2006/4/30 ()  晴れ のち 曇り

「国営ひたち海浜公園」



ネモフィラのブルーカーペットを見に茨城県ひたちなか市まで行ってきました。

強い潮風が吹き付ける砂地の丘にネモフィラは、けなげに咲いていました。

往路も復路も常磐自動車道は快適に通行。目的地の公園も、さほどの混雑は無くて、
のんびりと潮風にあたりながら花を愛でることができたのです。

楽しい一日でした。

ラズベリーと生乳(せいにゅう)のソフトクリーム
美味しかった〜♪

2006/4/29 ()  曇り ときどき 小雨   みどりの日

「車にテレビは必要か?」

どんな交通事故でも、当事者が現場から逃げることは許し難い。犯した過ちの責任はキッチリ引き受けなくてはならない。それが嫌な人間には、ひとつ間違えば「走る凶器」となり兼ねない車を運転する資格などない。

近年、悪質なひき逃げ事故が増加しているような気がする。たぶん、逃げたドライバーには過失の自覚があるから逃げるのだろう。

先日、市内で、道路を横断中の女子高校生三人がひき逃げされるという事故があった。二人が骨盤骨折などの重症、一人が軽傷を負った。

事故の翌日、警察はヘリコプターで空から目撃情報の提供を呼びかけていた。逃げた車はナンバーや車種などを目撃されており、間もなく犯人は逮捕された。40代のその男は無免許で、事故当時カーナビのテレビに気を取られていて歩行者を見逃したらしいと後日報道された。

常々疑問に思っているのだが、車にテレビがなぜ必要なのだろう?助手席の誰かの為?運転中は見ないからいいじゃないか?見逃せない番組があるから?どの言い訳を聞こうと納得できない。なぜそんなに四六時中テレビを見なければならないのか?

すでに多くの車に普及しているカーナビも、果たしてどれほどの切迫した必要性があるのやら・・・。このごろやたらに近所の小道が混み始めたのはカーナビのせいか?道不案内らしい車が狭い生活道路でためらいがちに移動しているのに出くわす事が多くなった。

前方に神経を集中させることが絶対条件の自動車運転中にモニター画面を見ることを要求される道具を装備することには無理があるのではないだろうか?

必要に迫られて車の運転を放棄するわけにはいかないのだが、毎日ヒヤヒヤしながらハンドルを握っている。

2006/4/27 (木)  曇り ときどき 小雨

「身辺整理」


ゴールデンウィーク間近
私の心は勇み立つ
こんどこそは身辺整理を、と

大型連休に決心し
小型連休に決心し
盆の休みに決心し
年末年始に決心し

決心したまま行動は伴わず
決心はそのまま葬り去られ
毎年毎年幾年も繰り返して
今日(こんにち)に至る

何から整理すれば良いのやら
捨て去るには
あまりにも重過ぎる過去の堆積

2006/4/26 (水)  晴れ どきどき 曇り

「期待」

期待するからあてがはずれる
要求するから断られる

怒るなかれ
嘆くなかれ

所詮は浅はかな欲望に過ぎぬ

期して待つことなき日々の
なんと清々しいことか

すべては成る
成るようになる

2006/4/9()  晴れ

「詩集『自分の感受性くらい』」

新聞の新刊広告を見て、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」(花神社)という本を買いたいと思った。書店を二軒まわったが店頭に無い。取り寄せなら、ということで依頼して来た。

「自分の感受性くらい」という詩に衝撃を受け、生き方の見直しをする読者は多いらしい。そういう私もご多分にもれず、日々の怠惰な感情のうつろいに身を任せていることを反省させられた一読者である。

茨木のり子さんは、つい先ごろお亡くなりになった。もう、あの潔い言葉は紡ぎ出されないのだと思うと残念でならない。

昔々の大昔、この世に言葉が生まれ文字ができてから、いったいどれだけの人がどれほどの文章や詩歌を綴ってきたのだろう。そのどれを比べても一言一句同じものはない。百人いれば百の、千人いれば千の言葉の紡ぎがある。そして、その数だけ人の感情がある。

かの有名なフロイトやユングらによって人の心理を分類分析しようという試みが為されてきたが、こればかりは結論の出ない学問分野のように思えて仕方がない。

感情の袋小路に迷い込んだときや自分を見失ってしまった時、下手に心理解説本を読むよりも、一篇の詩や短歌や句に心救われることもある。また、そのような精神安定剤のような言葉を持っているのも良いものだ。

依頼した詩集が手もとに届く日を待っている。

2006/4/6(木)  晴れ

「漢字」

「これパソコンの変換で出て来ないんだけれど、他に何と読み替えできるかなあ?」と、同僚が訊ねてきた。それは「ふく(福)」の旧字体。偏の部分が(ネ)ではなく(示)の字体である。

「福」は「ふく」としか読みようがなく、結局(示)偏の「ふく」は手書きで作って入力するしかない。

確かに漢字はその数も多く、同じ漢字に字体が何個もあったりする。パソコンの辞書機能にそれらを全て網羅することはできないのかもしれない。常用漢字でたいていの用は足りる。
今どき、あえて画数の多い旧字を使うことはないと考えた方が実情に合っているのだろう。

が、最近やたらと難しい漢字で子どもに命名する若い親たちが多くなったように感じる。

昔、「ねぇ、ねぇ、『薔薇』って書ける?『醤油』って書ける?」というテレビ・コマーシャルがあった。難し過ぎて誰でもは書けないであろうことが前提のセリフである。最近、これらの字に近いような漢字を子どもの名前に使っている場合もある。子どもが成長して、自分の名前の画数の多さに閉口する日が来るかもしれぬとは考えないのかなあと、ふと思う。

パソコンと漢字、キーボードと鉛筆。手指が覚えない漢字の使い方をするようになった現代。これでいいのだろうか?少々寂しくもあり、不安にもなってくる。

2006/4/1()  晴れ

「あきらめないで」

目をそらすと見失ってしまいそうなもの

都会の夜空に見つけた星
散歩に出かけたうちの猫
枝から枝を渡り遊ぶ小鳥
雑踏の中のあなたの後ろ姿

そして 希望

目をこらせば また きっと見えるから
呼びかければ きっと戻ってきてくれるから

あきらめないで