異見と人権



(今から11年前、当時の長崎市長が暴漢に襲われて負傷した。その時に書いた一文である。そのニュースに接して、強い思いに駆られてこれを書いたのだが
 現在では、似たような状況に遭遇した時、これほどの正義感で一文を書く自分だろうかとの思いがある。何を見聞きしても無力感に負けて諦めてはいないだ ろうか。)(2001/10/28)



長崎市長が撃たれた。
彼の「天皇の戦争責任」に関する発言のゆえである。

その夜、TBSテレビのニュースショー(筑紫哲也23)で筑紫哲也が発言した。
「議論の相手と主張が異なっても、相手の人格は認めることが重要である」と。

議論をしない日本人。議論の席につけるほどの定見さえ持たぬかに見える日本人。いつまでも「シャンシャンシャン」の手拍子で、何となく気持ちを通じ合った錯覚に流されていて良いのであろうか。

コミュニケーション手段として言葉を修得した人類のはずである。意見の相違をみた時にこそ言葉を使わずして、何の言葉であろう。

ねじ曲げ、ささくれ立った言葉の投げあいと卑怯な沈黙から、いきなりの実力行使へと移行する状況が日本国内のみならず目立つ。

言論統制が布かれている国は言わずもがな、言論が自由とされている国においても、個人の主張を潰すのは造作ない。片や法律で取り締まり、一方は黙殺することにより発言および発言者の存在すら無きものにしてしまう。

見解が異なることが相手の人格まで抹殺し得る条件であるのだろうか?

「大きいことはいいことだ」式の量と力に依存した考え方に限界がきているのが今日(こんにち)の状況ではなかろうか。

社会にルールを作った基本を問い直せば、「生きとし生けるものが全て、心地よく存在できる」ことのためとは言えないだろうか?

意見の違いは語り合い、歩み寄り、認め合う。その上で、他を侵さず住みよい社会を維持することは不可能だろうか。

力に訴えてはいけない。それが権力という力であろうと暴力という手段であろうと。

そこにこそ、人権を踏まえた「言論の自由」が保障されるものと信じている。

(1990/1/18)