どうせ生きるなら、悩んだり苦しんだりしても、自分の頭で考えながら生きて行きたい by ブッター 「ぶたもおだてりゃソクラテス」
2007年1月31日(水) 晴れ とても暖かかった(桜の散る季節並みの気温) 「疲れたよ〜」 もう1月も終わりだって・・・早いなぁ〜 このごろとみに疲れてるよ〜 年齢のせいだと言われれば否定する根拠は何もない。確かに、長い年月を積み重ねてきたんだもの、ね。50年以上も春夏秋冬を繰り返していれば、見るものに新鮮さは感じられず、発生する物事の原因と結果もおおよその見当がつく。新しいことに挑戦する意欲のローソクも残り少なくなって風前の灯火。 な〜んて、わかった風な御託を並べていてはいけないということも、重々承知なんだけどね・・・ あまりにもひど過ぎる社会現象のあれこれに無力感を味わっている。 何とかしなくっちゃ! な〜んて、真面目に意気込むから疲れちゃうんだよね(でへへ) なるようになるさ! どうってことはないさ! 気持ちをおおらかに持って行こう。 |
2007年1月30日(火) 晴れ 「戸籍のない日本人」 去年の半ばに4歳の女児をスーパーのトイレに連れ込み下着を奪った罪で逮捕された埼玉県の20歳の男には、実は、戸籍がなかったというニュースが報じられている。 世界でも唯一の整備された戸籍制度を古くから拡充させてきたこの日本にあって、いまどき戸籍のない日本人がいたことに驚かされる。しかも20年前といえばつい最近ではないか! 戸籍のない男は、もちろん義務教育も受けず、幼児や児童・生徒が受けるはずの社会的な恩恵とも無縁だったはずだ。親は「教育を受けさせる金がないから」という理由で出生を届け出なかったというが、20年間も衣食住を面倒見ているのだから、いまさら、金の問題が無戸籍の最大の理由というのは理解しがたい。現に、12歳年上の姉には戸籍があるようだし。 それよりも何よりも、一人の子どもの存在に、周囲は気付かなかったのだろうか?それだけ世間が周辺のことに無関心になっているというか、あえて、隣近所には口をはさまないという風潮になったというべきか。この男は、生きていながら、社会的には透明人間だったわけだ。 まあ、出生届を出してくれても、その実の親から殺されてしまう子どものことを考えると、この青年の親の場合は単なる無知というべきか。 こんな社会制度の綻(ほころ)びも、いまの日本には存在するということに大きなショックを感じる。かつての「美しくて几帳面」だった日本は、今やズタズタのボロボロのように感じる。 戸籍の無いこの日本人の存在を20年間も気付けなかったこの国で、教育改革を話し合うなどチャンチャラおかしい。 おりしも、厚生労働大臣の「女は産む機械」発言が批難をごうごうと浴びているところだ。まったくもって、不見識で懲りないおっさん政治家連中だ!これで、ますます女性の出産意欲をそいでしまったことだろう。 子どもは望まれて生まれることが幸せの第一歩。親となる人たちが、子どもを望みたくなるような社会をつくるのが、少子化問題解決への端緒だと思う。「産めよ、産めよ」と札束で女の顔をひっぱたいても生まれる子どもの数が増えるわけがない。やれ児童手当だ、出産奨励金などという札束ではなく、「愛情、安心、安全」な社会が女性に産む決心を後押しするのだ。 それにしても、戸籍の無い20歳の日本人の存在は、この日本にあってこそ、大問題だと思う。 |
