どうせ生きるなら、悩んだり苦しんだりしても、自分の頭で考えながら生きて行きたい by ブッター 「ぶたもおだてりゃソクラテス」


2007年3月30日(金)  雨  のち  曇り  のち  晴れ



「後悔先に立たず」

久しぶりに、ほんとうに久しぶりに、已む無き事情があって、9歳年上の姉が遠方から訪ねて来ていました。今日、無事に所用を終えて地方へ帰って行きました。

この姉は、昔からとても元気で、姉妹の中でも一番愛嬌のある人物です。ところが、寄る年波には勝てず、母親が悩まされたと同じような足の故障を生じていました。長らく離れて暮らしていると、そんな相手の変化を知らずに、昔ながらの姉として、私は接してしまいます。また姉も、妹に気を遣わせまいと、明るく振舞ってくれます。

今回、姉を、新幹線のホームで迎えた時、彼女の重い荷物を私が引き取って持つべきか、それとも、余計な手出しをせずに本人の意のままにするべきか、一瞬迷いました。

結局、その日は、あちこち移動したのですが、ずっと私は手出しをせずに姉が難儀しながら運びました。

いま振り返って、私はなんと思いやりのない冷たい仕打ちをしたのだろうと胸が痛んでいます。

実は今日、職場で異動のご挨拶をしてきました。4年間働いたこの場所は、心温かい同僚に恵まれた一方で、三回替わった上司三人ともに、私は悩まされました。その結果、私の心は冷え切って、他人の困難や哀しみへ共感できる心のゆとりを失ってしまっていたようです。いたたまれない立場をやり過ごす為に、私は、次第次第に心を閉じて行きました。

ところが、今回、姉の荷物をサッと引き取れなかったという事実が、冷え切ってしまっている自分の心の変化に気付かせてくれました。

ショックです。

人的環境の中で、人は良いにつけ悪しきにつけ変化していくのですね。こんなに年齢を重ねたのだから、そんなに他人に左右されはしないだろう、などと思うのは傲慢と言えるでしょう。人は誰しも、無意識のうちに、自分を守ろうとして変化せざるを得ません。でも、陰性の変化を身につけたくはないのですが・・・

姉の荷物、見送りの際には私が持って運びました。でも、来訪直後の一番つらい時に手助けしなかった自分への後悔の念は残っています。姉は「気にしないで」とは言ってくれましたが・・・

「後悔先に立たず」です。

四月から始まる新しい職場では、心機一転して、自らの心に“優しさ”と“思いやり”を育てられるように心がけたいなあと思っています。


2007年3月25日(  雨



「理事長は大変そう・・・」

今日は、先日とは別のマンション管理セミナーに、個人的に参加して勉強してきました。今日のセミナーは地元での開催でしたし、とても有益な情報が得られました。これからの開催予定もチェックして行きたいと思いました。

それにしても、先行き、大変そうです。計画的に事を運んで行く必要性を痛感しています。

ところで、セミナーの間中、私のすぐ後ろの席で激しく咳き込む男性がいました。どのようなご病気か知りませんが、インフルエンザ治まらぬこの時期ゆえに、「困ったなぁ〜」と思った私です。今、私は、風邪などひいていられない状況なのです。あれほど激しく咳き込むなら、退席とか欠席するのが公共のマナーではないでしょうか?しかも、マスクすら着用していないのです。

このごろは、他人への思いやりなど気にしない風潮が広がっているように感じます。
どうしたものでしょうねぇ〜(ため息)


2007年3月24日(  晴れ  霞



「開花」


今年は気象庁の開花予報にミスが指摘されたりして、各方面に影響があったと報じられていました。

当地の桜は23日ごろかな〜?と、個人的に予測していたのですが、先ほど、洗濯物を干しにベランダに出てみると、ほら!咲いていましたよ。まだチラホラですが、来週あたりには一気に開くでしょう。

