2003/01/31 (金)  晴れ  夕方東の空に雲





テレビで「12歳の子が二重まぶたに整形」という話題をやっていました。
友達に、「目が細い」と言われたことを気にしていたということです。
母親は彼女の希望に理解を示し病院に連れて行きました。
その後、整形することを父親に告げるのですが、
父親は迷いながらも、一重まぶたに悩む娘の気持ちを思い、整形に同意します。
まあ、整形といっても、今流行りの「プチ整形」という方法で、それほどの大手術ではないのですが・・・

自分の容姿が気になるのは、昔も今も変わりません。
できれば自分の納得できる美しさを手に入れたい、カッコよくなりたいと望むのは誰しも同じことでしょう。

しかし、違うのは、そう思ったときに、どのように行動するかです。

ちょっと前までは、テレビや映画でお目にかかる役者さんの顔は、それぞれに特徴がありました。
女優さんの美しさも、それぞれ個性がありました。
顔や体の造作が決して美の基準ではなくても、美しいと思えたのはなぜでしょう?

最近、メディアでお目にかかる若い人気者の顔は、
みんな似たり寄ったりで見分けがつきません。
しかも、表情に乏しい。

その12歳の子には、そのことを考えてほしかった。
両親も、そのことを教えてほしかった。
私は、そう感じました。

子どもの顔は未完成です。
子どもだけではありません、人間の顔は終生、未完成だと思います。
たかだか10年そこいら生きただけの肉体の美醜を、気にすることはないのです。
他に考えなくてはならないことは山ほどあるのではないでしょうか。
私の顔の体のここが嫌い、という悩みも自分を育てる肥やしにしていける素材なのですが・・・
安易に解決した悩みは必ず次の悩みを生み出すことでしょう。
それが心配です。

美しいから可愛いからということで手に入れたものが、
必ずしも、不動の幸せにはならないことに、この子はいつ気が付くでしょうか?

机の横に、瀬戸内寂聴さんの卓上カレンダーを置いてあります。
明日から二月です。
一月から二月のページに替えたところ、寂聴さんのこんな言葉が添えてありました。

**********

美しくなりたい人は家のいたるところに鏡を置きなさいと、美容師が教えていた。
自分を知るということがどんなに難しいことか、
人は案外かんがえてみようとはしない。

2003/01/30 (木)  晴れ  風





玉村豊男さんというエッセイストがいる。絵も描かれる。
長野県に農地を得て、「ヴィラデスト」と名づけた農園を開いておられる。
昨年、毎日新聞の日曜版に、毎週、彼のエッセイと野菜のイラストが載っていた。

今日読んだ彼の文章の中に、印象深い引用があった。

「勤勉なる農夫は、みずからがその果実を見ることのない樹を植える」 

というラテン語の箴言。
彼はワイナリーの建設に夢を抱いていて、
ワイン用のブドウの木がおいしい実をつけるようになるには20年以上かかるのだそうだ。

そう言えば、この箴言の意味するところは植林事業に関しても言える。
樹木を、人の暮らしに利用できるまでに育てようとすれば、50年100年の歳月を要する。
当然、植えた人はその恩恵にあずかることはない。

社会のあり方にも言えることのような気がする。
ひとたび荒れた人心を、再び豊かな潤いのあるものにしようと働きかけても、
実りが得られるまでには相当な時間がかかるのだろう。
今こそ、種は蒔かれなければならない時。
ことは急ぐような気がする。

「樹を植える人、種を蒔く人」が多く出現してほしい。

2003/01/29 (水)  晴れ  冷たい風強し





いつも目にする樹木の葉が、風に吹かれてザワザワと、一日中揺れていた。
冷たい冷たい風が吹きつけた。
これからしばらく、こうした乾燥して冷たい強風が吹く季節になる。

梅の木を確かめに行くと、まだまだ小さいつぼみながら色はしっかり花の色だった。

千葉日報のコラム「忙人寸語」の筆者はどうやら山歩きがお好きな様子。
今日の話題は、富士山を見に丹沢方面に出かけたという話。
ああ、私も行きたいな、山。

今日読んだ、前一橋大学長の阿部謹也先生の文章の中にも登山が趣味だと書いてあった。

人はなぜ山に登るのか?
どんな時に山を歩きたくなるのか?