2007年1月28日(日) 晴れ のち 曇り 「健康情報」 病気は怖い。 死ぬのは、もっと怖い。 できれば、そのどちらも心配せずに暮らしていたい。 生きているならば誰しもがそう思っているに違いない。 そんな人々の心理を読んでか、このところ、テレビや新聞や雑誌などには「健康情報」が氾濫している。これだけ情報が溢れかえると、いちいち詳細を覚えていられないというのが本音。まして、それら全てを実行しようと努力すれば、その成果如何に一喜一憂するあまり、かえって病を引き起こしてしまいそうだ。 私は、健康情報に目を通すのが嫌いではない。むしろ積極的に見ているほうだ。だが、その情報を日常的に実行しようという気持ちはない。昔から「話半分」という通り、物事に“絶対”は無いと思っているし“普遍”もまた稀だと思っているから、それらの情報内容は適度に解釈を薄めて受け止めている。 ま、記憶能力が衰え始めたことと続ける根性に欠けているというのが真実だが。 先だって、フジテレビ系列放送の人気健康情報番組「発掘、あるある大事典」が番組制作において捏造を行ったということで放送打ち切りになった。ことの発端は(納豆)に関する健康データの捏造やアメリカの科学者インタビューを番組の都合の良いように字幕スーパーを入れたりしたことにある。 あの放送が流されて後の数日間、スーパーの納豆売り場では売り切れが続いた。毎日、山と積まれている納豆コーナーが見事に空っぽだった。私も、それで迷惑をこうむった一般消費者の一人である。夕方の買物時に、いつも当然あると思っている品物が、ある日突然売り切れしているのは困る。 特定の食品が健康に良いとテレビで言えば、その直後には店の棚からその商品が消えてしまう現象は、何もこの納豆が初めてではない。そのいずれの場合も数日または数ヶ月のうちには人々の関心は薄れて行くのが常だ。心配には及ばない、日本人の多くは熱しやすく冷めやすいのだ。 ただ、今回の話は少し事情が違う。 データの数字やインタビュー内容を番組の方向性に沿うように捻じ曲げてはいけない。病気や死に対する不安を利用して商売するなんて、もっての外だ。 真に健康な状態のモデルケースは無いと思う。日々新陳代謝を繰り返し、時々刻々と使い古されている身体には、何かしらどこかしら不全があって当たり前であろう。 今、さしあたって切迫した不具合が無いのであれば、あえて、溢れる健康情報に振り回されないほうが健康的に暮らせるのではないだろうか? |
2007年1月27日(土) 晴れ 「映画&テレビドラマ」 今日一日で、映画「幸福な食卓」と「魂萌え!」の二作品を観た。 夜は、テレビ朝日で、ドラマ「まだそんなに老けてはいない」を観た。 「幸福な食卓」に関しては、「魂萌え!」上映まで三時間の待ち時間を潰す為に観たに過ぎない。毎朝の食卓は家族が揃って朝食を摂るという習慣の家庭に起こる出来事が展開する。 「魂萌え!」は、平凡につつましく家庭を守って来た主婦が、定年退職して間もない夫に先立たれ、その後、どのような変貌を遂げるのかを描く。 「まだそんなに老けてはいない」は、これから始まる団塊世代の定年をテーマに、退職後の本人や夫婦のあり方を取り上げている。 「魂萌え!」は女性が主役、「まだそんなに老けてはいない」は男性が主役。その違いは内容と結果に大きな差をもたらしているように感じた。 どちらの場合も、一旦は、長年連れ添った伴侶以外の異性との恋愛感情に、いま再びの活力を見出そうとするところは共通している。しかし、結末は男女の違いが明らかになった。 今、社会は、今年の春から始まる団塊世代の定年退職の話題でもち切りである。平均寿命が延びた現在、一仕事を終えてからのまとまった人生をどう過ごすかのお手本は過去に習うことができない。 昔に比べれば格段に体力も経済力も備えて、今一度“ときめき”をと誰しもが思う。そんな“ときめき”を恋愛に求めるのが手っ取り早い話だろうことは想像に難くない。が、それは現実的な方向と言えるだろうか?若かりし頃の恋愛を思い起こして周囲を見渡しても、あの頃と同じような恋愛はできないだろう。 ゆとりの時間の過ごし方は、やはり、女性のほうが上手い。女性は楽しみを見つけることに長けている。男性は、そんな女性たちを恋愛対象として見るのではなく、ジェンダーを超えた仲間として付き合う意識を持てば、何やら楽しい定年後の時間が持てそうな気がするのだが・・・ これから、肩書きや社会的役割から解放される団塊世代の新しい挑戦が始まる。 しかし、今日の映画とドラマの三作品の中では「幸福な食卓」が一番良かったなぁ・・・ |