私も、来週あたりには、気持パ〜ッ!と開きたいなぁ〜・・・


2007年3月16日(金)  曇り  朝 すこ〜し雪らしきもの  冷え込む



「やれやれ(安堵=あんど)」

年度末を迎えて、仕上げの大仕事を無事に終えました。

今年度は、仕事を進める上で少々胸に引っかかる事案を抱えながらの一年間でした。それも今日で一区切りです。今、「やれやれ」と胸を撫で下ろしています。

協力と理解をいただいた同僚の顔を思い浮かべながら、悩みに悩んだ一年間を、そっと思い出のページにしまい込むことにしましょうか。

ありがとう、あの人。
助けられました、あなたにも。

トンネルはいつかは抜ける。
その言葉どおりに、また一つのトンネルを、今日、私は抜け出しました。

あきらめないこと。
やけっぱちになって究極の選択を実行しないこと。

辛くて苦しい時は、痛む胸を抱きしめながら、そっと生きていれば良い。
支えてくれる誰かに甘えることも、自分に許してやっても良い。

とにかく、あるがままに生きていること。

そう思います。


2007年3月15日(木)  晴れ  のち  曇り  気温低し



「こんなはずでは」

「こんなはずではなかった・・・」と思うことの最たることに、現在の自分の姿があげられます。

長年生きていれば経験も積み重なり、それなりに考えることもまとまってきて、物事がちょっとは見える人間になれるものだと、ある時期の私は思い込んでいたような気がします。

だからでしょうか、半世紀以上を生きた今、少しくらいなら私も人生の先達として敬意を払って貰っても罰(ばち)はあたらないだろうくらいの思い上がった気持はありました。

ところが、歳とればとるほど、年下の人たちから“軽視されたり”“無視されたり”して情けない立場に立つ場面が増えてきたようなのです。

「こんなはずでは・・・」と立ちつくし、「なぜなんだ・・・」と胸のうちで繰り返しています。

正直言って、歯噛みする思いです。

だからと言って、私にしてみれば無礼極まりないと思える年下の態度に、あえて反駁(はんばく)してみるのも後味が悪いだけです。

そんな時思い出すのは「老兵は死なず、ただ、消え行くのみ」という言葉です。これは、日本人にも馴染みの深いダグラス・マッカーサーの引退の言葉だそうです。

私も現役引退(定年)まで一桁年数を残す年齢になりました。

ぼつぼつ消え支度をしたほうが良いのかもしれません。

世代の交代を肌身で感じるこのごろです。


2007年3月14日(水)  晴れ  風強し



「誰がどんな新語で説明しようが」

最近「大人力(おとなりょく)」という本が出ている。

「鈍感力」「大人力」、よほど世間は“力”をつけてもらえる魔法の言葉を欲しているらしい。ある意味、時の流行とも言える。その昔、と言っても数十年前には「親業」などという言葉もあった。

何を規範として生きれば良いのかが見えなくなっている時代なのだと思う。

養老猛司さんはその著書の中で、日本の社会は、結局、「世間」というものを意識しながら成り立っている社会であろうというようなことを述べておられる。「それでは世間は通らない」とか「世間の目」とかいったものに照らし合わせながら個人の暮らしを律してバランスを保ってきた社会、それが日本なのだと。

世間の多くの人に共通する考え方や行動を「常識」と言い、これが日本人の暗黙の行動規範となっていたのではないだろうか?その基本は、他を害しないことであろう。

一神教の国々と異なり、日本は八百万の神々のおわします国。ともすると、何でもありの混沌社会になり兼ねない要素がある。そこに一本の柱とも言える拠り所としての「世間」「常識」、これが最近どこかに追いやられている。

そもそも、「世間」とか「常識」というのは、親から子へ大人から若者へ伝えられてきた。いつの世も、若いうちはそれらに反撥(はんぱつ)し、抵抗するのが常だった。そんな若者も、自分が歳を重ねて大人と呼ばれるようになると、いつの間にか「世間」や「常識」を年下の者に語り聞かせるという繰り返しを続けてきたのが日本である。

今、そんな「世間」や「常識」の失われたことが荒廃の原因のひとつかもしれないと感じることがある。

が、一方、「世間」や「常識」という形の無い観念を具現する人たちもいなくなりつつあることも、同時に感じている。

全ての年代の人が(坊ちゃん)(嬢ちゃん)になってしまっている社会。


2007年3月12日(月)  晴れ



「心模様」

人は感情の生きものです。心という、不思議な存在の動きに揺さぶられながら生きています。時には高揚(こうよう)し、時には落胆(らくたん)しながら。

心を意識してみると、感情の変化に伴って、それはさまざまな色の変化をするのではないかと思えることもあります。明るい気分の時には明るい色に、沈んでいる時には暗い色に染まっているかのように感じることがあるのです。

近年、色のコーディネートが資格専門職として認められるようになりました。ファッションのみならず、建築関係その他の分野でも、色が人の精神状態に及ぼす影響は無視できないと考えられるようになっていることの現れでしょう。