胸にたまる鬱屈を山に預けに行くのかもしれない。
だから、一人で行きたい。
そう思う。

2003/01/28 (火)  晴れ





(記述なし)

2003/01/27 (月)  雨





一日中、雨。
多少やわらかい感じを受けるのは「春まぢか」という気のせい?
これからは、ひと雨ごとが植物に目覚めを促すことになるのだろうか。

そう言えば目覚し時計に「ダンダントーン」とか言うのがあったっけ。
最初は小さな音で鳴り始め、次第に音量が上がっていって、最後は大音量。
あれも慣れてしまえば効き目がないかもしれない。

このところ朝が起きづらい。
春の気だるさ、か・・・

2003/01/26 ()  晴れ





知人に教えてもらって講演会に出かける。
テーマは「子育ての不安を乗り越えるために」

幼児期の教育の大切さに始まり、
子どもが置かれている現在の教育状況などに関するお話。

育児仲間に恵まれないまま、手探りで子育てした私には、
こんな講演会や勉強会に参加しながら、
自分の育児を見直しできる環境にある人たちが、正直言って、うらやましく思える。

0歳児から6歳児までの養育の大事さ。
まさに「三つ子の魂」だと思った。

これから育っていく子どもたちに、豊かな心が育ちますようにと、
しみじみ思った一日。

2003/01/25 ()  晴れ  風





夜の外出をしなくなって久しい。
今晩は、久し振りの夜の会合。

灯りの少ない駐車場で、夜空を見上げると幾つかの星座が確認できた。
一番ハッキリしているのが「オリオン座」。
そのすぐ傍らに「冬の大三角形」。

オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン。

ああ、宇宙は広大、私はちっぽけな存在。
何をクヨクヨと思い煩うことがあろうか。

2003/01/24 (金)  晴れ  風





つい先日のこと、通りすがりの気まぐれで、デパートのお菓子売り場の和菓子を買った。
店の奥まった場所に、もう長いこと売り場を確保している和菓子の老舗。
一つ一つが、創作和菓子と言いたくなるほどこった作りになっている。
この和菓子屋さんでは、季節のお菓子が売り出される。
今時のテーマはもちろん「春」。
そして、千葉県という土地柄からか、「菜の花」の黄色。

上品な甘さが舌に残る。
見栄えも、口の中での溶け具合も、ほどよい感覚を味わえる。
確かに、金額だけのことはある。

食べ物に執着の少ない私は、あまり美味探求に関心がない。
おいしい物を求めて食べ歩く「グルメ」とやらが流行し始めたのは、いつのころからだったろう?
誘われて美味しいお店に出かけたことも何度かあった。
けれど、「美味しいね」がその場で完結してしまう私は、「次はどこに行こうか」につながらない。

空腹を感じた時に口にする物があれば良し、というくらいの食に関する興味では、
人生の楽しみの一部分を捨てているのかも知れない。

一つの高級和菓子から、そんなことを考えた。

2003/01/23 (木)  雨





久し振りに、一日雨降りだった。
冷たい雨がショボショボと・・・
気温も低め。

新聞に掲載される(今日の人生指針)「北の方から良い便りが」
えっ?ここから北の方角はどちら方面だっけ?
茨城・栃木・東北地方?
そっち方面にお知り合い、いたっけかなぁ〜?
昨日なら、西の方角から嬉しい便りがあったのだけれど。

というわけで、今日は何の変哲も無い凡々とした一日。

2003/01/22 (水)  晴れ  のち  曇り





『不明』とは、「物事を見通す識見がないこと」です。
「不明を恥じる」という言い方があります。
ことの真実や真意をわからずに、邪(よこしま)な対応や判断をしてしまい、
そのことに気づいた時に用いられる言葉です。

「不明を恥じています」と言える人は、既に不明から脱け出しているわけで、
こういう発言をすること自体、その人物の品性は保たれたと言えます。

間違いを間違いだったと認めることは、実はとても難しいことです。
特に、プライドのある大人はなかなか率直にはなれないようです。

そこを思い切って、せめて胸の中でだけでも
「自分はわかっていなかったのだ」と認めることで、
自分を高めることができないでしょうか。

「無明(むみょう)の闇」から一歩でも踏み出すために。

2003/01/21 (火)  晴れ





日曜日の夜7時、日本テレビの「バンキシャ」という報道番組で児童買春のことをやっていた。

日本人男性がアジア各地に性のはけ口を求めて渡航することが問題になって久しい。
それが最近無くなったとは思っていなかったが、
経済不安や社会不安のニュースが増える中、
買春ツァーのことなど、いつの間にか注目の外に出ていた。

日曜日の番組の取材は、タイで未成年の少女たちを性の対象として買う日本人のことだった。
10代前半の女の子に、まるで舌なめずりをする獣のような関心をしめす男の言葉。

