2006/5/30 (火)  晴れ のち 曇り 一時 雨

「真実」

よいではありませんか
こころ寄せ、寄せられたと思った人が去ったとて
あなたはそこに在るのですから

人はみな移ろう夢の中に棲んでいます
永久(とわ)を誓う愛情も友情も
すべては夢の中のできごとです

真実はひとつ
真実は不変です
人は真実の青い鳥を求めて移ろいます

だれかがあなたのもとを去ったのなら
それはおそらく真実ではなかったのでしょう
こころ変わりは人の常です

よいではありませんか
今日の知己(ちき)が明日は他人でも
あなたはいまたしかに在るのですから

いまここに在る
そのことこそが真実なのです

真実不変
万物流転

2006/5/27 ()  雨

「海上保安庁 観閲式」

今日は、海上保安庁の観閲式に行ってきました。


↑乗せて頂いた巡視艇「ちくぜん」です。福岡から式典のためにやって来ました。

事前の天気予報では雨。週始めからこの日の天候が心配で心配で・・・。たとえどんなに雨模様でも、式典が挙行される限り必ず行くと決めていました。時おり風雨が強まりはしましたが見学にさしさわるほどではなく、航空機の受閲が中止されるという変更があったものの、無事に式典は終了いたしました。


↑海上保安庁マスコット「うみまるくん」

以前にも増して人気者になっていました。記念撮影にひっぱりだこ。ハイ、私も一緒にカメラに納まりましたよ。途中で奥に引っ込み、直後に再び登場した時には少し背が高くなっていたような・・・ははは、そんな突っ込みを入れてはいけませんねぇ〜。

昨今の、日本周辺海域が抱える難問題の数々を考えると海上保安庁の任務はますます重要かつ厳しくなっていると思われます。日本の国境は全て海上にあります。どのような友好思想を支持しようとも、世界を構成する単位が国である限り国境の守りは疎かにできるものではありません。

多くの人々に、海上保安庁への理解と支援が広まることを強く願っています。

2006/5/23 (火)  曇り 一時 小雨

「悲しい」

子供たちが犠牲になる事件が相次いでいる。

体力的にも社会的な立場においても未成熟な幼い存在に手をかけるなど『鬼』の仕業に違いない。いやいや、そのような比喩表現は『鬼』からも抗議を受けかねない。

なぜなら、多くの子を産み育て、我が子は可愛がりながら他人の子どもは食っていたという鬼の母も、お釈迦様のみ教えで改心し、以後は安産・子育ての守り神となった鬼子母神の話もある。

鬼といえども魂の根底には「慈愛」が存在すると、その話は教えているのだと思う。

ところが、現代の鬼たちはどうだろう?はたして、その魂の根底に「慈愛」は眠っているだろうか?眠っているのだとしたら、その魂はいつ目覚めるのだろうか?

〜仏・菩薩が衆生(しゅじょう)をあわれみ、苦を除き、楽を与えようとする心〜のことを仏教では『慈悲』という。この言葉には『悲』という文字が含まれる。

闇の世界で心彷徨(さまよ)わせ、あげくは互いを傷つけ合い不善を積み重ねる衆生を、仏は(悲し)まれながらも(慈し)んでくださるということなのだろうか。

仏教で教えるところの『末法』とは、今の時代かも知れないと、ふと思ったりする。

2006/5/22 (月)  晴れ  やや強風

「日常雑感」


いつもの場所でいつものように
長い長い信号待ち
視線は道路わきの畑に向かう

咲いた咲いた今年も咲いた
一面のヒナゲシ 赤い花


この畑の地主さんは、どんなお考えでここにヒナゲシを蒔かれたのでしょう。
お陰さまで、毎年楽しませてもらっています。

2006/5/20 ()  雨 ときどき 曇り

「映画 『ダ・ヴィンチ・コード』」

今日から映画館で公開される映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきた。

ダ・ヴィンチという名前とモナ・リザのポスターに惹かれて、これはぜひとも観てみたいと思っていた作品。

まあ、それなりにストーリーを追って最後まで観ることはできるけれど、前宣伝を見て期待したほどの感動とか問題意識を喚起されるといった変化は、自分の中には生じなかった。

チラリと思ったのは、この映画で扱われているテーマがキリスト教に関するものであることが大きな原因なのではないかということ。キリスト教の信者にとっては関心事であっても、宗教を異にする鑑賞者にとって、この映画で扱われているテーマはさほどの重大性を帯びて迫ってこない。

むしろ、この日の夜放映されたダ・ヴィンチとその関連についての探求番組の方が面白かった。

最近、邦画ががんばっているのだそうだ。なんとなく「そうなんだろうなあ・・・」と思える。

そういえば、「海猿」も近々観に行かなくっちゃ!

