「一人で考える」  2002年5月3日


 何気なくつけたテレビで、作家・辺見庸氏のインタビューをやっていた。途中からだったけれど最後まで見た。

 「独考独航」、これは辺見さんが請われると色紙に書かれる彼独自の言葉だという。(独りで考え、独自の人生を生きていく)くらいの意味だと思う。インタビューの中で辺見さんが集団に与するのは潔しとしないと述べておられた。ここにも、自分と同じような想いでいる人を見つけて、改めて自分なりの生き方を大切にしようと心新たにした。

 人は独りになりたくないために、とかく集団に帰属したがり自説を曲げても大衆に埋もれようとしがちである。確かに、独りで主張し独りで行動することは誹謗・中傷・妨害を受けやすく、集団からは安易に排除されてしまいがちではある。そしてそれは、たいていの人にとっては耐えがたい孤独でありストレスになるのだろう。

 辺見さんはこうも語られた。「今何が見えるか、見えているかより、今何が見えていないかの方が重要だと思うんです」。それは即ち、かつてノーベル賞の受賞記念講演で語られた大江健三郎氏の【想像力】に通じる言葉だと受け止めた。情報あふれる時代に生きて、多すぎる情報は想像力を奪ってしまう、と辺見氏。

 人の噂というものは、大げさに尾ひれをつけて広まっていくものである。そして、それらは大抵が悪い噂であることが多い。なぜか人は、誰かの良いことは伝えていかないものらしい。スキャンダラスな話ほど、そして、本人を知らない人ほど話を誇張して面白おかしく伝えていく。その噂が本人の人生をどのように狂わせようと、噂する人たちには関わりの無いことだし考える必要の無いことだからなのだろう。

 では、目の前に本人が現れて、噂と現実が違ったときに、噂で盛り上がった人たちは本人への見方を改めるだろうか?それがなかなかそうはいかない。噂を信じた自分の不明を恥じるより、噂どおりの面を探して排斥の対象としようとするか、噂をした後ろめたさからか無視しようとすることが多いような気がする。それは、噂で盛り上がった仲間同士という集団から外れたくない保身の意識が働くからではないだろうか。

 集団に埋没していると自ら物事の判断をしなくて良い場面が多い。塊の一部として転がり流れていけば、余所見をしていても目をつむっていても、いつかはどこかにたどり着く。しかし、そこは自らが悪戦苦闘の末に行き着いた場所ではない。私はそんな場所に漂着するのは嫌だ。

 テレビを見ながら、そんなことを考えた祝日の朝。