性を軽蔑はしない。男女が睦みあい求め合うことは素敵なことだと思う。
けれど、下半身だけが反応する性は情けないし汚らしいだけ。
まして、肉体も精神も未熟未完成な子どもを
自分の思うままにできることをもって良しとする男は、獣以下だろう。

「それが男さ」と、うそぶく声も聞くことがある。
男性のみならず、女性でさえ、男性の身勝手な性行動を肯定する人がいる。
そんな男女は、よほど形而上の刺激に乏しい生活をしているのかと疑いたくなる。
精神や肉体への刺激は、セックスだけではないはず。

買春を実行動に移せない人は歪んだワイセツ文を書いて公表したりする。
単なるエロ文を、文学作品と誉めそやす男女もいる。

ここで間違えてもらっては困るのだが、
性に関する単語を使うことと、ストーリーとして性を表現することとの違い。
単語には思想が入らないけれど、ストーリーがあれば、そこに何らかの作者の思惑や意図が入る。
これが、歪んだワイセツ文に罪が生じる所以である。

単純な性行動に走る前に、成人男女とも、成熟した異性を魅了する内面を磨いたらどうだ、と言いたい。
未成熟未完成な子どもたちが目標とし憧れるような大人が増えてほしい。

コントロールされない性の欲望は、見聞きするに耐えない。

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上記のような報道特集が頭に残っている今日、夜9時からの二時間ドラマでも『性』的な犯罪行為がテーマだった。

15歳の少女がレイプされて、一生恋愛に臆病になって独身を通す話。
好きになったけれど、プロポーズを受け入れることができなかった彼の骨と、
肺がんで亡くなった彼女の遺骨が、テーブルに並んで置かれている場面に到達するまでの
二時間のドラマ展開には、考えさせるものがあった。

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性のおもちゃにされた少女のその後を思うと、いたたまれない。

2003/01/20 (月)  晴れ  暖かい一日   (大寒)





この時季、ピラカンサスの赤い実が鈴なりになっているのに目を奪われていた。
いつも眺めていたそんな木の一本が、今日見るといつもと雰囲気が違う。
木を埋め尽くすようについていた実が、すっかり無い。

ふと向こうに目をやると、大小さまざまな小鳥が地面を啄ばんでいる。
どうやらマジックの仕掛け人(仕掛け鳥?)は、この小鳥たちの模様。

春にはまだ間があるこの時季、きっと餌が底をついてきたのだろう。

柿はとっくに無い、ミカンも近くの物は食べてしまった。
しょうがない、ピラカンサスでも食べましょう、ということか。
しっかし、小鳥たちも大食漢だこと。あっという間に食べ尽くしてしまっている。
おいしいのかな?ピラカンサス。
私も思わず、(かじってみようか)と思ってしまった。

2003/01/19 ()  曇り  一時  小雨





テレビを見ていたらネ、
どうも混迷は、冗談で済まないほど深いらしいです。

いや、何の話かって、政治・経済・その他もろもろ、すべてですよ。
一体全体、いまの時点でクッキリハッキリしていることなど、あるのでしょうか?

「価値観の多様性を認めよう」という主張があって、
それはそれで「ごもっとも」と思うこともあるのですが、
こう多様になり過ぎると、
ウロウロキョロキョロと、選択に時間を費やすばかりで、
現実問題は一向に解決しないのです。

趣味の活動や買い物を考えると、
バブル経済のころは「とりあえずやってみよう。買っておこう」
ということができたのですね。
今ではそうはいきません。

お金を出すなら、的確なところに適切な金額をと熟慮します。
考え抜いてみると、意外と不必要なことやものが多かったことに気づきます。

もしも、最終的な目標が【各個人の満足感と幸福感】であるならば、
それを叶える手段や方策を外部に依らなくても良いのかも知れません。
なぜならば、「幸せは自分の心が決める」と、
どなたかもおっしゃっているではありませんか。

いえね、それにしても、「金は天下の回り物」とは言いながら、
なかなかこちらの手許には回ってきませんね。

なんだか、わけの分からない独り言です。

ところで今日は、年賀ハガキの抽選があったようで・・・

2003/01/18 ()  晴れ





いまどき珍しく、羽子板で羽根つきをしている子どもを見ました。
ところが、構えがバトミントン風。
つき始めからそうなのです。

当然、羽根はポトリポトリと落ちるばかりで、二人の間を往復しません。

「あ〜あっ、最初は板の面を上に向けてその上に羽根を乗せるようにして打てばいいのに」
「羽根は弧を描くように飛ばさなきゃ、何回もは続かないよ」
などと思いながら眺めていました。
ふと、和服を着て羽根つきをすれば分かるのかも知れないと思いました。
袖口が邪魔にならないよう、片手で軽く押さえながら遊んでいるなんて、ちょっといい風景です。

