特攻は戦争の作戦として採用してはならないものだと皆知っていたのに特攻は始められ終戦まで止められる事はなかった。それはなぜなのかと問題提起する一人の元将校の発言に対して、30数年を経た反省会の席上で「あれは必要かつ有効な作戦であった」と確信もって意見を述べる人はもとより無い。実は、当時でさえ皆、特攻はすべきでないと考えていたようだ。
 では、なぜ特攻作戦は実行に移されたのだろう。そこに、組織の中で個人の発言が通りにくい、大勢や強い者の意見に逆らえないこの国の体質が見えてくる。そうなると大方の人は黙る。異論を胸に抱いていても、組織におけるわが身の不利益を考えると「沈黙」するのが一番の保身であるから。反省会テープの中で、その沈黙を一人の元将校は「やましい沈黙」と表現した。
 「やましい沈黙」は、日本を背負ってくれるはずだった若者たちをむざむざ死地に赴かせることになった。そして「やましい沈黙」をした上官たちもまた、生涯消えることの無い十字架を背負って生きたのだろう。だれも救われていない。

 国は人あってこそ成り立つものであれば、国の存続を考える時に一番重要視しなくてはならないのはそこに集う人々の『命の保障』であることが原則となる。そのことを無視した結果が特攻作戦実行であったと、番組は訴えたかったのだと受け止めた。

 戦後64年を経た現在、一見は何をしても何を言っても自由な風潮のように見えるこの国で、はたして「やましい沈黙」は無くなったのだろうか?残念ながら、私にはそうは思えない。言おうがしようが大したことではないことは皆勝手気ままにできるのだが、どうしても譲れない重要なことに関しての発言や行動は、いまだに「無言の圧力」がかかり「周囲からの孤立」という集団制裁が厳として存在すると感じている。

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