色によって感情が影響を受けるということは、きっと、心にも色があるのに違いありません。ひょっとしたら、それは単色ではなくて、さまざまな色合いで複雑な模様を描いているのでしょう。

落ち込みのどん底でもがき苦しみ、「私の心はダークブルーだわ・・・」と思う日々が続いていても、ある日突然、スカイブルーに変化することがあります。きっかけは、さまざまです。偶然目にした光景だったり、忘れていた楽しい思い出を呼び起こす音楽が耳に入ってきた時とか、手にとった本の一節だったりします。

心が、暗い色調から明るい色調に変化して気持がスッキリすることを「ふっきれた」とか「憑(つ)き物が落ちたようだ」と言ったりしませんか?

今日、あなたの心は何色でしょう?


2007年3月11日(



「義を見てせざるは勇なきなり」

表題の意味は

*********

人の踏み行うべき大義を知っている以上、どのような場合にも人間として行うべきことは行わなければならない。正しいことと知っていてそれを行わないのは、ほんとうの勇気がないからだということ。

【出典】 子曰く「・・・・・義を見て為さざるは、勇無きなり」(論語 為政編)

〜「故事・ことわざ辞典:新星出版社」より引用

*********

「大義」とは、本来、国家や君主への忠誠の意味ですが、

「義」だけだと
1) 条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと。
2) 利害をすてて条理に従う。公共のために尽くす気持。〜「岩波国語辞典」より引用

と、なります。


近年の社会風潮の荒み様(すさみよう)を見るにつけ、この言葉を思い出さずにはいられません。

孔子さまの生きていらっしゃった時代とは状況の違う現代なので、「大義」というより単に「義」という言葉でこのことわざを考えたいと思います。

「義を見てせざる」人々が、あまりにも多くなったように感じています。

しかし、先日、線路に跳び込もうとした女性を助けて一命を落とされたお巡りさんの行為は、まさに、この言葉の意味するところを身をもって教えてくださったような気がしてなりません。

近年は、正しいことや人間として行うべきことを為すためには一命をかけなくてはならない時代になったのです。

だからでしょうか、身近に、卑怯ないじめを被って苦しむ人を見ても知らん振りや避けて通る、はなはだしい場合はいじめる側にくっついてしまう人が近年増えているのは。

とても悲しいことです。


2007年3月11日(  雨  のち  曇り  のち  晴れ 午後 風強し



「独立峰として」


夕焼けに浮かび上がる今日の富士山です。

忘れていました。この山のことを。
久しく、近視眼的に目先のことに囚われていましたから。

今日は午後になって強い風が吹きました。おそらく、富士山周辺の雲も強風に吹き飛ばされて、このようにクッキリとした山影を現したのでしょう。いつ見ても美しいシルエットです。

雲はいつかは吹き払われる。その時に現れる姿が、凛々しく、神々しくあるように、私も富士山の姿に習いたいと、改めて心に誓っています。

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最近、子どものいじめが社会問題になっています。
しかし、いじめは子どもだけの問題ではないことは、大人のほとんどが知っています。

子どもは、自分のおかれた辛い状況を、納得できないこととして愚痴ることはあまりしないかもしれません。

一方、大人は、そのいじめを不当だと感じている場合には、誰かをつかまえて愚痴ることがあります。愚痴ったところでどうなるものでもないことを百も承知で・・・

その結果は・・・
愚痴る人間から人々は遠ざかって行き、いじめを受けている人間は更に深く傷つき落ち込むしかありません。立場の弱い者の側に立つのは、殆どの人が避けようとします。それは、生存への本能なのでしょう。

愚痴る大人も愚痴らない子どもも、一度いじめの標的にされたら、味方は無いと考えたほうが良さそうな時代です。

少数派を無視してはいけない、社会的弱者には配慮を、などという文言は奇麗事です。誰でも、矛先が自分に向かわなければ、強い方と結びつきたいのです。

それでも敢えて、少数派や弱者の立場に理解を示し、大勢とかけ離れようが、その理解を行動で示すことができるためには何が必要でしょうか?