2006/5/14 ()  曇り

「小さな愉しみ」

昨年から徐々に落ち込んでいた体調が回復して来た。途端に表を歩きたくなる。意味も無く、目的も無く。それを「散歩」と言うのだと指摘されれば、そうかも知れないと肯(うべな)うしかない。「散歩」と称するほど優雅なものでもないのだが。


桐の花が落ちていた。樹下に佇んでいると、次から次に落ちてくる。ちょっと並べて遊んでみたりして・・・


ネギ畑にはネギ坊主が・・・

いずれも小さな愉しみ。歩くことは、命の営み探し。

2006/5/13 ()  雨

「雨の中を・・・」



駅へ向かって歩いて行くと、目の前を通り過ぎた男の子がひとり
エッチラオッチラ自転車をこいでいます。
頭の上にはハンカチが乗っかって・・・

えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、雨が降ってきたぞ〜
そうだ、ポケットにハンカチがあったんだ
頭は濡れちゃあまずいもんなぁ〜
これを頭に被ってっと・・・
急げや急げ、お家に帰ろ〜

といった風情の男の子でした(ふふふ)
お家に帰ったら着替えるんだよ、と後ろ姿に声をかけたくなるようなひとこまでした。



こんな器を衝動買いしました。
スーパーの前で陶器を売っていた中に見つけた物です。

今日は映画「明日の記憶」を観て来ました。
関連URL: http://www.ashitanokioku.jp/

2006/5/7 ()  曇り ときどき 雨

「雑感」

(あゝ、今年の大型連休も終わってしまう)と、今日は朝から少々気が重い。明日からはまた、日程に追われるように仕事仕事の日々が続く。

ちょっと前までは、休日明け直前には翌日からの仕事の段取りを頭の中で組み立てることができ、それなりに勤務に向けての気持ちの切り替えができていた。それがここ数年、特に昨年から、思うように気力は立ち上がらないしスッキリと頭の中の整理もつかなくなってきた。

(更年期?うん、きっとそのせいよ!)と、安易に年齢のせいにしている。

定年までの残り年数が一桁になったころから「あと何年」を数えるようになった。元気だけが取り柄だと突っ張っていた私にも、年齢の波はヒタヒタと押し寄せている。

今できることを今できる範囲でやって行こう。今は亡き両親が教えてくれた「手前の橋から渡って行くんだよ」の言葉どおりに。

2006/5/6 ()  晴れ のち 曇り

「のっぽさん」

昨晩、「NHKニュースウォッチ9」に(のっぽさん)こと高見映さんが出演されていた。(みんなの歌)で歌われた「グラスホッパー物語」が子どもから大人まで各年代を通して好評を博しているのだそうだ。詩は高見さんが書かれた由。


*大人は子どもに対して、相手がたとえ幼児であっても礼儀正しく一人前の人間として接したほうが良い。

*昔に比べると、子どもが社会の垢に汚れる速度が速くなっているように感じる。

*大人は、たとえ見栄を張り無理をしてでも、子どもの前ではカッコよく美しい姿勢(人としてのあり方全般の意)を見せなくてはならない。

*あらゆることに臆病風を吹かせて一歩退いてしまった自分の人生を振り返る時、子どもたちには勇気を持ってさまざまなことに挑戦してほしいと願わずにはいられない。

*子どもであっても、ひょっとしたら大人の私よりすごいかもしれないとの気持ちで、いつも敬意をもって子どもに接している。


掻い摘むと、だいたい上記のような内容のお話だったように思う。

「子どもの日」ということもあり、長年子どもと接して来られたのっぽさんのご出演になったのだろう。

ご多分に漏れず我が家でもNHK「できるかな」は毎回楽しみに観ていた。ひと言もしゃべらないのっぽさんと意味不明の声を発するゴン太くんの取り合わせは記憶に鮮明だ。不思議に惹きつけられる番組だった。

NHKの「できるかな」以外はテレビ出演をされないと聞いていたのっぽさんも、最近は少しづつ各局の番組に出ていらっしゃるようで、昔テレビを観ていた世代が懐かしく声をかけているのだそうだ。根強い人気の理由は、やはり、高見さんのお人柄の為せる技に違いないと確信する。




高見さんのお話を伺いながら、私はこう考えたのです。

たとえば、現在5歳の子どもに50歳の私が自分の5歳のころの経験(成功経験、失敗経験に拘わらず)を話してお説教したり指図をするのは見当違いなことかもしれない。なぜなら、私の5歳は完結しているのであり、既に結果の出ていることなのだから。

むしろ大切なのは、50歳の人間として5歳の人間と今、一緒に考えたり話を真剣に聴くことなのではないか、と。子どもだからと見下して、幼稚なレベルに自分を引き下げて子どもをあしらう態度は慎むべきのような気がするのです。

子どもは大人に比べると、あらゆる面においての経験は少ないかも知れませんが、『考える』という観点においては大人に比べても遜色はないのではないでしょうか。

多くを語って聞かせずとも、真剣に美しく生きようとする姿を見せることこそ大人の務めだと、のっぽさんは言いたかったのだと受け止めました。

2006/5/5 ()  晴れ   子どもの日

「どこまで報道すべきか?」

親が子どもを手にかける、子どもが親に手をくだす。なんともやり切れぬニュースが相次ぐ。

最近のニュースを見ていて少し気になることがある。「そこまで世間に公表しなくてはならないの?」というようなことまで短時間に調べ上げて報道されることが多くなったこと。平穏に普通に暮らしていたであろう時期の写真まで見せられると「この写真はいったいどこから出てきたの?」と、そちらの方が気になって仕方がない。

事件発生の即時報道は仕方がないとしても、原因まで性急に掘り下げる必要があるだろうか? 公共の媒体を通してさまざま世間の目にさらされるということは、その周辺にいる人たちの日常にも影響を及ぼすであろうことは想像に難くない。

世相は読み解かれて後世の過ちの予防に役立てられなくてはならないとしても、あからさまに、あたかもさらし者のごとく報道されるのはいかがなものかと、最近つくづく考えさせられることが多くなった。


「高く昇れなくてもいい、早く昇れなくてもいい、人生の階段は決して踏み外さないで」と強く訴えたい。

2006/5/3 ()  晴れ   憲法記念日

「オイラ、怪木カネゴンです」


食っちゃうぞー


食っちゃった