自分が子供の頃は、なぜかお正月になると羽根つきをしたくなったりしたものです。

先日は、マンションの下の公園で凧揚げをしている父子がいました。
さして広くない公園の縁には、電線と桜の木が並んでいます。
案の定、凧は桜の木に引っかかって、お父さんは凧取りに四苦八苦。

電力会社の回し者ではありませんが「凧揚げは電線の無い場所で、ね!」
でも、住宅地ではそれは無理な話ですね。
思わず、「利根川の土手に行ったほうがいいですよ」と声をかけたくなりました。

昔子どもだった私は、こんな遊びを見ると何故かホッとするのです。

2003/01/17 (金)  晴れ





青空を背景に、冬枯れの木立を見上げると
まるで、一枚の線描画を見るよう。

こんな絵を描いた画家がいたっけなぁ・・・
と思ったときに浮かんできた名前が(ビュッフェ)。
うんうん、そうだ、そうだ、
全体的に黒っぽい色調の風景の中に描かれた木立は、どれも枯れ木だったような。
(ビュッフェ)の名前を覚えたのも、その木の印象が強かったからだ。

気になり始めると、しきりにそちらに注意が向く。
というわけで、このごろ上を見ながら歩くことが多い。

2003/01/16 (木)  晴れ





「何故、人の心が荒んできたのか?」と考え続けている。

一人の人間が日常生活で触れ合う人の数など、たかが知れている。
そんな少ない対人経験から、社会現象の原因らしきことを語ることはできない。

ところが、インターネットにアクセスするようになって、
ごく普通(と思われる)の各年代の人々の発言を読んでいくうちに、おぼろげながら見えてきたことがある。
うっすらと予測はしていたものの、それを裏付けるような出来事も何件か経験して、愕然としてしまった。
ネットは匿名の世界、そこでの発言が全て真実とは言えないが、
少なくとも書きたいことを書きたいようには書いていると思う。

文章というのは、技法の巧拙とは関係なく、如実に人柄がにじんでくる。

深く考えれば考えるほど、言葉は気軽に使えなくなる。
それでもなお、伝えたいという気持ちに突き動かされて『書き』『語る』言葉は、聴くに値する。

そのような思いを抱いて、ウェブに公開されたホームページの書き込みを読んでいて、
「楽しければいい」「暗いのはだめだ」「真面目すぎるのは面白くない」とする文章に出会った。

ほんとうにそうだろうか?
面白おかしく楽しくその場が過ぎて行けばOKなのだろうか?

たまに真面目に考える人間がいれば、無視する、排除する、蹴落とす。
ネットの匿名性を味方に、そんなことはしていないだろうか?

ネットに限らず実社会でも、どちらか一方だけが良いのではなく、どちらの存在もないがしろにはできない筈。
その為には、
たとえ自分の生き方や主張とは異なると思っても、お互いの立場を尊重しなければならない。
『常に自分が一番、常に自分が正しい、』には無理がある。

ネットで見えてきたもの、それは、
50歳を境に、大切なことの連鎖を断ち切ってしまったのは、
団塊の世代ではないだろうか?ということだった。

2003/01/15 (水)  晴れ  冷たい風





大抵の新聞には、一面下方に細長いコラム欄が毎日掲載されている。
この欄の担当者は、記者の中でもベテランの人が担当すると聞いた。
視点も確かで文章もしっかりした記者が書く内容は、大学受験の問題の定番にもなる。

一人の人が担当して、ほぼ一年間毎日のこととなると、時にはネタ探しに苦労することもあるだろうに、大変な仕事だと思う。

私が最近注目しているのは、職場でとっている地方紙のコラム。
視点が身近で、しかもわかりやすい文章を書いている。

今日は「アリとキリギリス」の話題。
怠けていると後々後悔するよ、という教訓めいたことではなく、
アリは経済を示しキリギリスとは芸術ではないか、という視点。

イタリア・ルネサンス期の芸術の隆盛は、豊かな経済の裏打ちがあってこそではないのか、
といった例を引きながら、現在の不況時にあっては芸術も下火にならざるを得ないだろう、と記している。