それは、“教養”ではないかと、私は考えています。

ここで言う“教養”とは、学校で教えてもらう学問知識ではありません。受験の為の偏差値向上を目的とした学問知識は、人間として踏み外してはいけない倫理や道徳観念を身に付けるには有効ではありません。むしろ、反対方向の効果を引き起こしているかに見受けられます。受験勉強は、学問ではなく、単なる合格技術習得の意味合いが色濃くなっているように感じられて仕方がありません。

教養”とは、「自ら考え、自ら知ろうと行動し、知り得たことの是非に基ずいて、公正な社会への実現の為に自分を役立てようとする豊かな心」の働きだと、私は思っています。

そうした“教養”を身につけた人なら、いじめられている人の訴えを聞いたとき、それを単なる面倒な愚痴や考え過ぎとして葬り去るとは思えません。語り手の真意を「知ろう」とし、かつまた「考え」ようとするでしょう。そして、その事実を知らされた自分のとるべき行動について覚悟を決めるのではないでしょうか?

それは必ずしも、いじめられている人の状況を改善するべく、共に、いじめる側に立ち向かうことを意味しません。

いじめを受けている人は、共に闘ってくれることを望んではいないと思います。誰かに話すことにより「あなただけでも私のことを疎外しないでいて欲しい」というささやかで必死の訴えをしているのです。それは、死の一歩手前の訴えかもしれません。

大勢が力になびいている時に、一人、少数派や弱者への態度を公平に保とうとする時こそ“教養”は試されるのだと思います。

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孤立しても、雄々しく、凛々しく、富士山のような独立峰でありたい。
それが、私の祈りです。


2007年3月10日(  晴れ



「雲上への階段」


地上の風景が暗いので夜景と見間違えそうですが、これは数日前の朝です。
雲間から光が射し降りています。
雲上への階段でしょうか。
「上って行きたい・・・」、そんな気持ちに誘われます。

テレビが壊れました。

毎日、何気なくスイッチ・オンして、観るともなしに眺めていたテレビ、
壊れてみると、あり余る時間を、いかに浪費していたかに気づかされました。
これまで、テレビに目と耳を奪われていた一時間二時間を新聞や本を読むことに費やすと、
けっこうな文章が読めることを再認識しています。

静かな時間を過ごしています。

とは言っても、もうテレビは必要ないとまでは言い切れない私です。
もう少しの間、テレビの無い暮らしをしてみることにします。


2007年3月6日(火)  曇り  ときどき  晴れ  一時 小雨



「ああ、恥ずかしい・・・」

先日、日曜日のできごと。

買物から帰って車から降りたところに、以前、管理組合理事をご一緒した顔見知りの男性が通りがかりました。この方は、いつも笑顔で挨拶してくださる方で、感じの良い人なのです。

わたし 「こんにちは〜」

知人 「こんにちは。か〜わいいねぇ〜」

わたし 「いやぁ〜・・・」(頭ポリポリの気持ち)

(かわいいって、ナニが?)と思ったのは束の間、即、自分のことを言われたと勘違い。嬉しそうに知人の言葉を間に受けてしまいました。でも、なんだか相手の表情がヘン。?????近づいてくるその人の視線を見て、私は「はっ!」としました。いやぁ〜だ・・・可愛いといわれたのは私の車のことだったんです(汗)

そうです、私の車は二人しか乗れない軽自動車で、しかも、デザインもすごく可愛らしいのです。

「可愛いでしょう、この車」  と、さりげなく会話を続行しようとしましたが、相手は私の受け止め間違いに気付いたようで 「いやいや、貴女もいつも元気だけど・・・この車、おもちゃみたいにかわいいね」とフォロー。

この年齢(とし)拾って、「かわいい」なんて言葉とは既に無縁でしょうに・・・ねぇ〜(爆笑)。それをアッサリと勘違いしてしまった私の厚かましさったら!!

あ〜あ、恥ずかしい!!のできごとでした。

 

2007年3月4日(  晴れ(霞がち)



「運命」

【運命】 人間の意志にかかわらず、身にめぐって来る吉凶禍福。めぐり合わせ。(岩波国語辞典より)

人の一生の傾向というのは、いつどこで決定づけられるのだろうか? 
そんなことに不思議を感じることがある。

私が中学生だったある日、掃除担当場所を決める学級会があった。決める方法はどんなものだったかは覚えていない。私は特別教室のどこかに決まったような気がする。

さて、全員の配置が終わろうとする頃、ある問題が発生した。一人の女子が、「私は、またトイレ掃除は嫌だ」と拗(す)ねている。彼女は前回もトイレ掃除だったのだ。

担任教師は困り果て、何とか彼女を説得しようとあの手この手の説得をしているが、「嫌だ」という女子生徒の気持ちには届かない。事態は長引きそうな雰囲気になって、クラス全体に嫌な空気が流れ始めた。誰かが替わってやればその場は収まる。それは、クラスの誰もが察していたに違いない。でも、自分ではない誰かがそれを引き受けてくれますようにという空気であった。

