2006/3/25 ()  晴れ

「恩賜上野公園」

うららかな春の陽気に誘われて、上野公園散策に出かけました。

天候に恵まれた休日とあって、園内は家族連れで賑わっていました。600円の入場料を払って入園した私はゴリラ舎目指してまっしぐら。

いました、いました、2頭のゴリラが広い運動場に出ていました。1頭はガラス壁の真下で睡眠中。もう1頭が草を食んでいました。もっといるはずなんだけれど・・・と思いつつ進んで行くと、他の3頭は、小さい中庭といったほどの場所にいたのでした。

どのゴリラも、なかなか動いてはくれません。そんなゴリラを見た若いパパやママが発する第一声は「ホラホラ見てごらん、いじけてるよー!」。う〜ん、そうかぁ〜・・・背を向けてじっと座るゴリラの姿は(いじける姿)に見えるのか〜。

30分くらいをゴリラ舎の周囲で過ごし、次はサルのいる場所に移動。そこでまた30分。

桜もボツボツ咲き始め、ゆったりとした時間の流れる上野公園でした。

2006/3/23 (木)  曇り ときどき 小雨

「ハクモクレン」

真白き小鳥の あまた止まりたるがごときハクモクレン
いまだ温もらぬ春の大気に にぎやかにさわやかに咲きほこる
そは 先に逝きたる人々が 黄泉(よみ)の国より戻り越し姿かな

時はいま 春彼岸
生きよ生きよ ちからのかぎり
黄泉(よみ)の小鳥は 現し世(うつしよ)の春を告ぐ

ハクモクレンの散らぬ間に
いざ踏み出さん この一歩

2006/3/18 ()  晴れ のち曇り

「お節介」

「だから、○○(待ち合わせの目印)は見えているんだけど、あなたここにもう来てるの?」
「うん、5分くらい前から来ているけど、あなたはどこにいるの?」
「☆*%$&@・・・」
「@*+#¥・・・・」

埒があきません。

人を待っている私の耳にそんな会話が飛び込んできました。場所は待ち合わせで有名な所。会話は、その場所に到着した二人が所在を探し合って携帯電話をかけている声です。

ぼんやりベンチに座って暇だった私にはその両者の声が受け答えとして関連もって聞こえてきました。二人は近くにいるのにお互いを確認できないのだと気がついて周囲を見渡すと、片方は私から一人おいた並びのベンチに座っています。(お相手は?)と振り返ると、わずか3メートルほど離れた通路で、まったく関係ない方向に視線を向けて相手を探しています。

「どっしよーかなー・・・」と一瞬考えたのですが、どうせ暇だし、あのお二人さんもいずれはお互いに気がつくだろうけれど、ちょっとでも早く気がつけばいいんじゃないの〜、ということで私は1m先に座っている50〜60歳くらいの女性に「もしもし、どなたかとお待ち合わせではないですか?お電話のお相手はあちらの方のようですが・・・」と話し掛けに行ってしまいました。

というわけで、私の見知らぬ二人は無事に会えてにこやかに立ち去って行きました。立ち去り際に、軽い会釈と笑顔を私に残して。

ははは、お節介な私の、ちょっとくすぐったい笑いを誘ったできごとでした。

2006/3/17 (金)  晴れ のち 曇り  強風

「卑怯(ひきょう)」

このような、公に掲示する書き物に私的な憤懣を書き綴ることは如何なものかとも思ったのですが、その本質は、近年の社会風潮を反映している部分もあると考えたので書き留めておきます。

実は、私は仕事上、非常に悔しい思いを味わいました。その内容を具体的に綴ることはできませんが、喩えれば、苦労して書き上げた論文を同僚がチャカリ自分の名前で発表した時に味わう悔しさとでも言いましょうか。または、額に汗してセッセと集めた油揚げを横から飛んできたトンビにさらわれてしまった空しさとでも表現しましょうか。

本来、多くの日本人には「卑怯」な行為や「姑息」な手段を行使することに対する批判的な姿勢があったはずです。自分はもちろん、他人がそのような行為に及ぶことに対しても許しがたい感情を抱くだけの潔癖性は、ある意味日本人の美点のひとつだったと私は思います。

ところがいつの頃からか「とった者勝ち」「やった者勝ち」の空気が充満して、その為には手段は選ばないし恥ずかしいと反省することもない人物が多くなったように感じます。

そのような生き方は、どんなに派手やかに装おうとも姿かたちを人工的に整えようとも、「美しい」という言葉からは最も遠いことだと、私は思います。

もちろん社会は、ここに書いた事例のようにガッカリすることばかりではなく、ほとんどの場合は適正に明朗に行われていると信じています。信じたい、です。

キリリッ!として爽やかに生きるためには、まず内面から掃除するつもりで生きていかねば叶わぬ願いではないでしょうか?

2006/3/4 ()  晴れ

「幸・不幸の尺度」

時として人は簡単に「私は幸せだ」とか「私は不幸だ」とか言うけれど、事はそう簡単に言い切れるものではない。

例えば、事業に成功して財を為した人や名声を得て時の人になった人が幸せかと言うと、一概にそうも言えない現実がある。

よく言われるのは、有名人になると途端に親戚や知人と名乗る人が増えるという事実である。

幸せの尺度は自分が決めるものであって、万人に共通の幸せの基準は無いということが正解に近い考え方であるように思う。

お金に縁の無い暮らしをしていても、家族や親類縁者が和やかに助け合って暮らしているなら、それは十分に幸せだと言える。

一方、何らかの名声を得て、親類縁者のみならず、見ず知らずの他人まで笑顔で擦り寄ってくる事をうっとおしく思わなければ、それはそれで本人にとっては幸せと言える。

結局、人は自分が求めているものが充足されれば幸せなのであって、「幸せ」とはその程度のものだと言えなくもない。

人はそれぞれ、幸せになりたいと希求するのが常であるけれど、他人がうらやむようなことを実現するのが幸せだと信じ込むと、思わぬ不幸を招きいれかねないと知るべしだろう。

幸せとは、あまりに身近過ぎて気付かれ難いものなのである。