他にも幾つかの寓話を例にあげてこの経済不安を憂慮していた。

読んで感心はするのだけれど、すぐに忘れてしまう。

権威と言われた新聞の記事が、
必ずしも読み応えのあるものとは限らなくなっていることを
最近つくづく感じている。

2003/01/14 (火)  晴れ  暖かい一日





春はもう始まっている。

ロウバイ、スイセン、ミツマタの花が、いつもの木にいつもの場所に咲いている。
ジンチョウゲの蕾も、花色を見せながら待機中。

嬉しいなぁ、嬉しいなぁ、忘れないで咲いてくれて、嬉しいなぁ。
木や草花は、「この場所は嫌だ」とも「今年はかったるいから止めた」とも言わずに、
時季が来れば芽を吹き、花を咲かせる。

誰がけなそうと、誰がほめようと、たとえ誰も見てくれなくても、
そんなことは、気にも留めていない。

まだまだダメだな、私は。
毎年見る、あの家の庭先のあのミツマタの花にも敵わない。

2003/01/13 (月)  晴れ     成人の日





身近に該当する人物がいなければ、年齢的な行事にも疎くなる。
七五三・還暦・成人式など。

何時の頃からか、すっかり、節目節目の行事とは縁遠くなっている。
こういうものはやはり、声をかけてせっついてくれる年寄りがいないと気が付かないものらしい。

日本の伝統や文化的なことがらが伝わっていかないことを嘆かわしく思う私自身が、
すでに、そうしたことから遠ざかって、無知になっている。

私のように、子供の頃から怠慢な人間ばかりではないはず。
古くからの日本のあれこれを覚えている人にはぜひ、
教え伝えて欲しいものと、自分のダメさ加減を棚に上げて、希(こいねが)っている。

いくらインターネットで検索できても、実地の動き方は、経験者と共に動いてこそだと思う。

日本人なら当然だった事柄を知らなくても、行わなくても過ぎていく生活が恐ろしくもある。

2003/01/12 ()  晴れ





NHK大河ドラマ「武蔵」の第二話を見る。
昔はよく見ていた大河ドラマも、いつの間にか見ることもなくなっていた。
今回は、第一回目から何となく見ているが、今のところ話の進展に興味を抱いている。

しばらく前から、宮本武蔵という人物像が関心を持たれているらしいということは、うすうす知っていた。
私自身は、歴史小説に疎いので、武蔵のことに詳しいわけではなく、
ただ、剣の達人であること、巌流島で佐々木小次郎と対決して勝ったこと等の断片的な知識しか持たない。
彼の著書と言われる兵法「五輪書」は、
今では企業のあり方や人生の生き方の参考書のように読まれているという。
あちこちで、この「五輪書」からの引用にお目にかかる。

世の中が成長期にあった時代には、サクセス・ストーリーやシンデレラ・ストーリーが好まれた。
サクセス・ストーリーでは、うまく立ち回ることにより、一国一城の主となることが目標であり、
シンデレラ・ストーリーは、既に富を持つ誰かに見出されて、その恩恵に浴することが目標である。
現在の社会状況は、そうした可能性に夢がもてない閉塞感に覆われている。

そこで必要とされるのは、自己を律し逆境に押し潰されない胆力だと、多くの人が気づいたのだろう。
社会の流れの中で運を拾ったり、策を弄して益を手にするだけでは、
人間としての安堵の境地にはなれないことを、今ここにきて多くの人が感じていることの現れか。

宮本武蔵という人物がこれまでのヒーローと違うところは、
集団との兼ね合いではなく、独立した一人の人間として確立した『哲学』にスポットが当てられることのような気がする。

それほど、現代人の多くが、一人の人間として生きる為の指針を求めているということなのだろう。
逆に言えば、そうしたことをなおざりにして来た社会のあり方が、今更ながら浮き彫りにされているとも言える。

これから一年間、ドラマの中で描かれる宮本武蔵に注目してみたい。

2003/01/11 ()  晴れ





女性のホームレスは、あまり見かけないように思う。
いろいろな理由が考えられるけれど、
何者かに襲われる可能性は男性より高く、それを防御する力も弱い、ということが考えられる。
女性の場合、ホームレスになる前に何らかの手立てを考え出すか、どこかに保護されているのか・・・

10数年前、私が新宿に毎日通っていた時、
新宿駅西口をねぐらにしている女性のホームレスがいると、
さも珍しそうに同僚が話しているのを聞いた。
数年前にはここ柏市で、母娘か他人かわからないけれど、
やや年齢の差がありそうな女性の二人連れが日中歩いている姿を見て
「ホームレスなのかな?」と思ったことがある。