2007年1月25日(木) 晴れ 「強気の女」 「戦後、強くなったものは靴下と女」などという話を、今どき、どれくらいの人が実感としてとらえることができるだろうか? 靴下の質が悪くて、すぐに穴があいたり足首のゴムが緩んだりした時代、女は決して表立って動いてはならない存在で、常に男の陰にあってつつましく家族を支えることを本分とすべしということが社会的に当然のこととされた時代。そんなことは遠い過去のことで、いまさら持ち出す話ではないかもしれない。 今は、洋服も靴下も、安価なものをとっかえひっかえ、常に新しい物を身に付けることができる。品の良し悪しなど気にしないのかもしれない。 物が無くて貧しかった時代には、綻(ほころ)びは繕(つくろ)い、少ない衣料を工夫して身につけていた。一度手に入れた物は、修理修繕して大切に使った。 今はどうだろう? 確かに女は強くなった。発言もするし行動もする。それはそれで「おめでとう」なのだけれど、一方で何やら殺伐としてきたようにも思う。それを裏付ける一番の根拠は、女が、なかなか「ごめんなさい」と言わなくなったことにある。何も深刻な駆け引きの場面でのことではない。単純な事柄において明らかに非が女にあった場合でも、“強い”と言われる女ほど「ごめんなさい」と言わない。その結果、事態は険悪になる。 女の立場が軽んじられ虐げられる時代に後戻りしたいとは思わない。そうは思わないけれど、ひょっとしたら、あの時代の女のほうが賢かったのではないかと思うこともある。 貴女はいかがですか?「ありがとう」「ごめんなさい」が、ごく自然に言えますか?大切に思う人から大切に思い返されていますか? まさか、いつでも買い替えられる靴下と同じ扱いになってはいませんか? “強気”も時と場合によりけりですよ。 |
2007年1月21日(日) 晴れ のち 曇り 一時小雨 「始めに」 のんびり構えて、時の過ぎ行くままに「食っちゃ寝、食っちゃ寝」していれば、当然のことのように体重の折れ線グラフは右肩上がり。体は重くて動かしづらくなるわ、「休め休め」が続いた脳は、“考える”という本来の役割さえ放棄しようとしている。 このままで良いわけないよなあ〜 なんとかしなくっちゃ・・・ 仕事として考えるわけでなければ、結論は、必ずしも重要ではない。そもそも、人事(じんじ=人間に関する事柄。人間社会の出来事)や宇宙や自然に関する考察に、最終結論などあるだろうか? 思考の重要性は、その過程にこそある。そして、その過程こそ人生そのものとは言えないだろうか? 人間の不可思議さは、その肉体の死をもって彼の彼女の人生の最終結論とならぬ点にある。一人の人生の過程は、他の誰かしらがその考察を引き継ぎ、評価し、発展させて行く可能性を秘めている。言い換えれば、ある人間が“思考”したプロセスが、何十年、何百年、何千年を経てもなお生き続けるかもしれないということである。 ならば、せっかくこの世界に、意識と肉体を持って生まれてきたからには、できる限り多くのことを見聞し、自分なりに考えてみたほうが人生も充実しようというものだ。 というわけで、 このところ弛(たる)みきってしまっているという自覚のある私(わたくし)めも、ひとつ、日々の思考のあれやこれやを書き留めて行こうと思い立ったわけである。 「豚(私のことです)もおだてりゃソクラテス」に近づけるかも・・・ |
「ぶたもおだてりゃソクラテス」管理人ブッターの「悩める日々・迷える日々・考える日々」そして明日へと・・・