2005/12/23 (金)  晴れ   天皇誕生日

「見上げるものと見下ろすものと」

高みに飛翔した鳥は森を見下ろす
森の中では
背の高い木々がより低い木々を見下ろす
か細く丈低い木々は足元の草を見下ろす
草は土を見下ろす

見上げるものも見下ろすものも
我が我がと言いつのる

どれが欠けても生(な)らぬのに

2005/12/22 (木)  晴れ  強風

「世代交代」

社会に多数の人が溢れ、それぞれの年代でそれぞれの思想とライフスタイルが確立されるのは、いつの時代も変わらぬこと。ほぼ同年代は、似たような価値観で暮らすようになるということも否定できない事実。その分類は「明治・大正・昭和・平成」で分けられる場合もあり「・・・30代・40代・50代・・・」のように分けられる場合もあろう。

50代の私はいまだに、地べたに座り込む子どもたちとか下着や肌が見え隠れするようなファッションに目が馴染まない。年上や目上に対する礼儀が廃れた事も「仕方ないこと」と肯定できないでいる。若い人たちには彼らなりに、こうした私年代の者に対しての違和感があるのだろうということは想像に難くない。現に私は、近ごろ、多くの場面で若い人たちとの隔たりが広がっていることを実感する経験が増えてきた。

「世代交代」・・・そうだ、私はいま、世代交代という転換点に立っているのだ。

つらつら考えてみるに、決定的な転換点は40代と50代の間に存在したように思えてならない。40代にはまだ追いかけることができた社会の変化も50代になると、年を追うごとに対応できなくなって来ている。このごろは、若い人たちの反応にタジタジとなり、深く傷ついて一日を終える日が多くなった。

世代間の確執を綱引きに喩えるなら中心線は50歳。そこを境に両者で綱を引き合っていると考えてみた。どちらかに大きく引き込めば他方は引きずられ、あるいは転ぶかもしれない。運動会の綱引きなら勝負をつけることが前提だけれど、世代間の綱引きに決着は必要ないと思う。中心線上に結ばれた紅い布が行ったり来たりの引き合いで、のんびりと永遠にバランスをとりながら綱を緊張させて引き合っていればいいのではないかと思う。

一人の人間が永遠に紅組(白組)でいられる筈はなく、いずれは誰しも綱の左右の立場所を移動しなくてはならない。そのことを念頭に置けば、力づくで勝敗の決着をつけなくても良しと考える事ができ、互いの立場への思いやりが生じるのではないか。

「自分が老いを感じるようになったからって、そんな考えは甘っちょろいよ」という批判を覚悟で、いま自分が感じている世代交代について、ここに書き留めておきたいと思った。

2005/12/02 (金)  晴れ のち 曇り

「常識と情識」

健全な一般人が共通して持っている思慮分別を「常識」ということは誰でもが知っていることでしょう。それこそ、その言葉を知っていることこそ常識と言えるかもしれません。しかし、近年、この常識の内容が人によって少しずつズレを生じているように感じられます。

伝統的慣習の伝達が世代間で十分に行われなかったことを思わせる事態に遭遇することが多くなりました。冠婚葬祭のしきたりやお付き合いなどもその一つです。また、日常の立ち居振舞いなども、以前は当たり前だと認知されていたことが通用しなくなっているということもあります。

また、会話ひとつ取り上げても、故事格言の引用が通じなくなっていたり、「てにをは」の使い方が年代によって違ったりして来ているようです。

しかし、最低限の用が足りるなら、そうした表面的なことは何とか凌いでいけるのかも知れません。知識の共有は気付いた時に修正したり新たに覚えるようにすれば取り返しがつきそうです。

「困った事だなあ」と思うのは『情』が通わなくなったことです。同じ事態に遭遇した時に抱く感情が異なると問題はこじれ、解決の道は遠くなるのは目に見えています。

今は低迷の時期、人々の暮らしも気持ちにもゆとりが無くなっています。社会の風潮は『情』より『金』に傾くのは無理からぬことではあります。

そんな状況にあっても、私は『情』の共有が失われることほど恐ろしい事はないと訴えたいのです。皆がクールでスマートで有能である必要はなく、ドジで間抜けでも情感豊かで情け深い人が多い社会の方が温かいような気がします。

知識や思慮分別の共有を「常識」という言葉で表現するなら、理性で割り切れぬ感情の共有を「情識」と呼びたいのです。そして、この『情』を発生する何かが人間の内部から薄れて行きつつあるのではないかというのが、私の個人的な認識なのです。

『情』が働く為には喜怒哀楽の感情が正常に機能し、その積み重ねによる学習が人のこころを成長させていることが前提ではないでしょうか?となれば、せいぜい喜び、時には怒り、状況によっては涙が流れ出し、たまには自分なりの楽しみに浸ることができる、それらの情動を人間らしいこととして互いに認め許しあえる空気が必要と思われます。

温かい情が通い合う社会でありますように、これが今の私の切なる願いです。