同じように急ぎ足で歩いていても、目的のある歩みとそうでない歩みは何となく違う。

今では差別用語として使用禁止語になっているのかも知れないけれど、
昔は「乞食(こじき)」と呼ばれる人たちがいた。
子供の頃は「ほいと」と呼んでいた。

この「ほいと」は、辞書で調べると『(正月の祝言を唱えて歩く)こじき。「祝(ほ)き人」の音転』とある。
「乞食(こじき)」も、仏教用語としては(こつじき)と読み、
意味は『僧が人家の門に立ち、鉢をささげ、食をこい歩くこと』であり、
そうした行為を『乞食行脚(こつじきあんぎゃ)』というらしい。

何もかも捨てて、ふらりと行脚の旅に出てみたいと思う日もある。

【その心持ちて、しがらみ多き浮世をこそ渡り切れ】と自分に言いきかせる。

2003/01/10 (金)  晴れ





先延ばしにして来た人間ドックに、やっと行って来た。
以前はなんなく飲めていたバリウムが、年々飲みづらくなっている。
バリウム自体は飲み易く改良されているようなのだけれど、問題はこちら側にある。
融通の利かない体になってきていることを自覚させられる。
(かと言って、胃カメラにしようとは決して思わない。こちらは絶対に飲み込めないから。)

クリニックへの往復、救急車とすれ違う。
往路では、後ろから来た救急車に道を譲った。
復路にすれ違った時には、音はすれども前方交差点三方に姿が現れず、
「どこから聞こえてくる音か?」と思っていたら、後方から追い越していった。
交差点の信号待ちで、こちらの車は停止していたので進路妨害はしていない、はず。
自分が救急車に乗ってからというもの、あの「ピーポピーポ」が聞こえると、道を譲らねばと反応するようになった。

病気をしたら、怪我をしたら、どうしようという不安は時折頭をもたげるけれど、
現在そんな事実はないのに心配してもしょうがない。
と言うことで、とりあえずは今の健康がとてもありがたく思える。

2003/01/09 (木)  晴れ





年末、テレビCMのひとつで目に付いたものにローンのCMがありました。

ペットショップを覗いた父と娘。
娘が、「ペットを飼いたい」と言うと父は、「ボーナスまで待ちなさい」
と言いかけて、ケージの中からこちらを見つめる小型犬のつぶらな瞳と目が合ってしまう。
ジ〜ンとする父親・・・

まず、
たかが犬に見つめられてジ〜〜ンも大げさな、と思い、
犬を買うこととボーナスの結びつきもご大層な、
というのがCMを見ての私の感想。

(さて、この父親は犬を買ったのでしょうか?というのは不明ですが・・・)

今日、ふだん車の中から信号待ちのわずかな時間に眺めるだけだったペットショップの前を歩いて通りました。
長年車窓から眺めていたのに、ショーウィンドウの前に立って覗き込んだのは、今日が初めてです。

チワワがなんと25万円!!コーギー、ダックスなど他の犬も12万〜8万円。
いまどきの犬って高価なんだぁ〜、と思った次第です。
こりゃあローンのCMネタになるはずだわ・・・

ガラス越しに覗き込む私を見つけて、子犬が喜んで飛びつこうとしています。
確かに可愛いです。飼いたくなります。これなら、ついつい買いたくもなるでしょう

その直後、犬を散歩させる人とすれ違いました。
今日までは、「たかが犬」と思っていたのですが、
ペットショップで値札を見た直後だった為に、
犬を連れている人がやけにリッチに見えるというおまけつきでした。

でも、私はやはり和犬の雑種がいいな。

2003/01/08 (水)  晴れ





仕事が始まってからここ数日、同僚とすれ違う度に交わす言葉は、「寒いね!」
暖かさまでの“胸突き八丁”、あともう少しと先が見えてくる頃が、一番苦しい。
ニュースでは、房総で梅の開花が確認されたそうだ。

こうして、より好ましい方に向かっていくことがわかっている時には、その成り行きに希望を持ちながら過ごせる。
一方、今が恵まれて好調な時に、事態がだんだん悪い方向に進んでいることには、人はなかなか気づけない。

今、あちこちで論議が盛んな学力の低下もそのひとつ。

特異な興味を持つ人間を、変わり者とか協調性が無いなどと排除してきながら、
今になって、やれ個性の尊重だ一般教養の涵養が必要だ、などと騒いでも一朝一夕には変わりようがない。
新聞でも、大学生の学力低下・一般常識の欠如を憂う記事が多いのだけれど、改革の道のりは厳しそうだ。
何故なら、指導する立場の教官たちが歩んできた過程そのものが点数重視・結果重視の教育制度だったはずだから。