私はその頃、つるんで行動する仲間のいない、孤立した生徒だった。だから、トイレ掃除が二度連続して当たってしまったその子とも、友達関係でも何でもなかった。

その時どうしてそういう言動にでたのかはいまだにわからないのだが、「先生、私が替わります」と手を挙げてしまった。おそらく、その場の空気に耐えられなかったのだと思う。解決方法は分かっている。しかし、それを引き受けるのは自分以外の誰かであって欲しい。自分が、そう考える人間の一人であることが自分で許せなかったのかもしれない。

私がトイレ掃除を引き受けたことで、その場は収集した。教師は、学級会後にそっと「よく引き受けてくれたね。ありがとう」と言葉をかけてくれた。

こんな簡単なことでも、人を喜ばせることができる。それは新鮮な驚きであり、自分一人だけの内心に大きな変化をもたらしたように思う。このことは、その後、人生の分岐点に立つたびに方向を決定する判断の原点になっている。

自分を動かすとしたら、誰かが喜ぶことの為に、誰かが救われることの為にと、意識しているわけではないのに、結果をみるとそうなっていることが多いなあと思う。

けれど、人の嫌がることを引き受けることは、負担を背負うというマイナスなことばかりではない。私がこれまで、さまざまなことを経験し成長できたのは、まさに、人が避けるような仕事を引き受けてきたお陰だと、今ではハッキリと断言できる。

まさに、「情けは人のためならず」なのである。

今回、管理組合理事長を引き受けて、そんなことを思い出している。


2007年3月2日(金)  晴れ



「そのまんま」

↓に紹介した「ブとタのあいだ」という本の中では、「・・・比べるから苦しいんだ。右か左か、上か下か。どちらかに決めなくてはと葛藤しなくても、今あるがまま、そのまんまで在れば良い」と教えてくれます。

とかく人間は、何かを目指して、今の自分では駄目だと自己否定を繰り返します。はなはだしい場合には、自己否定したまま一生を終わりかねません。そうした葛藤の間にも限られた“生”の時間はどんどんと過ぎ去って行くというのに。


総理大臣になれていない自分でも駄目じゃない
女優になれていない自分でも駄目じゃない
有名企業の正社員になれていない自分でも駄目じゃない
気になるあの人に振り向いてもらえない自分でも駄目じゃない
今在る場所で無視されている自分でも駄目じゃない

何かが上手く行かないことと自分の価値とは関係ないんだ
そこに“そのまんま”の自分が居るだけでいいんだ

失敗した自分、成功した自分、けなされた自分、誉められた自分
だから自分が別ものになるわけじゃない
自分は自分のままなんだ

“比べない”って、難しいけどね

肩に力を入れなくても、
時は平等にみんなを運んでくれるんだ

そういうことなんだ


2007年3月1日(木)  晴れ



「こんな本を読んでいます」

漫画を読むのは苦手なので、この著者の代表作漫画「ブッタとシッタカブッタ」には目を通したことはないのですが、なぜか“シッタカブッタ”という語感が大好きで覚えていました。

先日、本屋さんである本に目が止まりました。

「読みたいな」と思いました。
「でも、買うのは止めとこう」と考えました。

心を語り、人生を語った本であるらしいのに、装丁や中身が、あまりにも楽しそうで簡単そうだったので、感動するような内容とは程遠いかもとか、あえて読まなくても「まっ、いっかー!」なんて、チラリと高をくくったりしたのです。そう・・・そのとき私は、外見や先入観に囚われて、判断していたのです。

でも、やはり、この本のことが気になっていました。

それから数日後、また本屋さんでこの本に出会いました。
パラパラとめくりました。
そして、買いました。

いま読んでいます。
買って良かったです。

その本のタイトルは 「ブとタのあいだ」 著者:小泉吉宏
↓これです

とても読み易く嫌味のない文章と、ところどころに挿入されている4コマ漫画が、ニンマリとした笑いを誘います。そして、何より、【深い】。

この本、重苦しい頭を軽くしてくれます。
おすすめです。

「ぶたもおだてりゃソクラテス」管理人ブッターの「悩める日々・迷える日々・考える日々」そして明日へと・・・