自然気象と社会現象、どちらもお寒い現状ながら、その見通しには大きな差がある。

2003/01/07 (火)  晴れ





ときどき、対面販売の良さを語る人がいる。
スーパーでの買い物が主流になって、会話が減ったことを嘆くお話。

私の買い物もご多分にもれず、スーパーで慌しく品物を選び、黙ってレジを済ませることが多い。
それだけ生活の時間に余裕が無いとも言えるが、気持ちばかり焦っているのかもしれない。

今日はたまたま用事があって、久し振りに小さな八百屋さんに行った。
「おじさん、このミカン、おいしい?」
「おいしいよ!甘いね。何しろ今朝入ったばかりで新鮮だよ」
店のおじさんが誇らしげに自慢する。
きっと、自分の眼でしっかりと品定めして市場から仕入れた自信なのだろう。

「甘いミカンの箱にはね、時々腐り始めたのが混じっているんだよ」
「うん、あるある、そういうこと」」
「何でもそうさ、しっかり熟れた時が一番おいしいんだよ」
「腐る寸前、ってことね」

などという会話を交わしながら、買い物を済ませてきた。
な〜んか、良かったなぁ、このひと時。

でもきっと、明日はスーパーに行って、そそくさと買い物をしているに違いない私。

2003/01/06 (月)  晴れ  小寒





見上げると青い空に、天気予報図通りの筋状の雲が。
遠くシベリアから吹き渡って来た雲か。
寒い寒い、今日は小寒、御用始め。

新年明けて間もないというのに、もう6日も過ぎてしまった。
ウカウカと日数は経っていく。

何も変わらないまま、そのままに。
変わらないことが良いこともあり、愁うべき事でもあり。

とりあえずは2003年の仕事を一日終える。

2003/01/05 ()  晴れ





再び「風と共に去りぬ」考察(というほどのものでもないけれど)

一つ間違えば嫌味な性格と言えなくもないスカーレットに、何故、惹かれるのか?
それは、彼女の行動の発露が「相手を苦しめよう」という目的からではないことにあるかも知れない。
彼女のわがままや傍若無人な振る舞いは、彼女の欲するところに従い、直線的に行動に移されている。
行動の結果、ほとんどのものを手にしたとしても、たった一つだけ意に叶わないものが常にある。
アシュレーの心、それだけは如何にスカーレットが求めようとしても手に入らない。
スカーレットは常に、その渇望感と共にある。

対するメラニーは、多くを欲しない。
他に注ぐ慈しみの眼差しや行動も、決して「誉められよう、称えられよう」という名声に対する欲からではない。
そう行動することが彼女の自然であり、決して自分を押し殺しているわけではない。
求めるものはただ一つ、アシュレーの心。
その一つを得たことで、メラニーは常に充足感とともにある。

対照的な二人の女性だけれど、どちらにも共通することは、
決して自分を欺かない生き方だと思える。

*************************

今朝のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、中小企業の製造業を取り上げていた。
製造生産部門が空洞化する国は弱体化するとは、既に数十年前から指摘されている。
そして、今朝の番組では、まさにそのことを取り上げ、地道な製造生産を継続している中小の会社を紹介していた。

キーワードは「skill(技術) より will(意志)」だそうだ。

「あなたのskill に磨きをかけて・・・云々」のキャッチフレーズを目にする機会が多いけれど、その度に?を感じてきた。
確かに技術もないがしろにはできない。
けれども、「何のために」「何を実現するために」の使命感も定かでない現状では、
技術だけ身に付けても宝の持ち腐れになりそうだ。

まずは、たとえ身近な小さな事からでも「これの為に」「こういう生き方のために」という意識を持つこと。
今こそ、内奥から力を湧き出させる『使命感』が求められているのだという想いを強くした。

2003/01/04 ()  晴れ  気温高め





名画や名作というのは、それを鑑賞する年齢によって受け止め方が違ってくる。

2日の夜、久し振りに観た「風と共に去りぬ」の登場人物について考えている。

長い間、スカーレットの「明日のことは明日考えよう」というその一言が心に留まって、スカーレットに魅力を感じてきた。
今回見直して、こんな女性が現実に身近にいたとしたら自分はどう思うだろう、と考え込んでしまった。
物語の主人公としては、特徴的に描きやすい人物像ではある。
が、現実の隣人としてとらえると「わがまま」で「野心的」な彼女が、傷つける人は多いに違いない。

対するメラニーはどうだろう。
小説の中の人物ということで、善意の象徴として描かれるのだけれど、
あのように何ごとも「良い方へ、善い方へ」解釈できるものなのだろうか?
メラニーが、他人に邪な感情を抱くことはなかったのだろうか?

そんな卑近な疑問を抱きながら、ストーリーを追っていた。

例えてみれば、運命の濁流のど真ん中を泳ぐのがスカーレットとレット・バトラーなら、
岸辺の草を掴みながら、流れのたゆとう浅瀬を、水底に足をつけながら慎重に進んでいくのがメラニーとアシュレーか。

スカーレットは、せせらぎでは耐えられない性格を持ち、むしろ激流下りにすすんで挑み、
メラニーは、穏やで豊かな流れに似合う。

同じ映画や本を前にしても、読者の私が現在置かれている状況で、スカーレットに傾くかメラニーに傾くか・・・
名作と言われる作品の奥の深さに、つくづく感じ入っている。

ま、現実問題としては、善くも悪くも劇的であることは日常生活になじまないものに見受けられるのだが。
何ごとも「ほどほど」がよろしいか、と・・・そういう結論に落ち着いた。

ヤレヤレ、凡人よのぉ〜己も・・・

2003/01/03 (金)  雪





チラチラと細かい雪の舞う中、近くの弁天様にお参り。
境内には人影もまばら。寂しい。
ちょうど時間だったのか、獅子舞が始まる。

ご本尊の弁天様のふくよかな白いお顔を拝んで、ホッとする。

長期休みに入ると、今日が何曜日かの感覚が失せて、時間の迷子になりそう。
今日は金曜日。今年は、三が日を過ぎると土・日となり、お休みが続く。
そろそろ平常モードに切り替えねばと思いつつ、ダラダラと日を過ごす。

寒い寒い、外は雪。

2003/01/02 (木)  晴れ  風





少々冷たい風がきつめに吹いている中を歩いて初詣。
神社には長い行列。
拝礼を待つ間に、たっぷり「お炊き上げ」の灰をかぶってしまった。

何度拝礼しても慣れない【二礼二拍手一拝】の神式作法。
作法に気をとられている内に、願い事を心に唱えることがおろそかになったりする。
後ろに人の列が並んでいると、尚更あせってしまって、結局、拝礼した事実だけで終わる。
まあ、神頼みは最後の手段。まずは、自力でがんばれ、ということかも。

街中を少しブラブラしてみると、大きな福袋を何個も抱えた人でいっぱい。
今日は、福袋目当ての人たちで、デパートは賑わっていた。

何が入っているかわからない『福袋』に、私は、あまり関心がない。
でも、これが好きな人は多いようだ。

重そうな袋を片手に三個、もう一方の肩に一個引っ掛けた女の子の二人連れがいた。
引き摺らんばかりに重そうにしている袋の口から、中味がチラッと見えた。
どうやら、若者に人気のあるブランドの衣類が入っているようだった。

大手デパートの入り口に長蛇の列ができていて、正面玄関が見えないくらいだったので、
列の整理をしている店の人に「今日は入場制限ですか?」とバカな質問をしてしまった私。
「いえいえ、これは『ご縁結び』のプレゼントに並んでいらっしゃる列ですので・・・」
列の脇をすり抜けて先へ進んでみると、小さなポチ袋が渡されていた。
この中に五円玉が入っているらしい。

ほどほどの年始風景。


2003/01/01 (水)  晴れ  元日





年々、元日が静かになって行く。
深夜の除夜の鐘を聴く頃から、
初詣に向かう人の気配が、戸外でザワザワとし始めていたのは、
いったい、いつの頃までだったのだろう。

元日から出歩いたり買い物をしたりすると、その年は一年中お金が出て行くから、
せめて「おついたち」は家で静かに過ごすように、と親から言われていた私は、
いまだに、一日目にお金を遣うことに後ろめたさがある。
おそらくは倹約の戒めとして、そのようなことを言われたのであろうが、
「三つ子の魂百まで」のたとえ通り、この教えは生涯私の行動を牽制することになるだろう。

お正月を迎えるたびに、繰り返し、子供時分に聞かされた事を思い出す。

外出しないつもりだったけれど、年賀状の投函のためにやむを得ず外出。
その足で、ついたちから営業しているスーパーに立ち寄ってきた。

正月営業は、早くても2日からだったのに、今年は一日目から開いているお店が多い。
人々の出足はパラパラ。

ちょっと罪悪感を感じながら、買い物をして来てしまった。